伝説の島と竜の王<2>


 ナナは今一度しげしげと青年の角を眺めた。仄暗い闇の中、夜空に君臨する月のように冴え冴えと輝くそれは竜神の証なのだ。
 なるほど彼が竜王だというのなら、先刻感じた既視感も納得行った。五百年の昔、雨の血筋の祖たる勇者に加護を与えたのは、竜王の母親に当たる大地の竜神だったと言われている。ナナの中に眠る竜の力が、同胞との再会を懐かしがっていたのだろう。
「竜王に代わる者? アレフガルドを支配していたあの竜王とは違うの?」
「先の竜王は人間に屠られた。わしはその亡骸を礎に生まれ変わった存在じゃ」
 竜王は淡い色の眉をやや威圧的に聳やかせた。
「お前の質問には答えた。次はお前がわしの質問に答える番じゃ。お前は何者じゃ」
 ナナは逡巡した。先代を屠った勇者の血族が現れたとなれば、竜王の心は決して穏やかでないだろう。もしかするとその鋭い爪が、尖った牙が、仇を討とうと襲いかかってくるかもしれない。
 だが嘘をついてごまかそうとは思わなかった。彼女は王女であり、常に誇り高く正直であれと教育を受けてきた人間なのだ。
「あたしはムーンブルクのナナ。あなたの前身を……百年前に竜王を倒したロトの勇者の末裔よ」
「……」
 竜王の目がすうっと糸のように細くなる。来たるべき攻撃に身構えたナナであったが、予想に反して竜王は何もしてこなかった。
「そうか。ロトの子孫が今更何をしにきたのじゃ」
「そうかって……それだけ? 仇を打とうと思わないの?」
「百年も昔の出来事のために、何故無駄な殺生をする必要がある」
 ぽかんと口を開けるナナに、竜王は再び目的を訪ねてくる。ナナは慎重に間合いを保ちつつ、言葉を選んで竜王の疑問に答え始めた。
「……あなた、大神官ハーゴンのことを知ってる? あたしはハーゴンを倒すために旅をしてるんだけど、あいつの居場所が全く掴めないの。竜神のあなたなら何か知ってるんじゃないかと思ってここにきたのよ」
 何の前触れもなく、竜王の表情が険しくなったのはその時だ。
 反射的に後じさったナナの手が、竜王のそれにがっしりと捕まれた。本能的な恐怖を感じて振り解こうとするものの戒めはびくともしない。
「こっちに来るのじゃ!」
「ちょっと……いきなり何なのよ!」
 引き摺られるようにして走り出しながら、ナナが声を荒げる。
「上階から魔物の気配がする! 取り敢えずわしの王宮に逃げるのじゃ! この先の階段を下ればすぐ……」
 そこで竜王が足を止めたため、ナナは危うくその背中に激突するところだった。
「急に止まったらびっくりするじゃ……」
 文句をつけようとして、ナナは竜王の体越しに魔物が迫りつつあるのを知った。バシリスク、ゴーゴンヘッド、ドラゴンフライ……厄介な魔物達が三十を越える大群となって狭い通路に犇いているのだ。
 逃げ道を探して背後を振り返れば、先ほどナナが転げ落ちてきた階段からまた別の群れが姿を現し始めている。完全な挟み撃ちだ。
「引いても魔物、進んでも魔物じゃな」
「あなたこの城の王様なんでしょ? 魔物達に言うこと聞かせられるんじゃないの?」
 ナナは竜神の証たる角を見上げ、続いて彼の腰を飾る立派な剣に目をやった。それらは何れも魔術めいた不思議な波動を放ち続けており、魔物を退けるなど造作もないことのように思われた。
「不愉快じゃ」
 竜王は滑らかな眉間に深い皺を刻んだ。
「破壊神シドーに囚われた先代と一緒にするでない。わしは正当な神の末裔、魔物供と相容れる要素など持ち合わせておらぬ。更に」
「……更に?」
「更にわしは魔物が怖い。こんなにたくさん出てきてどうしよう」
「どうしよう、じゃないわよ!」
 涙目でローブに縋りついてくる竜王を思わず蹴り飛ばす。
 しくしく泣きながら蹲る竜王を背に庇うと、ナナは杖を両手に持って身構えた。さして広くもない地下通路の中、魔物達の生臭い吐息がねっとりとナナの肌に絡む。
「全くもう、絶体絶命の大ピンチってことじゃないの……バギ!」
 半ばやけくそに放った真空の渦は、牙を剥いて飛びかかってきたサーベルウルフの口吻をずたずたに引き裂いた。ぎゃん、と悲鳴を上げてもんどり返るサーベルウルフの下敷きになって、数匹にバシリスクが潰される。
 仇討ちとばかりに飛び跳ねたバシリスクの頭部を、ナナはスイングの要領で吹き飛ばした。潰れた頭部から吹き出る脳漿の臭いに顔を顰めつつ、大きく振り上げた杖をメドーサボールの眼球に突き立てる。のたうつメドーサボールを蹴り飛ばし、下降してきたドラゴンフライの羽を火玉で焼き、墜落したところをバギで止めを刺す。
 さして重量のない魔導師の杖をようようのことで構えながら、ナナは肩を弾ませた。
 気力体力共に限界だ。視界が白く霞み、体を支える二本の足が震える。からからに乾いた舌の上にバギの詠唱を躍らせたが、生命維持を最優先させる体が魔力変換を拒んだ。無理を押して魔術を遂行しようとすれば、肉体はすぐさま意識を喪失させるだろう。どの道助からない。
「予定としてはこれから美しく花開こうって時に、蕾のまま握り潰されるなんて最悪……」
 ナナが腹の底から呻いたのと、右手に炎が閃いたのはほぼ同時だった。安堵感に腰が砕ける思いでそちらを見れば、階段を駆け下りてくるアレンとコナンの姿がある。
「アレン……コナン……。助かった……」
「迷子の子猫ちゃんに怪我はないだろうか? 途中魔物に道を塞がれて足止めを食らってしまったよ」
 コナンは片目を瞑り、広げた掌から連続してギラの火球を放つ。薄闇に鮮やかなオレンジの軌跡を描きながら、炎は容赦なく魔物達を焼いた。
 思わぬ助っ人の登場に形勢不利と判断したか、魔物達は尻に帆をかけて逃げ出し始める。愚かにも引き際を間違えたサーベルウルフがナナ目がけて大きく跳躍したが、稲妻のように走り抜けたアレンに吹き飛ばされ、ぐずぐずの肉片となって地面に散ったのだった。
 見事な一撃を披露したにもかかわらず、アレンは苛立たしげな様子で武器に付着した血糊を払う。折られた剣の代わりとして、アレンがラダトームで購入したのは、大かなづちと呼ばれる巨大な武器だ。
 アレンが何の躊躇いもなく風変わりなその武器を選択した時、ナナは思わずコナンと顔を見合わせたものだ。矜持と自信を粉々に砕かれたことによって、アレンは無意識に剣という彼自身の証を遠ざけてしまっているのだろう。事実ラダトームでの敗北以来、彼は戦闘に対する余裕を失っているようだった。
「お前なぁ、落っこちたらそこで大人しくしてろよ! うろうろしやがって、探すのが大変だった……って、何だよそいつ?」
 アレンの視線が床に蹲る竜王に注がれた。憤怒の表情が一変して胡乱げなものに変わる。
「竜王よ。正しくは竜王の生まれ変わり。この城を支配する王様でいらっしゃいますことよ」
「竜……」
「……王?」
 アレンとコナンは顔を見合わせ、今一度竜王と呼ばれた男を見た。
「こんな弱そうな奴のどっこが竜王なんだよ」
「だって本人がそう言ったんだもん」
 ナナは唇を尖らせて、未だに小さくなっている竜王の肩を揺すった。
「ねぇ、もう大丈夫よ。魔物は全部行っちゃったから」
「……本当か?」
「ホントよ」
 竜王は恐る恐る顔を上げて辺りを見回した。魔物の屍が累々と転がる様をしばし眺めていたかと思うと俄かにすっくと立ち上がる。そして悠然と腕を組み、魔物達が遁走していった方角に向かって不敵な微笑みを浮かべた。
「わしの城を汚す卑しき邪神の手先供め。今日はこのくらいで勘弁してやろう」
「あんた何もしてないじゃないの!」
 ナナがどかんと杖で後頭部をどついても、流石竜神族というべきかさしてダメージになった風もない。竜王は平然とした表情でくるりと振り返り、赤い瞳にきらきらと星の光を浮かべてナナを見下ろした。
「それにしてもお前、強いのう」
「……え? あ、はぁ。どうも」
「魔物をどつき、張り倒し、蹴飛ばし、挙句呪文でぎたぎたにする。お前のような強くて逞しい人間のメスを見たのは初めてじゃ」
「おっかねぇ女」
「何ですってぇ!」
 アレンに噛みつこうとしたナナの手にそっと竜王の指先が絡む。
「な、何……?」
 竜王はナナの手を握ったまま床に片膝をついた。真摯な眼差しでじっとナナを見つめること数秒、彼は熱っぽい口調でうっとりと語ったのだ。
「わしはお前のような魅力的なメスに初めて出会った。お前の強さにわしの心は奪われた。お前をわしの后としてこの城に迎えたい」
「ええええええええええええええええええええええええええええええええええ」
 突然の求婚にはさしものナナも動揺せずにはいられない。
「い……いきなり何なのよ!」
「わしの后になれば世界の半分をお前にやろう」
「い、いらないっ」
 突き放す口調とは裏腹に、心臓が口から飛び出さんばかりにときめいているナナである。
 何しろ乙女心の片隅で描き続けてきたプロポーズなのだ。何時かマッチョでイケメンな白馬の王子様がやってきて、百花繚乱たる花畑で結婚を申し込んでくれるはずというナナの夢は、例え相手が白馬の王子ならぬ竜神の末裔であろうとも、例えその場所が花畑ならぬ地下迷宮であろうとも、一応実現したことになる。
「いきなりそんなこと言われてもっ、あたしってばっ、旅の途中だしっ」
「そのような瑣末事が何の障害になろう。お前には是非……」
 うろたえるナナの手を竜王は更に力を込めて握り締めた。
「お前には是非わしの卵を産んで欲しい」
 ナナはきょとんと瞬きをした後、微かに眉を顰めた。
「……は?」
「白くて丸くて愛らしい、わしに良く似た卵を産んでくれ」
 一呼吸、二呼吸、三呼吸。永遠とも刹那とも取れる奇妙な沈黙を経て、ナナの細い肩が次第にぶるぶると震え始めた。
「おお、震えるほど喜んでくれるのか。これは恐らく先の竜王とローラ姫の時代から定められた運命の出会い……」
「ふざけないで!」
 ナナの強烈な平手打ちが竜王の頬に炸裂した。
「初対面のレディに向かって、た、たたた卵産めですって、失礼しちゃう! あたし、先に王宮に行って休んでるから、アレンもコナンもさっさと来てちょうだい!」
 邪神も裸足で逃げ出すような形相で、ナナはのっしのっしと地下道を歩いていく。その後ろ姿を呆然と眺めていた竜王が、がくんと両手を地面についた。
「何故じゃ……! 何故わしの求婚が受け入れられぬのじゃ……!」
「今のは求婚というより侮辱に近いな」
「人間は卵産めねぇからな」
「そういう問題じゃないだろ」
 傍観者と化していたアレンとコナンの元へふらふらと竜王がやってくる。竜王はその場に力なく座り込み、捨てられた犬のような目で二人に尋ねた。
「教えてくれそこの人間のオス供。わしの求婚の一体何処がいけないのじゃ」
「そうだな。僕の洗練された言語感覚から判断するに、あまりにも直接的で美しくないね。」
「そんな……これと決めたメスのためにずっと大事にしてきた言葉だというのに……」
 竜王はすっかりいじけて項垂れ、埃だらけの床の上にのの字を書き始めた。