伝説の島と竜の王<1>


 ラダトームの重鎮達が言っていたように、魔の島にはほとんど何も残っていなかった。
 嘗てそこにどんな王城が聳えていたのか、今となっては想像を巡らせるしかない。伝説の死闘が繰り広げられた城はほぼ完全に崩れ去り、瓦礫の山となって風雨に晒されるばかりだ。
「でっけえ柱」
 アレンは城門だったらしい太い柱を見上げた。太陽の眩しさにくしゃみを一つ放ち、鼻を啜りながら改めて周囲を見渡す。
「なーんもねぇな」
「ここに今でも竜王がいる、か……。こんな殺風景で潤いのない場所、さぞかし住みにくいことだろう」
 コナンは砂の混じった風を浴びて顔を顰めた。海から吹く風に飛ばされてしまうのか、冬だというのに雪が積もっていない。からからに乾いた大地には草木一本生えることなく、臭気を放つ毒の沼地がそこここで粘り気のある気泡を放っている。
「ホントにこんなとこに竜王がいんのかよ? トカゲ一匹いねーじゃん」
「そう聞いてたんだけど……」
 何時も強気なナナが自信なさげに肩を竦めた。
 竜王はこことは違う世界を護っていた大地の神の末裔だ。竜王が生まれた時既に母の姿はなく、寄る辺のない竜神の力に目をつけたのが三柱神であったといわれている。邪神は若き竜王にロトこそが母の仇と教え込み、アレフガルドの光の玉を奪うよう仕向けたのだ。
「デマだったのかな」
「デマというよりも、伝説に憧れる人々の生み出した幻想かもしれない。竜神の末裔が今もアレフガルドに生きている……詩的で良いじゃないか」
「良くねーよ。これからどうすんだよ」
「それはこれから考える」
「……」
 アレンとコナンに背を向けて、ナナは一人探索を始めた。竜王を尋ねようと言い出したのは自分なのだ。こうも盛大に空振りしては格好悪いし、何より二人に申し訳ないではないか。
「ロトの勇者は、偽りの玉座に隠された階段から、深き迷宮に足を踏み入れた……」
 伝承を口ずさみながら石塊を乗り越えると、大理石の床石に覆われた広い場所に出た。海からひっきりなしに吹きつける風を受け、石を覆う砂が生き物のように蠢く。
「おーいナナ、一旦帰るぞ!」
「船に戻って策を練り直そう」
 少年達の声が響くとほぼ同時に、ナナはお目当てのものを発見した。
「ねえ、ここに階段があるわ! これって曾お祖父さまが使った階段じゃないかしら!」
 それは積み重なった瓦礫の合間から見え隠れする下り階段だった。入り口は狭いが中はかなり広いようで、冷たく湿った風が時折勢い良く吹き上げてくる。
「そうか、竜王の王宮は地下迷宮の先にあったんだったね」
 感慨深そうに頷くコナンを押しやり、アレンがひょいひょいと瓦礫を取り除き始める。あっという間に人一人が通れるほどの穴を開けると、そこから内部を覗き込んでふうんと唸った。
「おい、たいまつが灯ってるぞ。やっぱ誰か住んでんな、ここ」
「剥き出しのたいまつを壁に括りつけただけか、面白みのないことだ。ここの照明担当者は光の美しい見せ方を分かっていない」
 ぶつぶつ言いながら階段を下るコナンに続き、ナナも内部に足を踏み入れた。
 それは一見自然に出来たようでありながら、その実人為的な力によって刳り貫かれた巨大な地下迷宮であった。ここらの地質は岩の如く硬く、人の手でこれだけの迷宮を作り上げるのはまず不可能だろう。恐らくは大地の精霊の力を借りて掘り進めた代物だ。
 歩くのに不自由しない程度の明るさがあるとはいえ、この状況で戦闘になれば魔物の方が有利だ。魔物達は環境に適応しているだろうし、この迷宮のことを知り尽くしている。不意を突かれてどんな罠に追い込まれるか分かったものではない。
 三人は視線を交わし合い、各々の武器を携えて慎重に歩を進める。魔物達との戦闘を掻い潜りつつ、ひたすら最下層を目指した。
「このフロアには下りの階段が二つ……。あと僕達が来たところとは別に上り階段が一つある」
 マッピング担当のコナンが、狭い石室をぐるりと一周してメモに書きつける。
 地下四階はほぼ正方形の狭い部屋だ。彼らがやってきた階段の対角線上に五階へ繋がる階段があり、部屋の中央、半ば崩れた石壁に囲まれるようにして上り階段と下り階段が一つずつ存在する。
「どっちに行けば竜王の王宮に行けるんだ?」
「それは試してみないと分からないな」
「全部試せってことかよ、面倒臭ぇなぁ」
「試す前に一休みしない?」
 ナナは石壁にもたれながらずるずるとしゃがみこんだ。迷宮に巣食う魔物はこれまで以上に手強く数も多い。ほぼひっきりなしに魔術をぶっ放したせいでそろそろ体力的に限界だ。
「そうだね。少し休憩にしよう」
「ん」
 アレンはその場に腰を下ろし、腹拵えのために早速荷物を探り出す。
 普段ならナナも一緒になって間食に励むところだが、今回ばかりは疲労が大き過ぎて食欲が沸かなかった。保存食の入った袋には手を振れず、水袋の蓋を開けて中身を一気に喉に流し込む。生温い水がからからに乾いた細胞の一つ一つに染み渡り、ようやく生き返った気分になった。
「ねえ、あたし達の曾お祖父さまって凄かったわよね」
 いきなり何だと目で問うアレンに、ナナふうと大きな溜息をつく。
「だって最初から最後まで一人旅だったのよ。あたし達が三人で分担していることを全部一人でやりながら最下層に行って竜王を倒したのよ。それって凄いことだと思わない?」
「勇者ロトでさえ仲間の助けを得たといわれているから、その点から言えば確かに曾お祖父さまが最強かもしれないな」
「トモダチいなかったんじゃねぇの?」
「そんなことを言っていると先祖の加護を失いかねない。そうでなくても君は今十五年に一度の大滅界にいるのだから少しは自重すべき……」
「何の話だよ」
「占いさ」
 コナンはふっと微笑み、額に落ちかかる髪を払う。
「サマルトリアのレディ達の間では占いが大流行でね。レディ達との喜びを共有するのも生まれながらのナイトの務め。レディ達は僕のことを未来の伝道師とも呼ぶ」
 アレンが鼻に皺を寄せるのと、ナナがぱっと顔を輝かせるのはほぼ同時だった。
「ねえねえ、じゃああたしの恋愛運見て! ステキな人との出会いはある?」
 ナナが両手を地面についた瞬間、ごぼんっと鈍い音を立ててその部分が抜け落ちた。外からは頑強に見える岩盤も、長きに渡る地下水の浸透のためところどころ脆くなっており、ナナはそこにまともに体重をかけてしまったようだ。
「きゃあっ」
「ナナ!」
 コナンの声が酷く遠くで聞こえた。


 気絶していたのはほんの一瞬の出来事だったようだ。
 ぱちん、と目を開けた瞬間ごつごつとした天井が飛び込んできた。状況を把握して飛び起きようとした途端、体の節々に鈍い痛みが走る。ナナは顔を顰め、特に強く打ちつけたらしい右肩を庇いながらゆっくりと体を起こした。
「落っこちちゃった……」
 天井に目を凝らしても、薄暗くてどこから落ちてきたのか分からない。尤も見えたところでそこから戻れるはずもないから無意味かと、ナナは小さく肩を竦めた。
「……何とか二人と合流しなくっちゃ」
 とてもじゃないがこの迷宮を一人で切り抜けられる自信はない。やがて体力魔力共に尽き、闇の懐で若い命を散らすことになるだろう。
 ナナはぴしゃりと右頬を叩いて気合を入れた。アレンとコナンと落ち合うまで、魔物に出会わぬよう細心の注意を払って動かなくてはならない。
「こんなところで死ねないわよ、ナナ。お父様やお母様やみんなの仇を取るんだから。ムーンブルクを前と同じ風に再建させるんだから。頭の切れるマッチョなイケメンのお婿さんを捕まえて真っ白いウェディングドレスを着るんだから」
 倒れていたところは一本道のど真ん中だ。右を向いても左を向いても延々と道が伸びており、その先は闇に滲んでいて何があるのか分からない。
「どっちにいこうかな……」
 何の前触れもなく、脹脛に何か柔らかいものが貼りついてきたのはその時だった。ナナは声にならない悲鳴を上げ、視線だけを恐る恐る下方に向ける。
「……」
 果たしてそこにいたのは、これまでの人生でお目にかかったことのないような奇妙な生き物だった。
 どんぐりのような丸い体を水かきのついた足で支え、長い尻尾をゆらゆら揺らしてバランスを取っている。ひゅんと逆立った頭の飾り毛と尾の先は鮮やかな青、他は万年雪を思わせる眩いばかりの白。円らな二つの瞳は何処までも穏やかで、大地を抱いて広がる空を髣髴とさせた。
「も」
 それはくぐもった声で一声鳴き、ぺたぺたと右に向かって歩き出した。数歩進んだところで振り返り、鞭のような尾をぴしゃんと床に打ちつける。
「……ついて来いって言ってるの?」
「も」
 頷くと同時に再びひょこひょこと歩き出し、闇の中に溶けていく。
 導かれるまま歩くと、単調な一本道は直角に左へ折れ曲がっていた。ナナは魔導師の杖を両手に持ち直し、首を突き出して角の先を伺う。行く先はこれまでと変わりなく、狭い道が頼りないたいまつの灯りに照らされていた。
「あれ。あの子、何処行っちゃったのかしら」
 ふと気付くと白い生き物の姿がない。小走りに辺りを探すと、一見袋小路に思われた通路の先には下り階段がぽっかりと口を開けていた。
「ここを降りてったのかな」
 アレンとコナンとの合流を目指すなら上り階段を探すべきである。
「でも下には何があるのかな……」
 好奇心は猫をも殺すの諺を知らぬわけではなかったが、一旦気になるとその目で確かめたくなるのがナナの悪い癖だ。王女らしからぬと乳母に嘆かれた性癖がそう簡単に改善されるわけもなく、ナナは軽く舌なめずりして階段を下ろうとした。
 しゅるしゅると、地面を擦る奇妙な音がしたのはその時である。
「……バシリスク!」
 ナナは体を反転させて身構えた。心持ち首を竦めるようにして周囲に目を凝らすが、紫とピンクに彩られた大蛇の姿を捉えることは出来ない。緊張と不安にうなじがちりちりと痛み、杖を握る掌に粘つく汗が滲み出す。
 じりじりと後退しつつあった踵が、ずるっと階段を踏み外した。
「やだもぉ、また落ちるのぉ?」
 ぐるんと視界がひっくり返り、暗い天井が飛び込んでくる。必死で体勢を取り戻そうとしたが足が空に浮いた状態ではそれも叶わず、ナナは来るべき激突の痛みに備えてぎゅっと目を瞑った。
 どすん、と体中に衝撃が走る。
 しかしその衝撃は予想に反して少しの痛みもなかった。冷たく固い階段ではなく、温もりのあるものにしっかりと体を支えられているのを感じて、ナナは恐る恐る閉じた瞼を持ち上げた。
 最初に見えたのは、赤々と燃える炎さながらの紅の瞳だ。
 見たこともない青年がナナの顔を覗きこんでいる。年の頃は二十歳前後、ナナより少し上だろう。大理石のように血の気のない白い面に、作り物めいた目鼻がきれいに並んでいる。まず美形と称して差し支えのない面相だ。
 ナナは階段の中程に立った青年の腕にしっかりと横抱きされているのだった。
「……あなた誰?」
「それはこちらの台詞じゃ」
 少ししわがれた低い声が青年の薄い唇から零れる。若い様相とは裏腹に随分と古風な喋り方だ。
「お前は人間じゃな? 人間が何故こんなところにいる?」
「何故って色々と事情が……説明する前に下ろしてもらえる?」
 ナナが緩く両足を上下させると、青年は頷いて彼女を階段の上に立たせた。
(……この人、何処かで会ったことあるっけ?)
 奇妙な既視感だ。ナナは胸がざわつくような面妖な感覚に戸惑った。
(結構かっこいいから、一度会ったら忘れないと思うんだけどなあ)
 青年の背は高く、長身のアレンよりも更に頭一つ大きい。ナナは仰ぐようにして青年の顔を見上げ、その後ぺこんと頭を下げた。
「受け止めてくれてありがとう。お陰で怪我しないで済んだわ」
「……お前はわしが怖くないのか?」
「怖くないわ。あなたからは悪いものを感じないから」
「わしは人間ではないのだぞ」
「みたいね」
 ナナは青年の側頭部から突き出した角を見て目を眇めた。あらゆる金属とも鉱物とも違う質感の角は、たいまつの炎よりも尚眩しく輝いている。
「でもこんなところに人間がいる方が変だと思うの」
 自分のことをきれいさっぱり棚に上げてから、ナナは改めて青年に尋ねた。
「あなたは誰? 魔物じゃないでしょう? 邪気を感じないし、何よりあたしを助けてくれたし」
「わしは竜王じゃ」
 朝の挨拶のように、なんの気負いもなく放たれた言葉にナナは目を見開いた。
「わしは竜王……嘗てこの大陸を支配していた竜王に代わる者。大地の守護者たる竜神族の末裔じゃ」