「確かにあたしの旅の目的はあいつを殺すことで、それはロトの末裔として相応しくない動機なのかもしれないけど」 コナンの言葉は恰も彫刻刀の如く、鮮やかにナナの内面を浮き彫りにした。復讐を糧として日々呼吸する生き様を改めて自覚すると共に、それがひどく後ろめたいものに思えた。 「でもやっぱりラルス十九世は卑怯だと思う。王様が逃げちゃったら、誰がこの国を守るのよ」 夜空から吹き降ろす初冬にしては湿った風が、ラダトーム城の裏庭に一人佇むナナの髪を嬲る。 こんな風に湿度の高い夜は嫌いだ。嫌でもムーンブルクが壊滅した日のことを思い出す。あの日の夜は酷く暑く、質感を覚えるほどの湿気がじっとりと大気に滲んでいた。寝苦しさに悶々とする人々に、死は容赦なく襲いかかったのだ。 力なく見上げた空には今宵も月がなかった。ムーンブルク壊滅の日を境に消えた月は、その後一度たりとも面を覗かせない。 「……」 ぼうっと空を眺めることしばし、ナナはきっと表情を引き締めた。ムーンブルクの月……父と母と中庭から眺めた、薄紫の美しい満月の思い出を振り払うと、懐から短刀を取り出して構える。 (思い出なんかに浸ってる場合じゃないわ) 白刃を振り下ろすと、鈍い音を立てて小枝が弾け飛んだ。ナナは二度、三度と立て続けに枝を払った。 (今は強くならなくちゃ) こうやって一人短刀の修練を始めてそろそろ一ヶ月になる。 だがどの種の武器が自分に合うのか、どうすれば効率良く鍛えられるのか、素人であるナナには良く分からない。関連書物を読み漁って試行錯誤を繰り返したものの、独学での向上はあっさりと限界を迎えつつあった。頭で理解するのと実際に体を動かすのは違うのだ。 (強くなってあいつをこの手で殺さなくちゃ) 魔術師は術を行使するうち、詠唱せずとも肉体が微量の魔力を作り出すようになる。肉体を覆う魔力は魔術防御膜と言われ、その濃度が濃ければ濃いほど、魔術に対する耐性が強くなるのだ。魔術防御膜の強度は魔術変換能力のレベルに比例するから、当代一の魔術師と称されたハーゴンには、ほとんどの魔術が通用しないことが予測される。 国と両親の仇をこの手で打つには、物理的な攻撃手段を会得する必要があるということだ。 「いたっ」 狙いを外した刃が幹に深く食い込んだ。その拍子に手が滑り、ささくれ立った樹皮が甲に食い込む。傷口から溢れ出た血液は、見る間に玉を結んで地面へ滴り落ちた。 「……もうっ」 ナナはいらいらしながらベホイミを唱えた。肉体の傷はすぐに消えても心のそれはそうはいかない。壊滅の日に深く刻み込まれた傷は、今なお塞がることなく血を溢れさせている。 「……」 喉の奥にぐっとせり上げるものがあったが、涙は流れて来なかった。 (どうして泣けないのかな。あたし、どうしちゃったんだろう) 一つ溜息を零した時、背後で草を踏む音がした。はっと振り返るナナの顔は追い詰められた獣のようだ。 「こんなとこで何してんだ?」 窓から漏れる灯りに浮かんだのは良く知った仲間の顔だ。ナナはほっとして、反射的に怒らせた肩の力を抜いた。 「アレンこそどうしたの? こんな時間に起きてるなんて珍しいじゃない」 アレンの起床はひたすら早く就寝もひたすら早い。コナンやナナとは時間のサイクルが二時間ほどずれている。ローレシア人はみんなそうだとアレンは嘯くが、何しろ彼の言うことなのでナナは全く信じていない。 「早く寝たら目が覚めて眠れなくなっちまったから散歩」 「早くって何時に寝たのよ」 「七時」 「あんたってば遊び疲れた子供じゃないんだから……」 きょろきょろ辺りを見回していたアレンが、ふと視線を一点に留めて首を傾げた。 「ナイフの練習してんの?」 「え? あ、うん……」 あいまいに返事しながら短刀を引き抜こうとするナナだが、幹に深く食い込んだそれは押しても引いてもびくともしなかった。悪戦苦闘するナナに歩み寄ってきたアレンが、ぎゅっと柄を握ってぐいと力を入れた。 「ん」 「……ありがとう」 いとも容易く引き抜かれた短刀に、ナナはじっと視線を落とす。 「アレンはいいな、剣が使えて。あたしだって半分ローレシア人なんだから、もっと上手くなったっていいはずなのに」 「お前ド素人のくせにこんな重たいナイフ使ってるからだめなんだよ。握りも構えも全然なってねぇくせに百年早いっての。手首だめにするぞ」 周囲の有様からナナの腕前を判断したらしい。腐ってもローレシアの皇太子、日頃の行動がサルでも彼は一流の剣士なのだ。羨望と憧憬がじりじりとナナの胸を焦がした。 「だったらナイフの扱い方を教えてよ。あたし、どうしても上手くなりたいの」 「いいよ」 ナナが拍子抜けするほどあっさり頷いて、アレンは改めて短刀を眺めた。刃の反りや持ち手の具合を何度か確かめた後、小さく肩を竦めてナナの掌にそれを置く。 「やっぱこれじゃだめだな。明日武器屋にいってお前に合うの探そうぜ」 理由も動機も尋ねてこないところがアレンらしい。聞かれれば答えようと思っていたが、進んで説明する気にはなれなかった。 「うん……。ありがとう」 二度目の礼を述べた後、ナナはじっとアレンを見上げた。 「ねぇ、アレンにとってローレシアって何?」 「は?」 唐突な問いを受け止めかねて、アレンは素っ頓狂な声を上げた。 「何って……ローレシアは……俺の生まれたとこ……かな」 頭を捻りつつ、途切れ途切れにそんな答えを振り絞る。ローレシアはアレンにとって故郷でありふるさと……至極当たり前の返答だった。 「じゃあそのふるさとを心から守りたいって思ったことある?」 アレンは小さく眉を寄せ、沈黙を置いてから口を開く。ナナの真摯な視線に影響され、その受け答えは何時になく慎重だ。 「親父は俺によくそう言うよ。国を守れとか民の上に立てとかさ。でもそんなこといわれたって俺、どうしていいのか分かんねぇし」 王位後継者としての立場はアレンから自由を奪うだけだった。生まれと血筋は彼をがんじがらめに縛りつけ、狭い世界に押し込めようとする。昔からそれが嫌で、王子としての立場に反発ばかりしてきた。 「分かるわ、あたしもそうだったもん。ムーンブルクのことは大好きだったけど、女王として国を守りなさいなんて言われてもぴんと来なかった。だってムーンブルクはあたしの知っている限り、ずっと平和だったんだから」 淡々とそういってナナは白い花びらのような瞼を閉じた。 「……でもね、国がなくなるのなんて本当にあっという間だったわ」 重い呟き声が風に滲んで消えていく。 「ムーンブルクが滅亡したこと、あたしは今でも時々信じられなくなるの。だってあんなにたくさんの人がいてたくさんの建物があったのよ。あれが全部なくなっちゃったなんて悪い夢を見てるみたいだわ」 ナナの言うことは分かる気がした。ムーンブルクの廃墟を目の当たりにしたにもかかわらず、ローレシアだけは大丈夫との根拠のない自信がある。幼い子供が親を盲目的に信頼するように、アレンもローレシアの存在を疑っていないからだ。 「今ならお父様やお母様の言ってたことが分かる。ムーンブルクは王族にとって存在意義であり証なんだって。だから民と国を一生懸命守らなくちゃならないんだって」 瞼がゆっくりと持ち上がり、雨の血筋の瞳が覗いた。炎のように揺らめく双眸は闇をも跳ね返すほど鮮やかに赤い。 「あたしみたいにならないようにアレンとコナンにはローレシアとサマルトリアを守って欲しい。そしてラルス十九世にもラダトームを守って欲しい。国がなくなってからじゃ遅いのよ」 平生思い出しもしない故郷の風景が、ふとアレンの脳裏を過ぎった。太陽の紋が刻まれた王城、街中を縫う石畳の道、温かな薔薇色に輝く煉瓦の屋根、小さな花を咲かせる林檎の並木道。 懐かしいそれらは今、遥か東の大陸にある。唐突に随分と遠いところまで来たと思った。 「……お父様は最後までハーゴンと戦ったわ。あたしにとってお父様は最高のお父様だし、みんなには最高の国王様だったって……そう信じてる」 壊滅の日の出来事を、ナナは徐々に思い出しつつあるようだった。 炎に嘗め尽くされるまでまで戦い抜いた父の姿を、彼女は永遠に胸に抱きながら生きていくのだろう。それはナナにとって最も誇らしい父の勇姿であり、最も悲しい父の死に様だ。 「……」 なんとなくしんみりした二人の耳を、不意に石畳を踏む足音が打った。 アレンとナナは顔を見合わせ、百日紅の陰からこっそりと向こう側の様子を伺った。闇に紛れるようにして庭を横切るのは二人の知った人物だ。 「……ハロルドさんね」 「うん」 ハロルドは周囲を伺いながら古い石像に歩み寄った。半ば欠け落ちた鷲の彫像に手をかけ、嘴を軽く握る。すると何処からかからくりの音が生じ、地面の一部がゆっくりと横にスライドして大きな穴が現れたではないか。 ハロルドは今一度当たりを見回し、注意深く穴に足を踏み入れる。やがてその長躯がすっかり見えなくなった。 「どうやらラダトーム城に眠る隠し通路の一つのようだ」 「わあ、びっくりした」 不遜な笑みを湛えたコナンが腕組みをしながらすぐ横に立っている。淡いオレンジに染まった横顔は何時にも増してふてぶてしい。 「何だよお前、何時来たんだよ」 「流れ星が一筋の光を夜空に描いた時さ」 答えになってない答えを口にしてから、コナンは得意気に口の端を持ち上げた。 「昼間王の居場所を尋ねた時、ハロルドの様子がおかしかったんでね。何か知っているなと思ってずっと様子を伺っていたんだよ」 「あの下にはやっぱり?」 「多分」 「……何だよ」 想像力が著しく乏しいアレンが、コナンとナナの顔をきょろきょろと見比べる。コナンはひょいと形の良い眉を持ち上げた。 「それは行ってのお楽しみ。僕達も準備をして神秘の階段を下りてみることにしよう」 コナンは芝居っけたっぷりに片目を瞑った。 |