湖に満ちた水は澄み渡り、深い湖底の有様までも遜色なく映し出す。湖面は鏡の如く輝き、森の緑を、空の青さを、木漏れ日の金を揺らめかせる。花は甘い蜜を滴らせ、枝はたわわに果実を実らせ、昆虫達は短い恋の季節を謳歌する。本来ここは、そういった命の楽園だったはずだ。 だがムーンブルクの城と町がそうであったように、王家の湖もまた深く破壊の爪跡を刻み込まれていたのだ。 「実に醜い光景だ。このような場所は僕に相応しくない」 刺繍が施されたハンカチで鼻を覆い、コナンは心底不快げに湖から視線を外した。アレンは体を折り曲げて湖面に顔を近づけ、げぇと舌を出す。 美しき湖は魔物の体液やら糞尿やらによって毒の沼地へ変貌を遂げていた。奇妙な色の気泡が弾ける度、筆舌に尽くしがたい汚臭が辺りに漂う。 湖のほぼ中央にぽつねんと佇む小さな祠があった。距離があり過ぎて明視出来ぬが、わずかに突き出した屋根に獣らしき彫刻が見て取れる。それがグリフォンだと仮定するなら、捜し求めていたムーンブルク王家の祠に間違いない。 「祠ってあれだよな。泳いでくのか?」 「まさか。そんなことをしたら死んでしまう」 汚された水は肌を焼き臓腑を溶かす。こんなところを泳いだら祠に辿り着く前に肉体が腐ってしまう。 「あそこにラーの鏡があるのは確実なんだが……さて、どうするかな」 眉間に皴を寄せて考え込むコナンを尻目に、アレンは大きく伸びをした。頭脳労働はコナンの仕事、肉体労働はアレンの仕事、勇者の泉を出発してここに来るまでに、二人の役割分担は自然と決定されている。 「よっと」 アレンは手持ち無沙汰に足元の小石を拾って沼に投げ込んだ。どぷんと鈍い音を立てて拳大の石が沈んでいく。粘度の高い水面にはほとんど波紋が生じない。 気泡を一つ残して湖面はしんと静まり返った。 やや時間を置いてぼこん、と気泡が立った。何らかの沈殿物が刺激されたのだろうと、アレンはぼんやりそれを眺めた。ぼこん、と再び気泡が立った。石が水流で動いたのだろうと、アレンはまだそれをぼんやりと眺めた。ぼこん、と三度気泡が立った。泥濘に空気が閉じ込められていたのだろうと、アレンはまだまだそれをぼんやり眺めた。 しかし気泡は一向に収まる気配を見せず、それどころかどんどんとその数と大きさを増していくのだ。湖面が揺らぐほどの気泡がぼこぼこと立ち始めた時、アレンはそれをぼんやりと眺めているわけにはいかなくなった。 「おい、コナン!」 「うん……?」 一心不乱に考えごとをしていたコナンが顔を上げる。湖面に向けられた双眸が俄かに鋭くなった。 「何か……いるね」 「……来るぞ!」 アレンが柄に手をかけるとほぼ同時に、水面を何かが割った。 空に向かって長々と伸びた物体を、アレンとコナンはぽかんと口を開けて見上げた。 それは青黒い表皮をてらてらと輝かせ、鋭い牙の生えた顎から毒の息を撒き散らし、数十本に及ぶ鉤足を忙しく蠢かせる巨大なモンスターだ。 「兜、ムカデだね、これは」 「これが? このでっかいのが兜ムカデ?」 これまで二人は幾度か兜ムカデ相手に戦闘を繰り広げている。伸び上がればアレンの身長に並ぶ大きさだが、通常は地面を這っているのでさほど威圧感は覚えない。鋭い牙と毒液にさえ気を付ければそれほど恐ろしい存在でもなかった。 だが今二人の前に出現した兜ムカデの、その大きさはどうだろう。森の木々に比べても遜色のない幅と高さがある。 「何でこんなに育ってんだよ、こいつ……」 「生命の神秘だ」 巨大な兜ムカデを見上げて、コナンはしみじみと感嘆の声を上げるのだ。 「毒の属性を持つ兜ムカデが、沼の瘴気を吸い込むことによって更に強い個体になったんだ。現状に満足せずに常に進化を望む生き様、僕達も見習うべきだと思う。可能性に向かって前進し続ける姿は実に美しい」 「頭の回線どっか飛んでんじゃねーのかお前は!」 「失敬な! 頭のことに関しては君に言われたくない」 睨み合う二人の頬に、ふっと黒い影が落ちた。 双方地面を蹴って別方向に散った。彼等が着地するより早く、ずずんと鈍い音が響いて大地が揺れる。体勢を立て直しながら振り向けば、さっきまでいた場所に兜ムカデの巨大な頭が減り込んでいた。手っ取り早く二人を押し潰すつもりだったようだ。 「俺から行くぞ!」 「あ。アレン、君の剣では……」 コナンが制止するより早く、剣を翳したアレンが兜ムカデに跳びかかった。 「ぅぉら!」 満身の力を込めて垂直に突きたてた剣はしかし、甲高い音を立てて呆気なく弾かれた。 兜ムカデの装甲は強硬で、直接攻撃が効きづらいことは承知していたが、それにしてもこの個体の強度は圧倒的だ。衝撃が剣を伝播して両腕に鈍い痺れが走る。 「かって〜」 思わず剣を取り落としそうになったアレンは、右側から迫り来る影に対応するのが遅れた。 ぶん、と勢い良く振り回された兜ムカデの尾によって、アレンは横殴りに吹き飛ばされた。構える暇もなかったアレンの体は景気良く宙を飛び、うつ伏せの状態で地面に叩きつけられる。そしてその勢いを殺す術も持たぬまま、顔面で大地に長々と溝を掘った。 常人であれば首の骨を折って即死するところだが、何しろローレシア王家の人間はすこぶる頑丈に出来ている。アレンは何事もなかったかのようにむくりと起き上がり、土と鼻血に汚れた顔をごしごしと擦ると、戦闘意欲剥き出しにして怒鳴った。 「コナン! こいつちょっと硬過ぎだ! 先っぽでもいいから刺さるように何とかしろ!」 「どういう体をしているんだ君は」 驚きを通り越して呆れた声を上げるコナンの頭上に、兜ムカデがずいと伸び上がった。 魔物が牙を摺り合わせた次の瞬間、口の端にある突起口から液体が勢い良く迸った。それは空中で細かく分散して雨の如くコナンに降り注ぐ。 コナンは咄嗟にマントで体を被った。しゅうしゅうと耳障りな音を上げつつ、液体が降りかかった箇所に小さな穴が穿たれる。それは強力な毒液であるようだった。 「ああ! 僕が厳選したお気に入りのマントに多数の醜い穴が!」 コナンの瞳がぎらりと流星の如く輝いた。右手を高々と空中に突き出し、唇の内に魔術の詠唱を紡ぐ。 「ギラ!」 コナンが兜ムカデに向かって放った火の玉は、人間で言うところの眉間に激突炎上した。炭化した表皮がぼろぼろと剥がれ落ち、毒の臭気が入り混じった黒い煙が上り立つ。コナンは続けて三発の火球を放ち、全てを正確に同じ箇所に当てた。 「眉間の辺りがこれで薄くなったと思う! 後は君の素晴らしき馬鹿力でよろしく!」 「任せとけ!」 アレンは獣めいた咆哮を上げて兜ムカデに突っ込んでいく。 兜ムカデは地表ぎりぎりにまで頭を下げ、しゃりしゃりと牙を摺り合わせた。真正面からバカ正直に突っ込んでくる獲物を一撃で仕留める算段なのだろう。 唸りを上げて襲いかかる牙を、アレンは紙一重のところで跳んでかわした。地面に深く突き刺さった牙を足場に更に跳躍し、眉間に思い切り剣を突き立てる。 ギラで焼かれた表皮は本来の強度を失い、刃は容易く眉間に突き刺さった。 「ざまあみやが……うぉわ?」 勝利を確信したのも束の間、アレンは剣の柄を握り締めたまま空中に持ち上げられる。 「アレン!」 アレンを眉間にくっつけたまま、兜ムカデは生まれて初めて味わうのだろう激痛に頭をしっちゃかめっちゃかに振り回した。激しく頭を振り上げ、次に勢いよく振り下ろし、ぐるぐると弧を描いては大きく前後に揺れ動く。 「こいつ……」 この高さからこの勢いで振り落とされたら流石に無傷では済まなそうだ。アレンは剣の柄を握り直すと、ぶらぶら振り回される両足をぐいと引きつけた。表皮にしっかりと足の裏を押しつけ、体を低くしてチャンスが来るのを待つ。 斜めに縦に横に、めちゃくちゃに流れていた周囲の風景が不意にぴたりと止まった。そしてその一瞬後、全身の血が一点に集中するほどの勢いで体が上昇する。兜ムカデがいっぱいに体を伸ばしたのだ。 「食らえ!」 アレンは広く間隔を開けて両手で柄を握り締め、逆立ちの要領で足を持ち上げた。そうしてから腕の間に足を引き込む形で、靴底を思い切り柄に叩きつける。 ずっ、と音がして硬い表皮が裂けた。 アレンの体重を乗せた剣は、兜ムカデの眉間から背筋にかけてを一気に滑り落ちた。刃の通り過ぎた後には一筋の亀裂が走り、一瞬おいてそこから勢い良く体液が吹き出す。 「アレン! 離れるんだ!」 コナンの声に合わせてアレンは跳んだ。着地の体勢を整えるアレンのすぐ傍らを、巨大な炎の球が次々と通り過ぎていく。 深く抉られた兜ムカデの傷口に、ギラの火球が潜り込んで爆発を繰り返す。 圧倒的な強度を誇る魔物であったが、内部から肉体を焼かれては一溜まりもない。魔物が焼かれる独特の臭いを振り撒きながら、兜ムカデはそこら中をのたうちまわり、やがてぴいんと天に向かって直立すると、急激に力を失って湖に倒れこんだ。 一旦湖底まで沈んだ兜ムカデの体が、やや時間を置いてぽっかりと浮かび上がる。試しにコナンがギラの火球をぶち当ててみたが、長々と伸びたその体が再び動き出すことはなかった。 「この俺に勝とうなんざ百万光年早ぇよ」 アレンが意気揚々と剣を肩に担ぎ上げる。これまでにない巨大な魔物を屠った実績に、彼の尊大な鼻っ柱は益々強くなったようだ。 「君も無茶するな。あんな戦い方をしていたら大役を果たす前に死んでしまうんじゃないか」 「だって俺、直接叩く以外にやり方知らねぇもん」 「……まあ、終わりよければ全てよしと言ったところか。僕達の連携プレーも大分さまになってきたようだ」 「お前は全っ然体使ってねぇけどな」 「知性派の僕の武器はこっちだからね」 こめかみの辺りをとんとんと指で叩いて、コナンは毒の沼地の方を振り返った。 「見たまえ。あのように素晴らしい橋が出来たのも僕の予定通りだ」 「……偶然のくせによく言うぜ」 水面に長々と浮かぶ兜ムカデの屍骸は、ちょうど祠の辺りまで伸びていた。 |