大富豪と魔の海域<4>


 太陽が水平線から顔を覗かせると同時に、巨大な帆船は海面を滑るようにルプガナを出港した。
「……ねぇ」
 舳先に立ってぶつぶつ詩を吟じていたコナンの背に、緊張を帯びたカタリーナの声がかかった。コナンは朝日に白い歯をきらりと輝かせながら振り返る。
「君に探してもらえるとは光栄だ」
「さ、さささ探してなんかいなくてよ! わたしの来たところにたまたまあなたがいたから声をかけただけよ! 偶然っていやね!」
 ぶんぶか巻き毛を振り乱して怒り狂った後、カタリーナはつと俯いた。ややあって真っ赤になった顔を上げ、背に隠していたものを無造作に差し出す。
「これ、すっごく暇で死にそうだったから編んでみたの! でも色が気に入らないからあなたにあげてもよろしくてよ!」
 カタリーナの手にあるのは、雑巾ともほつれたタオルともつかぬ奇妙な物体である。
 しかしコナンは正確にその正体を見抜いた。それは乙女心がたっぷり織り込まれた手編みのマフラーに他ならない。どんなに雑巾にしか見えなくても、淑女がマフラーのつもりで差し出す以上それをマフラーとして扱うのがナイトの務めだ。
 コナンはそれを受け取って首に巻いた。やたらと長い季節はずれのマフラーが、吹流しの如くはたはたとはためく。
「君の気持ちは僕の心まで暖めてくれそうだ」
「……女の子になら誰でもそう言っているんでしょ」
 カタリーナは隅の目立つ……恐らく原因は寝不足だ……顔をぷいと背けた。癖のある黒髪が、少し日に焼けた頬の辺りで踊る。
「……コナンはこれからアレフガルドに行くんでしょう? その後どうするの?」
「探し人を求めて各地を放浪、かな」
「何時かまた会えるかしら……って誤解しないでちょうだい! あなたは仮にも命の恩人だもの、死なれてでもしたら後味が悪くてたまらないからよ! それだけよ!」
 憤怒したり動揺したり一人忙しいカタリーナに、コナンはきらきらと眩い笑顔を浮かべる。
「君が望んでくれるのなら」
 少女の頬が隠しようもなく鮮やかなピンクに染まった時、不意に辺りに濃い霧が立ちこめた。
 コナンははっと顔を上げ、打って変わって鋭い瞳で周囲を見回した。大気に散った水の粒子は魔力を帯びており、幻影魔術マヌーサに似た波動を放っている。自然に発生したものとは考えにくい。
「これは……」
 コナンが口中で呟くと同時に、どかどかと慌ただしい足音を立ててアレンが駆けてきた。海に転がり落ちんばかりの勢いで柵に噛りつき、大きく身を乗り出して前方に目を凝らす。魔術には疎いアレンであるが、戦士の本能で敏感に異変を感じ取ったようだ。
「おい、この霧ってただの霧じゃねぇよな?」
 振り返ったアレンが、コナンの襟元を見て太い眉を顰めた。
「お前、何で首にぞうき……」
 稲妻の速さでコナンの拳がアレンの顔面に減り込んだ。レディを傷つけるものは誰であっても許さない。ましてアレンなら遠慮はいらない。
「らにすんらよ!」
「確かに普通の霧ではない。恐らく、近場に霧を生み出す力場があるはず……」
 コナンがそう言いかけた時、船ががくんと止まった。


 霧は見る見るその濃度を増し、白い壁のようになって彼らの視界を遮った。あれほど見通しの良かった海上の風景は一変し、辺り一面見渡す限りの白、白、白。
 持ち上げる腕が重たく感じられるほどの濃い霧である。水中に放り込まれたかのような不快感に知らず舌打ちが漏れる。
「船が動かなくなったって、船乗りの人達が大騒ぎしてるわ」
 駆けてきたナナが不安そうに海に目をやる。一瞬の間を置いて、彼女は裂けよとばかりにその大きな瞳を見開いた。
「ねぇ見て! あそこに船がある!」
 濃霧の中から何隻もの船影がゆっくりと滲みだしてきた。斜めに傾いだ船体、折れたマスト、死神の裳裾のようにはためく帆。朽ちかけた船が所狭しと転がるその海域は、正しく船の墓場と呼ぶに相応しい。
「おい、あれ」
 続いてアレンが前方を指差した。浅瀬に打ち上げられた難破船の甲板に動くものを発見したのだ。
 半ば崩れた甲板に人影が見えた。船乗りらしき男やら、まだ年若い女やら、小さな子供やら、その様相は様々だ。船体をおぼろげに霞ませながら、人影だけを浮かび上がらせるこの霧は、やはり自然のそれではない。
 甲板を歩いていた若い男が、ふと捜索船に気付いたように顔をこちらに向ける。それを見た瞬間、カタリーナが押し殺した悲鳴を上げた。
「お兄様……っ」
「え?」
「待って、お兄様!」
 飛び出そうとした影をアレンは反射的に捉えた。腕を伸ばすのが一拍遅ければ、カタリーナは海に転がり落ちていたに違いない。
「馬鹿、何やってんだよ!」
「だって、今船室に入っていったのはお兄様だったのよ!」
 カタリーナは激しくかぶりを振った。宝石細工の髪留めが外れ、纏めていた髪が霧の中に踊る。
「だってお前の兄ちゃんは……」
「間違いないわ! あれはお兄様よ!」
 カタリーナは完全に混乱状態に陥っているようだ。アレンの手を振り解こうと激しく身を捩り、やがて力を失ってぐずぐずと崩れ落ちる。
 一旦カタリーナに落ちた三人の視線が、倣ったように一斉に船へと向けられる。
「本当にタシスンさんがあそこに?」
「あんなところで三年間も暮らしていたってこと……?」
 三年前に海難事故で行方不明になった人間が、今日まで何らかの術を用いて生き延びていた可能性は皆無ではない。
 しかし彼の難破船は魂まで凍えるような冷気を放っており、普通の船舶でないことは明白だった。こうして船を眺めているだけで、この世ならざるものへの恐怖と嫌悪がざわざわと背中を撫でる。命あるものが決して踏み入れてはならない境界線が、この船とあの船の狭間に見える気がした。
「魔族……かしら?」
 ナナの囁きにコナンは眉を寄せた。
 魔族とは、冥界で懇々と眠り続ける破壊神シドーの眷属である。
 魔族は特定の肉体を持たず、その本体は神の火の光と呼ばれるエネルギーの球体だ。シドーが封印されたことにより大部分の魔族は滅失したといわれるが、細々と生き残った者も少数ながら存在する。
 魔族が厄介なのは、彼らが人の死体に取りついて悪事を繰り返すことにある。人の肉体を纏い、さりげなく人間社会に紛れ込み、その魔力と悪知恵で大混乱を起こす。そうして人間が右往左往する姿を眺めるのが彼らの最大の喜びなのである。
「魔族なら少なくとも、見た目は生きた人間と変わりないはずだ。それに比べてあの船の人々は……」
 まるで生気が感じられないのだ。コナンが飲み込んだ言葉に頷いて、ナナは今一度船を凝視した。
「行ってみましょう、ほっとけないわ」
「そうだね」
 コナンは頷き、両手に顔を埋めたまま動かないカタリーナに囁いた。
「僕達があの船を調べてくる。カタリーナはここで船の人達と待機を」
「……」
 無言でゆるゆると顔を上げるカタリーナに、コナンは請け負うというように頷いた。
「大丈夫。君の祈りがあれば何もかも上手くいく」
「よっし」
 暇を持て余していたアレンは張り切って、どかんと柵の上に足を乗せた。
「行くぞ!」


 船に潜入した途端、ぞっと全身が粟立った。
 船に満ちた沈黙は三人の鼓動も息遣いも飲み込んでしまう。凍りつくような静寂が鼓膜に染みて痛い。
「……どうやら、最初に沈んだ邪教徒の船というのがこれのようだな」
 折れて甲板に突き刺さったマストからべろりと帆が垂れ下がっている。埃に塗れてひどく汚れているが、辛うじて失墜する神の鳥の姿が見て取れた。
「……っ」
 注意深く辺りを見回したコナンは、ずきりと差し込むような痛みを覚えて思わずこめかみを押さえた。あまりに醜い光景に何時もの偏頭痛と耳鳴りが始まったようだ。
「邪教徒の船ってことは、やっぱりハーゴンが関係してるのかしら?」
「恐らく」
 肌に纏わる悪意と冷気と魔術の波動は、そんじょそこらの魔術師に作り出せるようなものではなかった。卓越した魔術知識と魔力、そして邪教の符号が揃えば、自ずと一人の人物が浮かび上がってくる。
「おい、ここから中に入れるぞ」
 アレンが傾いだ戸板を蹴り、船内へ通じる入り口を広げた。ドアの向こうには階段があり、それを下ると比較的広い廊下に出る。数歩も進まぬうちから、三人は目前に広がった光景に絶句して思わず足を止めた。
 据えた臭いのする廊下を何人もの人間が歩いていた。酷く古めかしい鎧に身を包んだ戦士もいれば、最新のデザインのドレスを纏った少女もいる。様々な時代と国と階級の人々がごっちゃになって存在しているようだった。
「みんな透けてる……」
 つまり彼らは肉体を持たぬ魂ということだ。
 肉体と魂が揃ってこそ人間なのだ。魂のみが地上に留まるのは極めて不自然な状態であり、精霊ルビスの加護を著しく損なう。死して尚この地に固執する魂はやがて安息の園への道を見失い、二度と転生が適わぬ存在となるのだ。
「服装から何からみんなばらばらね。この船に乗っていた人達ってわけでもなさそうだわ」
「……多分、これまで海で死んだ魂がこの船に引き寄せられているんだ」
「けど人間って死んだら精霊界とかいう場所に行くんだろ? そこで待ってると迎えが来て、安息の園に行くんだって爺が言ってたぞ」
 母が死んだ時アレンはそう教育係から聞かされた。安息の泉からは他の世界を覗くことが可能で、死者は何時までも生者を見守ってくれるのだ。だから立派な王子になりなさいと日々言い聞かされたアレンは、その甲斐もなくあまり立派な王子にはならなかった。
「あまりに未練が強いとこの世に留まってしまう場合もある。そういった魂は死に場所に囚われたまま無為の時を過ごし、やがて邪神に引き寄せられて糧にされる」
 だからコナンはムーンブルク王の魂と出会った時、必死で安楽の園へ赴くことを促したのだ。
「じゃあこいつら……」
 その時、不意に周囲の大気がぐにゃりと揺らいだ。