何処からともなく滲み出した水が三人の腰の高さまで満ちた。驚く暇もなく水位が上がり、あっという間に天井まで増える。逃げ切れなかった人々は一瞬で水に飲まれ、逆巻く渦の中を必死にもがいていたが、やがて一人、また一人と動かなくなっていった。 悪夢のようなその光景を、三人は瞬きも忘れて見上げていた。魂達を苦しませる水は生きた人間に影響を及すものではないらしい。 やがてゆったりと水が引き、何事もなかったかのように再び薄暗い船内の風景が広がる。水が消失した後、そこらにいた人々は一人残らず消えていた。 「……下衆が。頭痛を越えて吐き気がする」 コナンが呻き、ナナが震える手で喉を押さえた。 「……これってどういうこと? この船は一体何なの?」 「魂を殺して濃厚な死のエネルギーを採取しているのだろう」 人の交わりによって生み出される肉体よりも、創造神の息吹から生み出される魂は格段崇高な存在だ。輪廻を繰り返すことで、本来消失するはずのない魂が何らかの事情で死を迎える時、そこには肉体が滅びる時とは比べ物にならぬ力が弾けるという。 「何のためにそんなこと……」 ナナの問いかけに答えられる者はいない。 「……これは魂を食らう船なんだ。海を彷徨う古い魂、この海域に縛られて死んだ人、一体何人がこの船の犠牲になったのだろう」 最初に行方不明となった邪教の船が、この海域に踏み込んだ船を惑わし、引き寄せ、魂を奪っているのだ。だとするとこの船舶は偶発的な海難事故に遭遇したわけではなく、信望する教祖のために難破したということになる。 「まさに狂信者だな」 皮肉と哀れみを込めてコナンが顔を歪めれば、アレンもまた太い眉を不快げに寄せた。 「どうにかなんないのかよ?」 「この船の何処かに力場があるはずだわ。それを壊せばきっと止められる。……探そう、探さなくちゃ」 ナナの頬は死人のように青白かった。恐らく彼女の脳裏には懐かしい故郷の風景が過ぎったのだ。ムーンブルクの廃墟に同じような力が宿り、国民達が二度目の死を迎える光景を思い描いただけで、叫びたくなるような怒りと恐怖に駆られたに違いない。 三人は気を取り直して奥へ奥へと進んだ。廊下を渡った先には再び階段があり、その先には貯蔵庫と思わしき広い部屋がある。階段と対を成した壁には扉があり、その向こうには邪教の礼拝堂が広がっていた。 失墜するラーミアを掲げた祭壇の前に、赤く輝く魔法陣が刻まれている。 「こいつか。ぶっ叩いて壊せるか?」 忌々しげに柄を握るアレンを、コナンが片手で制した。 「魔法陣に下手な刺激を加えるのは危険だ。魔力が暴発する恐れがある」 「この上に新しい付加図形を書いて力を無効化するのが一番簡単で確実な方法なの」 二人が作業に取りかかるのを眺めていたアレンは、ふと背筋に冷たいものを感じて振り返る。 「俺は暇かなと思ってたけど、そうでもなさそうだ」 遠く離れた入り口から、うぞうぞと腐った死体が姿を現しつつあった。纏っている法衣からして邪教徒のなれの果てだろう。死して尚魔法陣を守ろうとする根性だけは褒めてやってもいい。 「悪いが僕達はこっちで手いっぱいだ。君一人で何とか凌いでくれるとありがたい」 「十五分……ううん、十分。頑張れる?」 「おまけして三十分にしといてやる。お前ら急ぎすぎてヘマすんなよっ」 剣を振り翳して敵陣に踊り込むアレンを尻目に、コナンとナナは再び魔方陣に向き合う。 さすが邪教の教祖が編み出した魔方陣というべきか、コナンとナナが見たこともないような方式で、線と線が絡み合うように重なっていた。下手に手を出せば魔法陣そのものが崩壊して、封じ込められている得体の知れない力が弾ける違いない。 「すごい魔力」 ナナが忌々しそうに顔を顰めた。 「悔しいけど、あたしが知ってる付加魔法陣だけで相殺するのは無理よ」 「魔力の貯蔵箇所を調べてみる。そこに重点的に力を集中させればどうにか……」 コナンは手袋を外して魔法陣に手を当てた。皮膚を通し肉を貫いて、魔力が体に流れ込んでくる。内側から焼かれるような痛みがぴりぴりと走った。 肉体を苛む魔力は叔父と良く似た波動だった。コナンの唇に意識せず酷薄な微笑が浮かぶ。 「……ここだ。このアームからベルダの合間」 コナンは二つの文字の合間をすっと指でなぞった。 「ここに魔力消失の魔法陣を敷いてくれ。僕は魔法陣の守備を解除する」 「うん」 魔法陣の中央部分に並んだ文字列が守備を司っているようだ。この力を解除しない限り、付加魔法陣を敷いても跳ね返されてしまう。 「マブロス、エルトランド、デガか。……潮流、波……」 「海ね。水から加護を得てるみたい」 「……となると火の力をぶつければいいだけだな」 コナンはギラの詠唱を素早く再構成した。細かい動きまでコントロール出来るように、火力と速度をぎりぎりまで弱める。他の文字や図形に余計な刺激を与えれば不測の事態になりかねない。 「準備完了だ」 「あたしも終わったわ」 コナンが指先から炎を滴らせた一瞬後、ナナが新しく敷いた付加魔法陣に魔力を注いだ。 陽炎のように魔法陣から立ち上っていた光が不意に途絶えた。 光が消えると同時に、がくんと船が傾いた。アレンに襲いかかっていたゾンビが悉くバランスを崩し、斜めになった床をずるずると滑り落ちていく。 「きゃーっ、こっちこないで!」 ナナのバギで腐った死体が弾け飛んだ。 船のそこここからひたひたと水が浸入し始めた。彼らのくるぶしを濡らすのは幻でない、本物の海水だ。 「この魔法陣は船の浮力も司っていたようだな。このままではこのボロ船と共に沈んでしまう……実に美しくない」 「浮かしたままにしとけなかったのかよっ」 コナンはすいっとアレンに顔を向けて、小さく眉を持ち上げた。 「済まない、少々読みが甘かったようだ」 「お前ー! 謝る時はもっと済まなさそうな顔しろー!」 そうこうしている間にも船はぎしぎしと軋みながら海に飲まれつつあるようだった。遠からず船は海底に引き込まれ、二度と浮かび上がることはないだろう。 「畜生、このままじゃ俺ら海のモズクだぞ」 「それを言うなら海の藻屑だ」 「藻屑でもモズクでもあんまり変わりなさそうだけど」 流れ込む海水が廊下まで侵入したらしく、三人の背後でばたんと扉が閉まった。扉を押す水圧は凄まじく、アレンの馬鹿力をもってしてもびくともしない。 「アレン、離れて!」 「うわっ」 風の塊が分厚い戸板に穴を開けた。そこから流れ込んできた大量の海水をまともに食らってアレンが引っ繰り返る。 「ぶはっ、しょっぱっ」 ごほごほと咳き込むアレンの鼻先へ、何の前触れもなくふわりと影が舞い降りた。 思わず仰け反ったアレンに微笑むのは、カタリーナに似た顔立ちの青年だ。陽だまりを思わせる笑顔は半ば透けて向こう側が見えている。 「タシスン……さん?」 タシスンはすいと部屋の奥に飛び、物言いたげに祭壇の上を見上げた。天井の一部が傾いでいることに気付いたコナンが、素早く祭壇に飛び乗ってその部分を押し上げる。接着の甘くなっていた板が容易に外れ、階上に続く道が開けた。 「しめた、上にはまだ水が来ていない」 懸垂の要領で体を持ち上げたコナンは穴の向こうに手を差し出した。アレンがナナを肩に担いでコナンへ渡し、彼女が完全に引き上げられた後穴の縁に手をかける。二人に続いて上がろうとしたアレンが、ふとタシスンを振り返った。 タシスンは微かに会釈すると、細かい光の粒になって宙に散じた。 巨大なルプガナ港の中で、その船は一際目立っていた。 幅四尋、長さ八尋ほどの小さな船でありながら、流麗な曲線が美しくも力強い。巨大な白い帆は潮風を余すことなく孕み、エッジのように鋭い船首はどのような波をも砕くのだろう。この船さえあれば世界の最果てまでも行けそうな気がした。 朝日に燦然と輝く船の素晴らしさもさることながら、何よりも三人を驚かせたのは船首に輝く彫像の存在である。 「ねえ、あれって……」 「タシスンさんの船首像だ」 船の墓場で発見されたタシスンの船はぽっきりと二つに折れ、積荷も乗組員もほとんどが海に流されたような状況だった。 ほとんど何も残っていない船の中で、奇跡のようにタシスンの船首像が発見された。長い間波に洗われていたにも関わらず、錆びた形跡も腐食した様子もない。ロトを乗せて空を渡ったという神鳥の船首像は、暗がりの中で昂然と頭を持ち上げて天を見上げていた。 そのラーミア像が、三人に送られた船の船首を飾っているのだ。 コナンはふと、陽光を纏うラーミア像がゆったりと翼を広げたような気がした。この船首像があれば様々な困難に打ち勝てるだろうと、彼にしては珍しく根拠のない自信が沸き起こる。 「あなた達を乗せて、この像は世界の隅々を見ることになるでしょう」 カタリーナに手を引かれながら、ヘルマンがゆったりとした足取りで三人の下にやって来た。 「私とタシスンが行くはずだった海を渡ってください。あなた達の感じた風の匂いを、受けた波飛沫の感触を、旅が終わった時お話していただきたい。私はそれを土産にタシスンのところに参りたいと思っております」 そう語るヘルマンの口調は清々しい。沈んだ船と残されたラーミア像をその目で確認して、彼の中で何かが吹っ切れたようだった。 「全てが落ち着いたら、カタリーナを連れてザハンに行ってみようと思います」 「ザハンに?」 「タシスンの妻と子にあって……私の知らぬ土地であの子がどのように生きたのか、尋ねたいと思います」 「天命を尽くした魂は必ず安息の国へ導かれます。そこでタシスンさんはヘルマンさんを迎えてくれるでしょう。それまで、どうかご自愛ください」 微笑むヘルマンに今一度頭を下げて、三人は船に向かって歩き出した。桟橋に差しかかったコナンの背を、小走りに駆け寄ってきたカタリーナが呼び止める。 「ねぇ」 カタリーナは頬を薔薇色に上気させ、両手に握り締めたものを嫌々と言う風に差し出した。 「暇でしょうがなくてやることがなかったから、仕方なくまた編んでみたわ。でも気に入らなくて邪魔だから餞別に差し上げてよ」 「これは暖かそうな……」 「手袋なんだけど!」 「勿論、分かっているとも」 コナンはゆっくりと頷きながらそれを手に嵌めた。手袋と称するには苦しい袋状のものの中でコナンの指が泳ぐ。 「あの、コナン……」 しばしもじもじと俯いたカタリーナが、思い切ったように顔を上げた。追い詰められたようだった瞳が、やがて何時もの勝気な微笑みを浮かべる。 「……がんばってね」 「ありがとう。カタリーナも元気で」 コナンはふわりとマントを翻して踵を返す。 「タシスンさんは何でヘルマンさんやカタリーナに会わなかったのかな」 次第に遠退くルプガナ港を眺めながら、アレンが納得いかないという風に首を傾げる。同じように甲板に立って海を見つめるコナンが疑問を引き取った。 「死者が生者と接することは本来固く禁じられている。タシスンさんは僕達を助けるために敢えてそれを破ってくれたんだ」 「……ナナの親父も?」 「そういうこと。人の想いは禁忌だけで縛られるものではないしね」 空は雲一つないいい天気だ。ルプガナ港からついてきたカモメが、彼らの頭上を旋回して鳴き交わす。 「タシスンさんは今頃、安息の園で安らかに暮らしているのかしら?」 「前に僕は人の弔いなどそれほど意味がないと言ったが」 こほんと咳払いをして、コナンが続ける。 「残された人々が前を見て歩くことは、死んだ魂にとって大きな慰めになるとは思っている。ヘルマンさんやカタリーナはゆっくりとだが進み出した。だからきっとタシスンさんは心穏やかでいるはずだ」 「そう、ね」 ナナが沈んだ表情で頷く。未だ過去に囚われ続ける我が身を憂いていることは推測出来たが、コナンは敢えて何も言わなかった。下手な慰めや優しさは毒だ。自力で断ち切らなければならない鎖は誰にだって存在する。 コナンは顔を上げて、降り注ぐ日の光にそっと瞳を細めた。 「それにしても子が親を、親が子を思う気持ちは尊いね。君も父上に反抗ばかりしていないで素直になりたまえ、アレン」 「いちいち俺を引き合いに出すなっ。俺はハンバーグなんかじゃねぇぞっ」 「ハンバーグ? ハンバーグって何のこと?」 「反抗期って言いたいんだよアレンは」 「ああ、そうなの」 ナナの赤い瞳がアレンを見上げた。 「……ハンしか合ってないじゃない。アレンってばかわいそう」 「捨て犬見るみたいな目で見んな!」 潮風が渡る青い海原の向こうに、ゆったりと広がる大地が見える。全ての始まりの地、アレフガルドだ。 |