双子の塔と空飛ぶマント<5>


 次の瞬間、一階の床から五階の天井にかけてを、強烈な突風が轟音と共に走り抜けた。風というより空気の塊に近いそれは、天井に阻まれて行き場を失い、八方に散って好き勝手な方向に走り出す。圧倒的な風の力が、狭い空間をめちゃくちゃに掻き回し始めたのだ。
「うわっ!」
「きゃー! 何よこれぇ!」
 風に抵抗しきれない小さな魔物達が、空中に投げ出されたのち壁や床に叩きつけられて絶命する。はためくローブを必死で抑えつつ、ナナがからからに乾いた声を上げた。
「か、風の竜ってこれなんだわ……」
「ああ? これって何だよ?」
「だからこの風よ! 嵐の突風が塔を立てた人達の神様だったのよ! こうやって塔の中に風の竜をお招きして、魔物を供物として捧げてたんだわ!」
「め、迷惑なこと考えやがって……」
 古代の民を毒づいてみるものの、それでこの厄介な現状が打破されるわけでもない。
「とにかくここを出ないと僕達まで供物だ。僕は神に愛でられるために生まれてきたのであって、供物になるために生まれたわけでない。急ごう」
 最上階への階段はあとわずかな距離にあった。吹き抜け構造になっているのは五階までだから、その階段さえ上れば風から逃れることが出来るはずだ。
 階段を目指してそろりそろりと移動を開始したその時、横殴りの突風が何の前触れもなく彼らを襲った。
「きゃあっ!」
 ナナの体重で耐え切れる力ではなかった。よろめくナナの体が、続く突風によって虚空へと投げ出される。頼りなく浮かんだ靴の下に広がるのは、冷たく硬い石の床だ。
「……っ」
 足掻くナナの指が、虚しく空を握り締めた。
 その小さな拳を、寸でのところでアレンの大きな掌が捉えた。足場から大きく身を乗り出したアレンが、更に精いっぱいに腕を伸ばしてナナを捕らえたのだ。そのままでは落下してしまいそうなアレンのもう片方の手は、コナンが握り支えている。
「そっちの手も掴まれ! 吹っ飛んだら終わりだぞ!」
「う、うん!」
 ナナがアレンの手を取ろうとした瞬間、凄まじい轟音が辺りを揺るがした。驚いたナナは思わず手を引っ込めてしまい、その拍子に繋いでいるもう片方の手まで滑り抜けそうになる。
「んっ……」
 全身を滝のように汗が流れていく。ナナはべとべとになった掌を必死に延ばして、やっとの思いでアレンの袖口を握り締めた。
 そうしている間にも轟音は繰り返し鳴り響く。無数の窓から吹き抜けていく風が、笛の原理で音を鳴らしているのだ。
「……これがナナの言ってた竜の咆哮かっ」
「ったく面倒な塔だな!」
 耳を塞ぐことも出来ないアレンが舌打ちをする。
 聞くものの鼓膜を破らんばかりの音量で、塔は何度も咆哮を上げた。地を揺るがし、海を裂き、天を破らんばかりのそれは、正に竜の雄叫びだ。
「……つっ!」
 突如アレンの肩口から血が吹き出した。先程マンドリルに噛まれた傷が完全に塞がっておらず、無理な力が加わることによって再び開いたらしい。
 指先まで痺れるような痛みにアレンは唇を噛んだ。傷のことのみならず、こんな無理な体勢が何時までももつわけはない。
「コナン! 一気に引くぞ! タイミング合わせろよ!」
 竜の咆哮に負けじとアレンが叫ぶと、コナンもまた大声で答えた。
「了解! ……一、二の……三!」
 コナンが渾身の力でアレンを引っ張るのに合わせて、アレンもまた一気にナナを引き寄せた。吹き上げた風に乗ったナナの体は予想外に軽く、アレンは勢い余って仰向けに引っくり返る。
 繋いだ手を支点としてナナがくるんと空中で回転する。背中から床に叩きつけられんとしたナナの下に、咄嗟に床を蹴ったコナンが滑り込んだ。
「ご、ごめんコナン、大丈夫?」
 コナンの頭に思い切り尻餅をついてしまった。慌てて飛び下りて謝るナナに、コナンは余裕めいた微笑みを浮かべながら髪を掻き上げる。
「勿論平気だとも。僕は生まれてついてのナイトだからね」
 だらだら滴り落ちる鼻血の所為で、何時もの仕草も決まらないコナンだった。
「次に風が来る前に出るぞ」
「賛成だ。この塔の荒れようは静寂を好む僕には相応しくない」
「うん。……でもその前に」
 ナナは掌を翳してアレンの傷口とコナンの顔にベホイミをかけた。


 三人が最上階に辿り着いた頃、短い嵐は東の空に去りつつあった。分厚く天を覆っていた雲がところどころ切れ、その亀裂から幾つもの光の筋が伸びている。
 雨は降り続いているが、風は大分治まったようだ。
「アレン、風のマントを渡しておくわ。体の重いアレンの方が上手くコントロール出来ると思うの」
 アレンは風のマントを受け取り身に纏った。マントは軽く柔らかく、纏っていてもその実感がほとんどない。こんなもので本当に空を飛べるのかと、今更ながら不安になってくる。
「それにしても凄まじい高さだ。落下したら確実に死ぬな」
 遙か眼下に広がるのは白波を蹴立てる海峡とその両端を囲むでこぼこした岩場である。岩に落ちればその衝撃で体がばらばらになるだろうし、海に落ちれば荒波に揉まれて海底に沈められるだろう。
「ここから飛ぶのかぁ……」
 風に煽られる髪を首の脇で押さえつつ、ナナがごくんと喉を鳴らした。塔の下を覗き込んでいた赤い瞳が、つと宙を泳いでアレンの纏うマントに止まる。
「……大丈夫かなぁ……」
「今更んなこと言うな!」
「だって、いざとなるとやっぱり怖いんだもん!」
「魔術は絶対だから大丈夫って散々言ってたくせに……」
 アレンが唇を尖らせたその時、魔物の咆哮が背後で響いた。
 塔内の嵐が治まりつつあるのか、内部へ通じる階段を登って、魔物達が最上階に姿を見せ始めた。魔物の数に再現はなく、恰も海面に生じる気泡の如く次から次へ浮かび上がってくるのだ。三人の周囲は静かに埋められつつあった。
「これ以上魔力を使ったら死んじゃう」
 杖を構えたナナが低く唸れば、コナンもふうと疲れた溜息をついた。
「限りある魔力で如何に効率良く魔術を使うか、そこが魔術師の腕の見せ所。だが悲しいかな、如何な天才にも限界というものがある」
「頼りにならねぇなぁ、お前ら」
 舌打ちするアレンだって実のところもう限界だ。剣を握っていた掌はじんじんと痺れ、砂袋でも背負わされたかのように全身が重い。これほど長い時間、休息らしい休息も取らずに剣を振り回し続けたのは初めての経験だった。
 じりじりと魔物達が詰め寄る。じりじりとアレン達が後じさる。
「もう後がないわよ」
 緊張に掠れた声が背後から囁いた時、アレンは腹を括った。
「飛ぶぞ」
「それしかなさそうだ」
「その為に来たのは分かってるけど、でも」
「ごちゃごちゃ言ってる暇ねぇ、いくぞ!」
 アレンはくるりと踵を返し、右手にコナンの腕を、左手にナナの手首を取った。そして有無を言わせぬ力で仲間達を引き摺りながら、外壁から勢いよく宙に向かって飛ぶ。
「うわっ!」
「ちょっとおおおお!」
 海峡から吹き上げた風が三人を包み込んだ。
 強風を孕んだマントは何倍にも膨れ上がり、仄かに白い輝きを帯びた。すると落下の一途を辿っていた三人の体がふわりと柔らかく風の上に乗ったのだ。海鳥から抜け落ちた羽のように、末裔達の体が緩やかに空を渡りだす。
「あ……」
 霧のような雨に太陽の光が差込み、彼らの行く先に大きな虹が架かった。
 マントは少しずつ高度を落としながら海峡を越え、ルプガナ大陸の草原にそっと彼らを軟着陸させた。ふわり、と最後の風の力を出し切るように大きく膨れると、マントはそのまま萎んで小さくなる。布を包んでいた白い輝きは、水滴のように零れ落ちて空中に散じた。
 三人は未だ緊張の残る顔を見合わせ、次に視線を落とし、次に爪先で土の感触を確かめた。揺るぎない大地に戻ったことを実感すると同時に、どっと疲労が圧しかかってくる。
「あ、あたし達、ちゃんと生きてるわね……」
「空の旅というからもう少し優雅なものを想像していたが、あまり楽しくなかったな。もっと余裕を持って楽しめる物事の方がいい」
 乱れた髪を整えるコナンとぐったり疲れた顔のナナを見て、アレンはにかっと歯を見せて笑った。
「ちゃんと渡れて良かったな!」
「あ、あんたね……」
「アレン、行動を起こす時には確認を取ってからにしてくれないか。相手の意思を尊重しない行動はあまりに身勝手で美しくない」
「んな暇なかったろ」
 アレンはほんの数分前までいた塔を振り返った。海峡を隔てた銀色の塔の上に、もぞもぞと蠢く魔者達の影が伺える。獲物を追い駆けようとした数匹はバランスを崩して落下し、岩盤の上で熟れた果物のように潰れた。
「それにしても今日は吹き飛ばされたり落っこちたり、実に慌しい一日だった」
「スリルあって楽しかったじゃん」
「ちっとも楽しくなんかないわよ」
 顔を顰めたのち、ナナはこほんと咳払いをし、澄ました顔で頭を下げた。
「アレン、コナン。塔の中では助けてくれてありがとう」
 何時もきゃんきゃんうるさいばかりのナナに頭を下げられ、アレンは戸惑い、コナンは微笑んだ。もごもごと口を動かすばかりのアレンとは対照的に、コナンは白い歯をきらきらさせながら優雅にその言葉を受け取るのだ。
「レディを守るのはナイトの勤め。男として生まれた以上、常に美しく誇り高いナイトでありたいからね。君もそうだろう、アレン」
「一緒にすんな」
 アレンは風のマントをぎゅうぎゅう荷物に押し込めながら西の方角に目をやった。緑鮮やかな草原の向こうに町並みが伺える。恐らくあれが目的地のルプガナだ。
「日が暮れる前に町へ急ごうぜ。俺、腹減った」
「そうだね。今夜はゆっくり汗を流して、暖かいベッドで疲れを癒そう」
「何か甘いもの食べたいなぁ」
 何時になく和やかな雰囲気で三人が歩き出した。
 思えば初めて三人で乗り越えた試練だった。こうやって数多の障害を乗り越えていくうち、血の繋がりを越えた何かが見えてくるかもしれない。
「あーそうそう、お前さあ」
 ルプガナ街道に足を踏み入れた時、アレンがふとナナの方を振り返った。
「もう夏なのにモモヒキ履いてんの? 暑くねぇ?」
 モモヒキではなくドロワーズだ。尤もその違いをアレンに理解しろという方が無理である。
 さあっと青ざめるナナの中で急速に殺気が膨れ上がる。数歩後ろにいたコナンが額を押えて天を仰いだ。


 一度強くなった絆が、余計な一言でちょっぴり弱くなった。