床に転がるものが己の腕だと理解するより早く、炎の衝撃がアレンの中を駆け抜けた。 痛いなんてもんじゃない。息も出来ない激痛に体が硬直し、膝から力が抜けていく。迸り出る血が瞬く間に床を紅に染めた。 意識の喪失を訴える肉体の悲鳴を、アレンは歯を食い縛って退けた。痛みに耐え兼ねて気絶するなんてローレシア剣士としてのプライドが許さない。 「っの、腐れ坊主……っ」 「その状態で毒づけるとは大したものだ」 ハーゴンの薄ら笑いをコナンの背が遮った。駆け寄ってきたナナがアレンの治療を始めたが、完全に切り離された腕を繋げるにはそれなりの時間が必要だ。 「敗北の味は如何かね? 甘い蜜ばかり与えられてきただろう王子にとって、屈辱の酒盃は刺激が強すぎぬか心配だ」 偽りの同情がそこですっと抜け落ちる。 「尤も私はこれまでの人生で、屈辱と挫折の杯を仰がぬ日などなかったがね」 「……」 出血と激痛のせいで風景がゆらゆらと歪む。ハーゴンを睨みつけるのが精いっぱいのアレンには、もう悪態を返すような余裕は残されていない。 「正当な王妃の子ではない……それだけの理由で私は何一つ兄に勝つことが出来なかった。たった一つ、これだけはと望んだものですら、虚しく私の指の間をすり抜けていったよ」 ハーゴンを油断なく睨みつけるコナンが、ぎりっと奥歯を慣らした。 「この世界は私にとって、ひどく屈辱的な思い出に溢れている。シドーを降臨させることによって、私は永久と新世界を得ることが出来るのだ」 「……くだらない。あまりにばかばかしくて言葉も見つかりませんよ」 「全くだ。まるで子供の癇癪だ」 コナンの挑発にも、ハーゴンは余裕たっぷりに肩を竦めただけだった。 「だが子供の癇癪で壊れるような世界なら、一度壊れてみるのも悪くないと思わぬか」 「あんたにとって何の価値がなくても、あたしはこの世界が大事だわ」 ナナがアレンの血に塗れた手で額を拭った。 「だから絶対あんたの好きにはさせない」 「私と同じ血を引く子らがそのように軒昂であることを嬉しく思う。だがこの状況でどうやって私を止めるつもりだ。次は腕を切り落とすだけでは済まさんぞ」 「野郎……っ」 「まだ動かしちゃだめよっ」 強張る指で剣を握ろうとしたアレンをナナが慌てて止めた。神経がしっかり再生していない状態で無理をすれば、腕そのものが完全にだめになってしまう。 「光の玉さえ渡せば悪いようにはせぬ」 甘言への返答としてコナンが剣先を持ち上げる。ハーゴンは心底残念だという風に大仰な溜息をついた。 「……では皆殺しにしてでも手に入れることとしよう」 その時横から飛び出した影が、ナナの傍らにあった光の玉を拾い上げた。片手に光の玉を掲げ持ち、青ざめた顔でよろよろ歩みだしたのはラルス十九世だ。 「これを持って何処へなりとも行け!」 「国王陛下っ」 コナンの制止などまるで耳に入らぬ様子で、ラルス王は光の玉をハーゴンに差し出した。じっとりと汗ばんだ王の掌から光が滝のように流れ落ちていく。 「光の玉が手に入れば良いのだろう? もう二度とラダトームの町と城に近づかないでくれ」 ハーゴンは光の玉を眺めて満足げに微笑んだ。柔らかな曲線を描いていた瞳が、ラルス十九世を見た瞬間別人のように吊り上がる。 「お前のような人間は軽蔑に値する。私はどのような立場にあろうと気概のある人間が好きだ」 ハーゴンの掌に黒い光がとぐろを巻いた。魔力とは異なる強い力が風となり、勢い良く末裔達の髪や服を嬲る。ぞっとするような死の匂いが辺り一面に立ち込めた。 「これが私の命だ」 光は恰も心臓の如く、淡く濃く明滅を繰り返した。 「そしてこれが……私が復活させたザラキだ」 「くっ」 コナンは倒れ込むようにしてラルス十九世に体当たりを食らわせた。ほぼ同時に放たれたザラキはコナンのマントを掠め過ぎ、背後の壁に激突する。黒い光が火の粉のように散った。 弾け飛んだ光の玉が虚空高くに舞い上がる。光の玉はすぐに失速し、そのまま勢い良く床に落ちて砕けた。 その瞬間、白い光と黒い光が交互に辺りを覆った。 遠くから幾度も名を呼ばれる。頬にぴしゃぴしゃと痛みが走る。 「……てぇ」 喉が渇いて上手く声がない。唸っている間にも頬の痛みはどんどん酷くなり、遂には目から火花が散るような一撃が加えられた。 「痛ぇっつってるだろ!」 がばりと身を起こした瞬間、屈託なく微笑むナナの顔が飛び込んできた。 「あ、やっと気付いた。大丈夫?」 「……え?」 アレンはきょとんと瞬きし、改めて辺りを見回した。 そこは光の玉が収められていたラダトームの地下室だ。白と黒の光に包まれた途端意識を失って、冷たい床の上に伸びていたらしい。 天井と床の魔方陣が輝きを増し、広い空間いっぱいに光の柱を形成している。室内は眩い光に満ち溢れ、まるで夏の昼下がりのように明るい。 「……なんだこりゃ」 「魔法陣の結界。これのお陰であたし達命拾いよ」 「?」 「アレンは魔術防御膜がないから刺激がつよ過ぎたみたいね。どっか痛いとこない?」 「ん、別に……」 後頭部に手をやった瞬間、邪教の神官の冷笑がばっと脳裏に閃いた。 「ハーゴンは? あいつは何処行った?」 「消えちゃったわ」 ナナが軽く肩を竦めたところへ、コナンが歩み寄ってくる。彼のやってきた方向には長々とラルス十九世の巨体が転がっていた。 「王もご無事だ。男を庇うのは僕の趣味じゃないが緊急事態とあっては仕方ないね」 コナンはやや苦々しい面持ちで言って、ぽんとアレンの右肩に手を置いた。 「アレン、腕は大丈夫かい?」 「え? あ、うん、もう平気だよ」 コナンがアレンを気遣うなど晴天の霹靂だ。ハーゴンとの邂逅によるショックがまだ尾を引いているのかと、アレンとナナは思わず視線を交わしあう。 「良かった」 コナンはほっとしたように頷き、爽やかに微笑んだ。 「これで僕が陛下を担いでいく必要はなさそうだ」 「……」 コナンは大丈夫のようだ。ナナが相当わざとらしく咳払いをしてから、改めてコナンの顔を見上げた。 「ねぇコナン。さっき光の玉から弾けた力って、やっぱり竜神の力と闇の衣よね?」 「そのうち竜神の力がこの魔方陣を強めてくれたらしい。そうでなかったら危なかった」 邪神に傾倒した人間は、魂が闇に染まり正当な神の加護を失うという。溢れ出た竜神の力とそれに強化された結界によって、ハーゴンはこの場所から弾き飛ばされたのだ。 「……」 アレンは光の柱をじっと見上げ、それから俯いて唇を噛んだ。 「……俺、負けちゃった」 アレンのしょぼくれた声にコナンとナナはぎょっと顔を見合わせる。元気のないアレンなど、彼らにとって想定の範囲外だ。 「人間誰だって負ける時はある」 「ハーゴンなんて半分化け物みたいなもんじゃない」 「でもあいつだって人間だ」 剣はハーゴンを掠めることもなく、あまつさえ剣を砕かれ腕を切られた。あのタイミングで首を落とされていたとしても不思議ではない。運に運が重なってどうにか命を永らえた完全な負け戦だった。 アレンの腕が完治するまで、医学と魔術を駆使しても二ヶ月の時が必要だった。 二人の魔王が住んでいた王城はここ百年の間に崩れ去り、ほとんど原型を留めぬ状態らしい。乾いた砂に塗れた廃墟だが、竜王が生きているという噂はこのアレフガルドでもまことしやかに囁かれているという。他にこれといって手がかりのない三人は、当初の予定通り魔の島に渡ることにした。 出発の朝もすっきり早起きしたアレンは、城の裏庭で朝稽古の真っ最中だった。 体を動かす都度、顎の先から汗が雫となって滴り落ちた。粉雪混じりの風は身を切るように冷たいが、こうやって剣を振り回していると汗びっしょりになる。 思う存分動いてもよいとのお許しをコナンとナナから頂いた後、アレンは暇さえあれば剣を握っていた。 (今度会った時は絶対に負けねぇ) 食い縛った歯の間から声にならぬ唸りが漏れる。 (必ず勝ってやる) アレンの胸は焼けつくような焦燥でいっぱいだ。 これまでと同じように柄を握り、剣を動かしているはずなのに、その太刀筋はどれも納得がいかない。これではだめだ、これではハーゴンに勝てない、内部から滲む声は容赦なく彼を責め立てるのだ。 声なき声を振り払うように、アレンはただ無言で剣を握り続けた。 こうしている間にもあの戦闘がフラッシュバックする。ハーゴンの冷笑、体を焼く激痛、床に転がった腕、完全なる敗北。悔しくて悔しくて眦に涙が滲む。それを汗と共に拳で拭って、アレンは再び剣を翳した。 雪と氷に閉ざされた神殿で、ハーゴンは朗々と詠唱を繰り返す。氷の壁に声が反響し、幾重にも重なって聖歌のように厳かに鳴り響いた。 「光の玉は失われたが、闇の衣は手に入れた」 ハーゴンはぐっと拳を握った。指の合間から滲む黒い光は、ロトが大魔王ゾーマから剥ぎ取った闇の衣だ。海から採取した死のエネルギーと混ぜ合わせると、光はとろりと濃度を増して床の魔法陣に零れた。 「加えてこれは……面白いものが入手出来たものだ」 広げた掌から生み出された三つの影が、音もなく闇の中に沈んでいく。 闇は魔法陣の中心に蟠り、一抱え出来るくらいの球体となって収縮を始めた。ほぼ完璧な球体だった闇の玉はやがて三つに別れ、見えない手で捏ねられるように人の形を取り始める。 「……上手くいったようだ」 ハーゴンの面に歪んだ喜悦が浮かんだ。薄い唇が、お気に入りのおもちゃを見つけた子供のような微笑を形作る。 やがて完全な人型を取った闇の力がゆっくり目を開けた。生まれたばかりの存在のくせに、瞳には凍りつくような光を湛えている。 「ようこそ我が城へ。アトラス、バズズ、そしてベリアル。破壊神シドーに仕える三柱神よ」 |