大富豪と魔の海域<3>


「お祖父様のお手伝いを申し出てくれてありがとう。魔物が多い海域だから、あなた達についてきてもらえると心強くてよ」
「差し支えなかったら教えて欲しいんだけど……ヘルマンさんが探している船って一体何なの?」
 偶然か必然か、ナナが先ほどアレンとコナンが語っていたのと同じ疑問を口にする。ナナの質問を受け止めて、カタリーナは待っていたかのように頷いた。
「行方不明になった船にはわたしのお兄様が乗っていたの。わたしとは十二も年が離れていて、とても頼りになる方だったわ。お父様が亡くなった後、お祖父様はお兄様を跡継ぎにしようとしていらしたんだけど……」
 カタリーナの兄のタシスンは、ヘルマンの期待を一身に背負った貿易商の卵だった。
 ヘルマンは海難事故で息子を亡くした後、孫のタシスンを連れて世界を回った。幼いながらも貿易商としての自意識が確立させつつあったタシスンは、ヘルマンの教えをよく守り、聞き、忠実に従った。二人の志は一つで、目指すところは常に一緒だった。
 しかしある出来事をきっかけに二人の関係が変化する。
 航海の途中給水のため立ち寄ったザハンという島で、タシスンが漁師の娘と恋に落ちたのだ。
 それはヘルマンにとって許しがたい裏切りだった。世界を勇躍する貿易商に相応しい婚姻を結ばせるべく、ヘルマンはタシスンと貴族の娘との婚約話を内密に進めていたのだ。
 二人の仲を裂こうとすればするほど、タシスンは頑なに反発してきた。幼い頃から何事にも従順だった孫の反発にヘルマンは困惑と狼狽を隠せない。食事のたび、航海の打ち合わせのたびに口論となり、親子も同然だった二人の距離は急速に離れていった。
 ヘルマンが感情に任せて厳しく叱咤したある夜、タシスンは屋敷を飛び出し、海を渡ってそのまま戻ってこなかった。
 二年ほど経った頃、子供が生まれたとの知らせが届いた。嬉しげな文字が躍る白い便箋をヘルマンは一読しただけで破り捨てた。勿論返事は書かなかった。
 タシスンから手紙が届くだけの一方的な文通は二年続いた。月に一度届いていた手紙がある日何の前触れもなくぱたりと止み、それから半年後にタシスンの妻と名乗る女から一通の便りが舞い込む。
 タシスンの乗った船が、ルプガナ北東の海域で行方不明になったとのことだった。
「お兄様はお祖父様に贈る船首像を運ぶ途中だったと後から知らされたわ」
「船首像?」
「その船首像を頂いた船で、お祖父様とまた仕事をしようと思っていらっしゃったみたい。お兄様はお祖父様と仲直りするためにルプガナを目指して……その途中に行方不明になられたの」
「……ヘルマンさんには辛い話ね」
「三年前の話だから、どう考えてもお兄様は亡くなっているわ。あの船は捜索線というより引き上げ船ね。お祖父様は、お兄様の船首像を引き上げるために海に出るの」
 淡々と、敢えて感情を抑えたような声でカタリーナは語り続ける。
「お兄様の訃報を聞いてから、お祖父様の頭は捜索船のことでいっぱいなのよ。お義姉さまの手紙を読んだあの瞬間に、お祖父様の時間は止まってしまったんだわ」
「故人を偲ぶのは尊いがそれに縛られては美しくない」
 滑り込ませた声は、コナンが自分でもびっくりするほど硬質だった。誰にも悟られぬように小さく舌打ちしてから、コナンは敢えて平坦な口調で続く台詞を口にする。
「船を見つけることでヘルマンさんの心に踏ん切りがつくというのなら、僕達は喜んでお手伝いをしましょう。生きた人間を大事にしなくてはならない」
 肘掛に頬杖をついたアレンが眉を聳やかせる。
「死んだ奴を弔ってやんなくてもいいのかよ?」
「勿論それも大事なことだ。だがアレン、死者を見送る葬儀もその後の祈りも、結局は残された者達の心を慰めるためのものなのだと僕は思っている。魂は死んだその瞬間に精霊神ルビスの絶対の守護を受けて安息の園へ召されるんだ。人間の弔いにそれほど意味があるとは思えない」
「……コナンってば、一応司祭様の経験があるのよね?」
 ナナが呆れた溜息をつくのに、コナンは意識的におどけた表情を見せた。
「僕の意見に大司祭や神官長が苦虫を潰したような顔をするのはなかなか見ものだよ。サマルトリアに寄る機会があれば君達にも見せてあげよう」
 コナンはきゅっと唇の端を持ち上げる。アレンやナナと同じ血筋だけあって、コナンも型通りの王子ではないというわけだ。


 コナンはカタリーナを自室に送った後、客間の扉の前までナナに付き添った。確実に安全が保証されているヘルマン邸内で彼女達を部屋まで送る理由は簡単、彼が生まれながらのナイトだからだ。
「ねぇコナン」
 ドアノブに手を掛けたナナが振り返った。仄暗い闇の中で、ナナの顔は青ざめた幽霊のように不自然に白い。
「さっき言ってたでしょ、魂は精霊神ルビス様の絶対の守護を受けるって。魂は死ぬ瞬間の苦しいことを思い出さない? 怪我の痛みを感じない?」
「……安息の園は光が満ち溢れた美しい世界だという。そこには悲しみも苦しみもない。どの魂も永遠の安らぎを得て穏やかに暮らしているんだ」
「ムーンブルクの人も?」
「勿論」
「お父様やお母様も?」
「そうだよ」
「……だったらいいんだけど」
 俯いたナナの唇が、きゅっと泣きそうな形に歪む。だが心持ち伏せた睫が涙を滲ませることはなかった。
 コナンは……恐らくアレンも……ナナが故郷のことで泣いているのを見たことがなかった。国を滅ぼされ、両親を殺され、泣き叫んでも不思議でない状況にありながら、彼女の赤い瞳は涙一粒零さない。生来の気の強さばかりによるものでもないだろう。
「仇を討つまで泣かないとでも決めているのかい?」
 それが良いことだとも、悪いことだともコナンは思わない。感情の処理方法なんて人それぞれだ。涙で全てを押し流す人間もいれば、溜め込んで浄化する人間もいる。
「あたしも泣きたいと思ってるんだけどね、どうしてだか全然涙が出て来ないの」
 ナナが首を振ると、後れ毛がふわふわと頼りなげに揺れた。
「喉元までぐっとせり上げるんだけど涙が出て来ないの。それでも泣こうとすると胸が痛くなって息が出来なくなるの」
「……そうか。睡眠は取れているかい?」
「たまに嫌な夢を見るけど、それは大丈夫」
 ナナは指先が白くなるほど拳を握り締めた。
「あたし、旅が終わったら昔と同じ風にムーンブルクを立て直すんだ。お父様が大事にしていらしたあの国を、もう一度あたしが作り直すの」
「君は君の国を作ればいいだろう。失われたムーンブルクと新しいムーンブルクが同じである必要などないはずだ」
「だめよっ」
 ナナはむきになって顔を上げた。二つの瞳がやり場のない怒りと憎しみを帯び、追い詰められた獣のように危険な輝きを放つ。
「前と同じにするの。同じ場所に聖堂を立てて、同じ場所に楡の木を植えて、同じ場所に広場を作って……そしたらきっと……」
 語勢はみるみる力を失い、言葉は口の中に消えた。
 視線を落とすナナだって理解しているはずだ。町や城ばかりをどんなに美しく再生させても、失われた日々を取り戻すことは決して叶わない。
 結局、ナナは弱いのだ。幸せだった過去の鎖に縛られて、それを振り解くことすら出来ぬほど弱いのだ。たった一人生き残った亡国の王女は、本当にちっぽけな、無力な十六の少女に過ぎなかった。
「……」
 コナンはふと我が身を振り返った。少年時代の思い出は、いつでも凍りついたナイフのごとく、冷酷にコナンの胸を切り裂いていく。ちくりと差し込むその痛みに、コナンは思わず冷めた微笑みを浮かべた。
「……振り切れてないのは僕も一緒か」
「え?」
「何でもない。おやすみ」
「……うん、おやすみなさい。また明日ね」
 ナナは何時もの表情を取り戻し、戸板の向こうに消えた。


 二人の少女をそれぞれの部屋に送って帰ってくると、アレンがソファの上でこっくりこっくり船を漕いでいた。
「アレン、鬱陶しいからこんなところで寝るんじゃない」
 こんこんと頭を弾くと瞼が重たそうに持ち上がる。どんよりした目で辺りを見回すことしばし、ようやく現状を把握したようだ。
「……俺も帰る」
 立ち上がったアレンの首根っこを引っつかんで、コナンは今一度彼をソファに引き戻した。そしてアレンに向かい合う場所に腰を下ろす。
「君に少々尋ねたいことがある」
「……何だよ」
 眠たい目をごしごし擦るアレンは子供のようだ。その警戒心のない様をふと羨ましく思い、馬鹿な考えだと一人首を振る。
「君にとって家族……そうだな、取り分け父上とはどういう存在だ?」
 唐突な質問に面食らったように、半開きだったアレンの目がぱちんと開いた。燭台の灯を受けて、太陽の瞳が猫のそれのように輝く。
「どういうって……俺の顔見りゃ説教してくる親父、かな」
「そうか。子供時代はどうだった?」
 ローレシア王家はサマルトリア王家と違って家族で過ごす時間が長く、よくも悪くも密接な絆を築くと聞く。
 それはローレシアの創始者たるロトの勇者が、庶民的な家族のあり方を強く望んだ名残だ。王家としての体面を繕わねばならぬ時以外、ロトの勇者は極々平凡な夫として父親として家族に接したと言われている。
「うーんと、ガキの頃は一緒にザリガニ採りして遊んだり、肩車してもらって城ん中走り回ったり……」
「微笑ましい父子の光景だ」
「たかいたかいされた拍子に力余って天窓突き抜けたり、回転車してる時に手ぇすっぽ抜けて壁に減り込んだり……」
「微笑ましさが一気に消え失せたな」
 彼にとってはそれが当たり前の父子のあり方なのだろう、アレンは不思議そうに首を傾げた。
「いきなり何なんだよ?」
「タシスンさんは遙かザハンから船首像を届けようとし、ナナは父王の愛した国を再現させようとしている。……父親とはそれほどまでに愛すべき存在なんだろうか?」
「……言ってる意味が良く分かんねぇんだけど……」
「うん……いや、いい。おかしなことを聞いてしまったようだ」
 元より説明されて納得できるものでないことは分かっていた。それでも尋ねずにはいられなかったのは、自分と父親との関係が、あまりに特異だという認識があるからだ。
「そういえば、お前んとこ、お袋はどうしてるんだよ?」
 何気ないアレンの問いに、コナンは項の辺りがすっと冷えるのを感じた。勤めて平静を繕ったが、相手がアレンでなければ動揺を悟られたに違いない。
「僕が六歳の時に亡くなった」
「お袋のことはどう思ってるんだよ?」
「……さあね」
 アレンの眉間の皴がどんどん深くなっていく。彼なりに推測を巡らせたようだが、すぐ飽きたという風に肩を竦めた。
「親父なんて鬱陶しいだけだけどなぁ。俺は今、旅に出て清々してるし」
 得意顔で嘯くアレンにコナンは思わず苦笑した。
「君の場合、そう考えるのは恐らく反抗期だからだ」
「ハンコーキって何だよ?」
「子が親から独立する時期のことだ。それまで親へ依存していた子ほど強く反発すると聞いたことがある。君の言動から判断する限り……君は何だかんだ言って、父上のことを慕っているんだよ」
「ばっ、そんなんじゃねぇよっ」
「さて、そろそろ休まなくては明日に差し支える。アレン、邪魔だからさっさと自分の部屋に戻ってくれ」
「お前が引き止めたくせに何言ってんだよ!」
 きいきい怒るアレンを軽くあしらいながら、コナンはソファから立ち上がった。