緑滴る爽やかな季節にも関わらず、ムーンペタの町は重たく沈んでいる。 王都壊滅から二ヶ月。空気が張り詰めるような緊張感は和らぎつつあるものの、行きかう人々の表情は硬い。そこらで警備に当たる兵士の姿や絶えることのない具足の響きが、嫌でも非常時を思い起こさせるのだ。 敬愛する王家を失った悲しみもさることながら、ムーンペタの人々が憂うのは今後の生活だ。これから先、一体誰が彼らの安全と生活を保証してくれるのだろう。ムーンペタは独立して生きていけるほどの資源も労働力もない小さな町なのだ。 二人がムーンペタに到着したのは、町が最も和むだろう夕暮れ時だ。夕餉の匂いと薔薇色の光が全てを優しく包むこの一時、それでも町には拭い切れぬ影が落ちている。 二人の兵士に守られた町の門を潜るや否や、アレンは口の両端に手を当てて、声の限りに叫んだ。 「おおおーい、ムーンブルクのナナー! いるんだったら返事しろー!」 ぎょっとして振り返る人々に微笑みの貴公子的笑顔を振り撒きながら、コナンはアレンの首根っこを掴んで路地裏に引き擦り込んだ。 「何すんだよ!」 「それはこっちの台詞だ。何処に邪教徒が潜り込んでいるとも知れないのに、大声で捜索するとは何事だ。姫が生きていると知ったら叔父上が黙っていないことぐらい、君にだって想像つくだろう?」 「んなこと言ったって何の手がかりもねぇだろっ。犬だの猫だの芋虫だの全部調べる気かよ?」 「それは手間がかかり過ぎていささか美しくないね。芋虫だと寿命も短そうだし」 コナンが渋面を浮かべるのに、アレンはそれ見たことかと鼻を鳴らす。 「やっぱ呼ぶしかねぇじゃん。おーい、ムーンブルクの……」 「君の脳味噌はトーフか何かで出来ているんじゃないか?」 背後からぎりぎりとアレンの首を絞め上げたコナンが、不意に何かを思いついたように片眉を跳ね上げる。 「待てよ。叔父上が黙っていない……か。上手く利用すれば効率良く姫を探すことが出来るかも……」 「く、く、首、首絞まってるって……」 「あ、ああ、失敬。僕はついつい考えごとに没頭してしまうタイプでね」 コナンから解放されたアレンが、ごほごほと咳込みながら喉を押さえる。 「あー苦しかった。白い花畑で死んだお袋が手ぇ振ってたぞ」 「よし、アレン、派手に姫の捜索を始めよう。姫が生きているということ、同じロトの血を引く僕達が探しているということを町中に広めるんだ」 「……いきなり何だよ?」 「最低限の労力で姫をお助けしようと思ってね」 コナンは芝居っ気たっぷりに片目を瞑った。 薄汚れたムーンペタの裏地を子犬が懸命に駆けている。 首輪その他の装飾品は身につけていない。人々が精神的に追い詰められている今、野良犬に与えられる慈悲は乏しいのだろう。紅茶色の毛並みは埃に塗れてぱさぱさに毛羽立ち、痩せた体にあばらが浮き出ている。貧相で惨めな有様だった。 必死に走り続ける子犬の前に、二つの影が立ちはだかった。 青い石の煌く奇妙な仮面を被り、踝まで覆う法衣を纏った魔術師風の男達だ。法衣の胸元を飾るのは失墜する神の鳥、即ち破壊神シドーを崇める邪教のシンボルである。 子犬は邪教徒達の姿を認めると、慌てて踵を返して駆け出す。その小さな後ろ姿目がけて、男の一人が無慈悲にギラを放った。 炎が子犬を捕らえる寸前、脇道から飛び出した火弾が邪教徒のそれと激突して轟音を上げた。弾けた二つの魔術が花火の如く暗い空を彩る。 驚いて振り返る犬と魔術師の間に少年達が滑り込んだ。 「ご苦労。お陰で王女を探す手間が省けたよ」 右手に赤く燃える火の玉を宿らせたまま、コナンがふっと亜麻色の髪を掻き上げる。 「……このワンコがムーンブルクの王女? どう見たってただの犬だぞ?」 「こんな夜更けに邪教徒がただの犬を追い回すと思うかい?」 コナンはふてぶてしい笑みを湛えて昂然と邪教徒達を睨みつける。 邪教は古くから存在する宗教だが、ルビス教徒が大半を占めるこの世界で、信徒は稀に見かける異端的な存在だった。だがここ数年でその教えは野火の如く広まり、確実に信者の数が増えつつあるらしい。邪教が急速に力をつけ始めた背景には、カリスマに満ちた大神官の存在が大きいと聞く。 邪教徒は昼間は一般人としての生活を営み、夜になると仮面と法衣を纏って礼拝堂に赴く。今二人に対峙する邪教徒達も、明るいうちは害のない町人を演じているのだろう。 「君達の大神官は王女の存在を快く思っていないようだからね。生きているとの噂を聞けば、何らかの動きを見せると思っていたよ」 王女生存の噂を広めた後、コナンはふらりと姿を消して一晩帰ってこなかった。夜通し怪しげな界隈をほっつき歩き、ムーンペタに潜伏する邪教徒について調べてきたらしい。朝日の中を無意味に爽やかに帰ってきたコナンは邪教徒達の集会場を突き止めていた。 その日から三日、アレンは町外れの崩れかけた教会で見張りをさせられた。邪教徒が行動してくれた今日を限りに、ようやくあの退屈極まりないお役目から解放されそうだ。 「更に姫を変化させた魔術が邪神に基づくものなら、感知能力は君達の方が上だ。僕達は君達の後をつけるだけで、容易に姫を見つけることが出来たわけだ。正に完璧、正に芸術。僕に相応しい優美な展開だ」 べらべらと得意気に解説するコナンに、気色ばんだ様子で邪教の一人が跳びかかった。 コナンの手から迸った火の球は、一筋の光となって邪教徒の腹を貫いた。がくんと前のめりになった男の首を、稲妻のように走り出たアレンが勢いよく跳ね飛ばす。 生首が石畳を転がる様に、残された邪教徒は恐怖したらしい。喉に引っかかる悲鳴を上げるや否や、尻に帆をかけて逃げ出した。 「賢い選択だ。命を粗末にするのは美しくない」 すいっと人差し指を翳すコナンを背に、アレンは犬に歩み寄った。 何処にでもいるような、何の変哲もない普通の子犬である。怯えきった瞳はきれいな紅色をしていて、それが雨の血筋を感じさせなくもなかったが、それだけのことでこの犬が王女だとは信じがたい。 「アレン、ぼーっとしていないでラーの鏡を」 「え? あ、そっか」 半信半疑のまま、アレンは荷物からラーの鏡を取り出した。 美しい円形の鏡である。磨き抜かれた白銀の土台には精霊語が細かく刻み込まれ、親指の爪程の大きさをしたサファイアが八つ嵌められている。中央部分の鏡は白く濁っていて何も映らなかったが、その表面には時折金色に輝く魔力の筋が走るのだ。 「ホントにこんなもんでどうにかなんのかよ」 犬に向かって無造作に鏡を突き出した瞬間、銀色の閃光が音もなく爆発した。 「うわっ」 網膜を焼き尽くすかの如き光が、薄暗い路地を白々と染める。 鏡が砕ける甲高い音が響くが、それを確かめるため目を開けることも出来ない。二人は目蓋を閉ざし、両手を眼前に翳して光が収まるのを待った。 光が闇に飲まれた頃を見計らい、アレンとコナンはゆるゆると目を開いた。 先ほどまで犬がいたところに一人の少女が座っている。 瞳は紅玉、唇は珊瑚、肌は雪化石膏。勇者の血を引くムーンブルクの王女は、白い薔薇を思わせるような可憐な美少女だった。薫り高く鮮やかに咲き誇るようにと愛情と期待をたっぷりと与えられ、柔らかく露を含む蕾にまで成長した王女は、焦点の合わぬ目でぼんやりと虚空を見つめている。 すみれ色の艶を帯びた銀の巻き毛が、あるかなきかの風に揺れて肌の上を踊る。犬から元の姿に戻ったのだから、当然衣類を一切身に着けていない。 アレンはかあああっと赤くなって俯いた。コナンは素早くマントを外すと、それを少女の肩にかけながら問う。 「君はムーンブルクのナナ姫だよね?」 少女はぼうっとコナンを見つめ、操り人形のようにかくんと頷いた。 「……あなた……誰?」 「僕はサマルトリアのコナン。そこで突っ立っている気の利かないのがローレシアのアレン。君と同じロトの末裔だよ」 「ああ……」 ナナはゆっくりと睫を上下させた後、ゆるゆると首を振った。額を押えて俯く横顔はひどく苦しそうだ。 「……大丈夫か?」 とりあえず肌が隠れたので、アレンは内心汗を拭いながらナナの前に片膝をつく。ナナは小さく頷いた。 「……あたし、どうしてこんなところにいるかしら……」 アレンとコナンは顔を見合わせ、今一度ナナを見た。 「何も覚えてないのか?」 「……黒い光、真っ赤な火柱……あたしを抱えて回廊を走る人……それから……」 意味のなさぬ言葉をぶつぶつ呟き出したと思いきや、ナナは滑らかな眉間にぎゅっと皺を寄せる。そして耐えられないというように固く目を閉じた。 「……ごめんなさい。頭の中に何かの塊が詰まってるみたいで、上手くものが思い出せない」 「無理をしなくていい。まずは宿に戻ろう」 「ぼーっとしちまって、大丈夫なのか、こいつ?」 地面を見つめたまま微動だにしなくなったナナに、アレンが小さく眉を顰める。 「肉体を外的力で歪められていた負担は計り知れないよ。思うように体が動くには少し時間がかかるはずだ」 コナンはナナを抱きかかえながらそう答えた。 |