大富豪と魔の海域<2>


「ああ、何てことだ。美しい白磁の肌に傷が」
 コナンはホイミを唱え、きらりと白い歯を光らせて微笑んだ。
「魔力波動から察するに、この町の魔除けはいささか古いようだ。魔物も日々進化をしているから旧式の魔方陣構成では弾き切れない種も出てくる。町長に訴えて、一旦魔方陣を組み直した方がいい」
 少女はこくりと頷き、ようやく感情の戻ってきた目をぱちぱちと瞬かせた。
「た、助けてくれてありがとう……。もうだめかと思ったけれど、わたし、運がいいようね」
「君を救うことが出来た僕の方こそ運がいい」
 少女はトマトのように赤くなってぷいと顔を背けた。その拍子に空き地を向いた双眸が、すっと不安げに顰められる。
「あの人大丈夫なのかしら?」
 振り返れば、崩れた木材から突き出たアレンの足が必死で空を掻いており、それをナナが呆れ顔で眺めている。あまりに無様な光景にふっと溜息を漏らした後、コナンは何も見なかったことにして少女へ向き直った。
「彼はこの上なく頑丈に出来ているから心配はいらない」
「そう……?」
 少女はカタリーナと名乗った。どうにか自力で脱出してきたアレンやナナにも礼を述べた後、改めて風変わりな三人をじろじろと観察する。
「あなた達、旅の人なのね。ルプガナは初めて?」
「さっき着いたばかりよ。アレフガルドに渡るつもりだったんだけど、定期船、止まっちゃってるのね」
「船が欲しいの?」
 ナナの言葉に、カタリーナは俄然目を輝かせた。
「だったらわたしの家に来てお祖父様に会ってちょうだい。お礼と言っては何だけれど、船の一隻や二隻、用意してもよくてよ」
 あまりに突飛な少女の申し出に、三人は思わず顔を見合わせた。身に纏っているものや雰囲気から判断するに何処ぞの令嬢らしいが、謝礼に船一隻とは大きく出たものである。
「船が用意出来るまでわたしの屋敷に滞在するといいわ。町の宿なんかよりずっと快適で居心地がいいから」
 三人がうんともすんとも言わないうちから、カタリーナはてきぱきと物事を決定していく。辞退されるとか拒否されるとか、そういう類の文字は彼女の辞書にはないようだ。
「しかしカタリーナ、初対面のあなたにそのようなことを……」
「あなた達はわたしにとって、初対面であると同時に命の恩人ではなくて? 恩人に恩返しをしたいと思うのは自然なことよ。わたしのお祖父様はそういうところにとても厳しいから、このままあなた達にお礼もしないとあっては、わたしが叱られてしまうわ」
 口角を吊り上げて挑戦的に微笑んだ次の瞬間、きゅっと眉間に皺を寄せる。くるくると、猫の瞳のように表情を変える娘だった。
「今日の夕飯は何がいいかしら? うちのコックはとても料理が上手だから、あなた達の舌と胃を必ず満足させてあげるわ」
「飯?」
 アレンがぱああっと顔を輝かせた。一番星が瞬き始めるこの時刻、アレンの底なし胃袋は既に空っぽのはずだ。
「魚の揚げたの食いたい! ここ港町だから魚美味いだろ? 俺、魚大好きなんだ!」
「お安い御用よ。テーブルを埋め尽くすくらいのフライを並べてあげてよ」
「わーい」
「わーい、じゃない! 君ときたら、食べ物が絡むとただでさえ乏しい状況判断能力が皆無になるから困る。後先考えない君の言動に、僕やナナがどんなに迷惑しているか……」
「あたしも魚のフライだーい好き。ねぇねぇ、お風呂も貸して貰える?」
「勿論。大理石のバスタブに薔薇のエッセンスを入れて、ピンクの花びらを散すのはどうかしら?」
「わーい」
「……」
 結局、魚のフライに釣られたアレンと、乙女な風呂に目を輝かせるナナに抗い切れず、コナンもカタリーナの好意に甘えることとなった。


 大商店街を通り抜け、三人はカタリーナの先導の下高級住宅地へ足を運んだ。
 港から遠く離れたそこに喧騒は届かず、夕焼けに抱かれながら全てがまどろんでいるかのようだ。閑静な住宅街中央に伸びた緩やかな坂道の両側には、広い庭を持つ瀟洒な屋敷が整然と並んでいた。ここに住む大部分の人間は貿易を生業とする商人で、豊かな財力を惜しげなく注ぎ込んで、それぞれ趣向を凝らした屋敷を建てたという。
 坂道を登りきった場所、住宅街の最も奥まったところにあるのがカタリーナの屋敷だ。異国風の宮殿を髣髴とさせるような一際豪華な建物を前に、三人はあんぐりと口を開けた。
「すっごーい。立派でおしゃれなお屋敷ね。あなたってばお嬢様だったんだ」
「君のお祖父さまも貿易関係のお仕事を?」
 カタリーナは得意げに頤を持ち上げた。
「一度はお父様に家督を譲って引退されたけど、お父様が事故で他界してからは、また現役の貿易商として働いていらっしゃるわ。貿易商のヘルマンといえば少しは有名なんだけれどご存知?」
「君のお祖父様があの、貿易商のヘルマン氏か……」
「知ってんのかよ?」
「港で捜索船を見ただろう? あれはへルマン氏の持ち船だ」
 カタリーナの祖父は、一代で巨万の富を築き上げた世界に名だたる貿易商だ。武器、防具、布、陶器、様々な品物を手広く扱っているが、彼の財をここまで大きくしたのは東の国で入手した一握りの香辛料だったという。独特の香りと風味を持つそれが王侯貴族のグルメブームの波に乗り、彼の名は瞬く間に六つの大陸と五つの海に轟くこととなったのである。
 三人は雰囲気のいい応接間に通され、薫り高い紅茶とさくさくした黄金色の焼き菓子を振舞われた。さほど待つこともなく、カタリーナに手を引かれて小柄な老人が姿を見せる。
 カタリーナよりも一回り小さい老人は、三人に丁寧に礼を述べた後、孫娘に助けられながら椅子に腰かけた。その顔にはクルミのように皺が寄り、彼が過ごしてきた年月の長さを物語っている。
「あなた様方は旅の途中でルプガナに立ち寄られたとか。船がご入用と孫娘から聞きましたが……」
「初めてお会いする方に、このような申し出は不躾と承知でお願い致します」
 コナンは居住まいを正してヘルマンを正眼に見据えた。ルプガナ一の貿易商と接点を持てたのだ、千載一遇のこの機会を逃す手はない。
「船を手に入れる便宜を図っていただけないでしょうか。生憎今は持ち合わせがありませんが、必ず代金をお支払いたします。僕達の保証人になっていただきたいのです」
「とんでもない。船なら私がご用意させていただきます」
「そこまでしていただくわけには参りません」
 ヘルマンの申し出にコナンはきっぱりと首を横に振る。
 三人には王族としての矜持があった。彼らの中で尤も王族としての意識が薄いアレンでさえ、ただで船を施してもらおうとは思わない。彼等は常に与える側であり、与えられる側ではないのだ。それはこれまで受けてきた教育に形成された、どうにも変えがたい思想の根本だった。
 コナンの頑固な眼差しにヘルマンは困惑したようだ。彼のような豪商にとって船を一隻用意するなど容易いことだろうから、相手が孫娘の恩人となれば、贅の限りを尽くした最上の船を準備する心積もりだったに違いない。
 コナンは意見を翻す気はなく、ヘルマンも譲る気配を見せない。話し合いは何処までも平行線を辿るかに思われた。
「……それではこういう代案はどうでしょう」
 疲労が空気に滲み始めた頃、コナンがふと視線を持ち上げた。
「こちらでは近いうち捜索船の出港を控えていらっしゃると伺いました。海には魔物も多く、船乗りの方々では対処仕切れない危険もあるでしょう。僕達にお手伝いをさせていただけませんか? 船乗りの方々を無事に守りきれたあかつきに、報酬として船をいただきたいのです」
「恩人であるあなた様方にそのようなことは……」
「あ、それいいな。それだったら俺にも出来るし!」
 アレンがにかっと白い歯を見せれば、ナナも真摯な面持ちで頷く。
「わたし達のお手伝いが船の代価に相当するのか分からないけど……一生懸命お手伝いさせていただきます」
「どうか了承してくださいませんか? このままだと僕達は船を手に入れるのに他を当たらなくてはならなくなります」
「……」
 しばし沈黙した後、ヘルマンはようやく首を縦に振った。


 捜索船の出港は二日後の早朝だという。三人は出発までの時間をヘルマンの屋敷で過ごすことになった。
 アレンの希望通り魚尽くしの夕食を終えた後、三人はそれぞれ豪華な客間に通された。深い瑠璃色の毛足の長い絨毯、どっしりとしたビロードの緞帳、東洋風の彫刻が施された調度品。そのどれもが一目で最高級の品物と分かるものばかりだ。
「ここんちの風呂、すげぇ広さだな。泳げるぞ」
 ほこほこと湯気を立てながら、アレンが上機嫌でコナンの部屋を訪れた。一人でいるのは退屈らしい。
 先に入浴を済ませて髪を整えていたコナンは、じろりと剣呑な眼差しをアレンに向けた。
「躾のなっていない子供のような行動は慎みたまえ。行儀の悪い」
「たまにはいいだろ、いっつも宿のちっちゃな風呂で窮屈な思いしてんだからさ」
 短い黒髪をわしわしと拭きながら、アレンは断りもなくソファに腰を下ろした。
「なあなあ、もう二十隻以上の船が行方不明になってるってへルマンさんが言ってたよな。これって魔物の仕業かな?」
「今の状況では何とも言えない」
 コナンは姿見と手鏡で髪型の最終チェックに取りかかる。
「何にせよ碌なものが待ち受けていないと思うから、装備と気持ちの準備はしっかりとしていった方がいい」
「捜してる船って、何か大事なもんでも積んでたのかな」
「捜索船の準備だけでも相当の金と手間がかかっていそうだ。それ以上の金銭的価値がある宝か……金では換算できないような大切な何か、かな」
 コナンが手鏡を伏せた時、とんとんとドアがノックされた。
「コナン、今いい? アレンもいるんでしょ?」
 いいともだめとも返事をしないうちから、ナナが扉を開けて入ってくる。ふわふわとした桃色の薄物を身にまとい、腰まである巻き毛を緩く三つ編みにした彼女は、もうすっかりと寝支度を整えている風だった。
「こんな時間に何の用だよ?」
 自分のことをきれいさっぱり棚に上げたアレンが尋ねると、ナナはひょいと首を竦めて見せた。
「用事があるのはあたしじゃなくてカタリーナ」
 扉が更にぐいと開いて、戸板の向こうからカタリーナが姿を現す。勝気な弧を描く眉が挑むように持ち上がった。
「聞いて欲しい話があるのだけど、少し時間をいただけるかしら?」
「君のためなら喜んで。……アレン、レディ達にそこを空けたまえ」
 コナンは犬にそうするようにアレンをしっしと追い払う。
 革張りのソファに浅く腰かけて、カタリーナは改めて二人の少年を見比べる。ランプの明かりを受けて煌く瞳には、わずかな翳りが見て取れた。