伝説の島と竜の王<3>


 それは海の中にある宮殿だった。
 ガラスでは水圧に耐えられないだろうから、恐らくそれに良く似た、そしてそれより遥かに強度のある鉱物で作られているのだろう。海の青さを遜色なく映す透き通ったドームに守られ、竜王の王宮は海底に鎮座していた。ぐるりと周囲を見回せば、地上を歩くだけでは決して知り得ない海の光景が延々と広がっているのだ。
「すっげぇ〜。魚泳いでるぞ。マンボウって美味いのかなぁ」
「何と美しい光景なのだろう……。光と水が交わる風景は万の言葉を用いても言い表すことは出来ないな。それでも美を愛する僕の心は、この美しさを称える詩を紡がずにはいられない」
「わぁ見て、きれいな珊瑚。首飾りにしたらきっとステキよね〜」
 ドームにべったりはりついて、思い思いにはしゃぐ三人の背で低い声が響いた。
「お前達、わしに聞きたいことがあるのではなかったのか」
 途端、三人は現実に引き戻されてくるりと声の方向を向いた。
 ビロードと宝石に飾られた玉座に腰かけた竜王が、肘掛に頬杖をついてこちらを眺めている。白磁の頬にくっきりと刻まれた手形が痛々しい。
「あーそうだった。忘れてた」
「僕としたことが、あまりに美しい光景に本来の目的を見失ってしまっていたようだ」
「さっきも言ったけど、あたし達ハーゴンの居場所を知りたいのよ。あなたが何か知らないかなと思ってここに来たの」
 先程の怒りなど海の青さに吸い取られてしまったかのように、けろりとした表情でナナが尋ねた。
 竜王は右手を眼前に翳し、すうっと両目を細めた。天井に向いた掌に光の玉が生じ、低い唸りを上げながら次第に体積を増していく。
 一抱え出来るほどまで膨れ上がったところで、光の中央に七色の玉が浮かびあがった。玉はぐるぐると渦を巻いて混じり合うと、やがて次々と画像を結び始める。それは深い森であったり、何処かの町であったり、神秘の聖堂であったりした。
「このように、わしは座したまま世界を見ることが出来る。最近ハーゴンとかいう得体の知れぬ輩があちこちで災いの種を振り撒いているのも知っておる」
「ではその術で叔父上……ハーゴンの居場所を探ることは?」
 竜王は薄い唇を微かに動かし、末裔達には聞き取れない文言を紡ぎ出す。
 光の玉はやがて、何処とも知れぬ雪原を映し出した。無残に砕かれた岩山、不吉な色に濁った空、一瞬にして凍結したのだろう木々、そこに存在する全てが命の温もりを拒むかのよう。唸る風が雪の破片を吹き上げる以外、動くものは見当たらない。
 やがて雪原に長々と伸びた影が映し出される。影の正体を見上げようとしたところで、何の前触れもなく光の玉が弾けた。
「……凄まじき邪神の加護よ」
 砕け散った光が淡雪のように消えていくのを眺めながら、竜王はあからさまに顔を顰めた。
「あれは霊峰ロンダルキアじゃ」
 ムーンブルク南西に位置するロンダルキア山脈は、古来より神の宿る霊峰だと伝えられている。鳥すら寄せつけぬ切り立った山の頂には、光の花が咲き乱れる祝福の大地が広がり、精霊神ルビスの眷属である妖精族が住んでいると言われていた。
「あの雪原がロンダルキア? 伝え聞く楽園とは随分様相が違ったようだが」
「即ちハーゴンは、神の山すら変貌させるほどの加護を得たということになる。ロトの血を引くとはいえ、人の子に過ぎぬお前達が適う相手ではない」
「相手ではない、と言われても困るな。何かいい方法はないだろうか?」
 竜王は長々と嘆息しつつ、背もたれに体を預けた。
「わしは所詮、他世界の神なのでそこまでの力は与えてやれぬが……。精霊神ルビスならば可能かもしれん」
 神々の大戦の後生まれた精霊神ルビスは、戦いで砕けた世界の一部を創造神から与えられた。若き女神は破片に涙を注いで海を作り、口付けをして花と緑を芽吹かせ、優しく腕に抱いて数多の命を育んだ。万物の母たる女神の加護を受ければ、世界そのものを味方にすることが出来るかもしれない。
「精霊神ルビス様にご助力願うのはいいとして、何処にいったらルビス様にお会いすることが出来るのかしら?」
「ルビスには何処に行っても会えない。いや……何処へ行っても会えるというべきか」
「あのさぁ、もっと分かり易く言ってくんねぇかな」
 早くもイライラとつま先を打ち鳴らし始めたアレンに、竜王は苦笑いを零す。
「精霊神ルビスはロンダルキアにて大地と同化し、守護の力として世界に宿っている。お前達の吸う空気、踏みしめる大地、頬に感じる日の光……それらが全てルビスなのじゃ。ルビスは精霊神であると同時に世界そのものであるのじゃ」
「それではルビス様との意志の疎通は不可能ということになる」
 コナンが眉間に皴を寄せるのに、竜王は焦るなとばかりに片手を翳した。
「精霊神は世界と一体化する前、愛、憎、怒、哀、喜の五つの感情を手放した。感情は結晶体となって世界に散り、再び一つに溶けて女神の心となる日を待っている」
「何でそんなことすんだよ?」
「より純粋な意味で神となるために。神としての役割を果たそうとするのに、感情など邪魔なだけだ」
 竜王はやや皮肉っぽく肩を竦めた。
「五つの力は紋章と呼ばれ、それぞれの守護者に護られている。ロトの末裔よ、守護者を探せ。その者がお前達を認めれば紋章を授かることが出来よう。五つの感情を揃えて心を再生させた時、ルビスは蘇る」
 三人は思わず顔を見合わせた。
「でも……その守護者って何処にいるの?」
「一つはここから南へ下ったところにある大灯台」
 竜王は再び掌に魔力を生み出し、厳然と聳え立つ古めかしい塔を映し出した。
「一つは魔力に満ちていた大地」
 夕焼けに抱かれたムーンペタの町並みが浮かび上がる。
「一つは旧きコロシアムの聳える地」
 燦々と降り注ぐ日差しの中、青空と白亜のコロシアムの対比が眩しい。
「一つは精霊神ルビスの従者が見守る場所」
 延々と広がる大海原が太陽の輝きを帯びて煌く。
「そして一つは……精霊の集う地であった場所。ロンダルキアに通じる洞窟」
 湿った闇に満たされた洞窟の風景が広がる。それを映し出したのを最後に、光の玉は力尽きたように空気に溶けた。
「紋章を集め、ロンダルキアのルビス聖堂に赴け。聖堂はテパ族の神殿から繋がっていると聞くが、わしも詳しいことまでは分からぬ」
 新たに様々な問題が提起されたが、まずは紋章を集めぬことには始まらぬようだ。
「一番近いは南の大灯台ね」
「んじゃまずはそこに行ってみっか」
 深く垂れ込めた霧の向こうにようやく一筋の光明が見出せた。全ての道筋が見通せたわけではないが、やるべきことが決まれば自然気合が入ってくる。
「色々教えてくれてありがとう。それじゃあお邪魔しました」
 ぺこんと頭を下げたナナの足に、王座から身を投げ出した竜王が縋りついた。
「もう行ってしまうのか。一晩くらいゆっくりして行ってはどうじゃ」
「あたし達忙しいのよ」
「急いてはことを仕損じるというぞ。今日はもう遅い。ラダトームの宿屋などよりもずっと柔らかなベッドと美味い食事を用意しよう。勿論無料じゃ。節約出来るぞ」
「美味い飯? ホントか? だったら泊まる!」
「節制は美徳だね」
「もう……っ」
 ナナは頬を膨らませる。食事に浮かれているアレンには杖の一発もお見舞いしたいところだが、ローブの裾を竜王にしっかり握られていて踏み出すこともままならない。
 結局そのまま、三人は竜王の王宮で一夜を明かすことになったのだった。


 良く磨かれた大理石のテーブルに、アレフガルドの郷土料理が山のように並べられた。美味そうな湯気を立てるそれらは全て竜王の手作りであり、素材は王宮の片隅で自給自足したものだという。竜神が畑を耕し、家畜の世話をしているとはなかなか感慨深い話だ。
「君はずっとこの城で一人暮らししているのか? 見たところ話し相手もいないようだが、潤いのない生活に嫌気が刺すことはないのだろうか」
 テーブルの精緻な彫刻に感動していたコナンが、ふと竜王にそんな質問をぶつけた。
「わしは母上のいるこの王宮を離れたくない」
「母上? あなたのお母様? でも……」
 竜神は次代を残さぬうちに寿命を迎えると、死に行く体を核として次代を形成する。先代の肉体から生まれ変わったという現世の竜王に、母親がいるというのは妙な話ではないか。
「わしを育ててくれたのは、ロトの勇者と共にこの城にやってきたラーミアの化身。厳しく優しく白く丸い母上であった」
「白く丸い……?」
 ゆるりと首を傾げた一瞬後、ナナはぱんと手を打ち鳴らした。
「さっきの子! あたし、あなたのお母様に会ったわ!」
「ほう……」
 竜王の声に一瞬、羨望の響きが混じったように聞こえたのはナナの気のせいだろうか。
「母上は亡き後も魂となってこの王宮とアレフガルドを守ってくださる。加護が特に強く働くこの王宮にいる限り、わしは怖い魔物に会わずに済むのじゃ」
「済むのじゃ、じゃないでしょ。あんたってば仮にも大地の竜神なんだからそれなりの力はあるんでしょ? 竜王はお祖父様との戦いの時、小山みたいに大きく変化したって聞くわ。魔物なんて踏み潰しちゃえばいいじゃない」
「わしは……竜に変化することが出来ぬのじゃ……」
「は? だってお前、竜神なんだろ?」
 アレンがごくりと口の中のものを飲み下した。竜神が人と竜の形を取ることは、人間が服を着替える程度に簡単なことだと思い込んでいたのだが、どうもそうではないらしい。
「わしの力が先代に比べて弱いのか、或いは何か他の原因があるのか、それは分からぬ。とにかく、わしは生まれてこの方ずっと人の姿で過ごしてきた。竜の力を満足に振るえぬ人型のまま、魔物と渡り合うなど考えただけで恐ろしい」
 彼もまたラダトーム王のように戦士になれぬ男なのかもしれない。だが数多の家臣に守られたラダトーム王と、たった一人でこの城に住む竜王では状況が違う。竜王は自ら戦わなければならぬ立場にあるのだ。
「城の上階は魔物で溢れていた。この王宮は不死鳥の加護が働いているというが、それも永遠に続くという保障はない」
 コナンが手にしたグラスを揺らすと、ワイン色の光がテーブルの上に零れた。
「竜神の存在を快く思ってはいないからこそ、ハーゴンはこの城にも魔物を送り込んでいるのだろう。何時までもこのままではいられないのではないか?」
「お前さ、魔物に食われちゃうかもしれねぇぞ」
「そんなこと言ったって……」
 竜王は冷たいスープの表面にスプーンでのの字を書き始める。しょんぼり項垂れるその姿は、とても伝説に唄われる竜王とは思えない。
「大地の守護神たる君が奮起してくれれば、状況は良い方向へ転がると思うのだが」
 竜王は聞き取れない程の小声で何か言い訳した後、新しい料理を取りに席を立った。若い牡鹿を思わせるような引き締まった背中が扉の向こうへ消えるや否や、ロトの末裔達からは空気が抜けるような溜息が漏れる。
「ラダトーム国王は悪夢を恐れて失踪。大地の守護神は魔物を怯えて引きこもり。アレフガルドが叔父上の手に落ちるのもそう遠くなさそうだ」
「どっちも旅に連れ出して根性叩き直してやりたいわ」
 ナナが憤然とサラダを頬張る様を眺めていたコナンが、ふと口元に笑みを浮かべた。
「ナナに叩き直されればさぞかし強靭な竜王になるだろうな。君もああいうタイプは放っておけないだろう。君のような勝気な女の子は、案外母性本能を擽るタイプに弱いから」
「な……」
 口元に運びかけたトマトがぽとりと皿に落ちた。そのトマトに負けじとばかり、ナナの頬がみるみる紅潮する。
「前に聞いたナナの好みに結構当てはまっていると思うがどうなんだい? 頭のいいマッチョなイケメンだろう?」
 竜王はすらりと細身に見えてその実しなやかな筋肉に包まれており、顔は人外の雰囲気拭えぬものの作り物のように美しい。神の末裔だけあって知識は豊富だ。
「好みのタイプだったら問題ないってわけじゃ……」
「いいじゃん、旅に連れてけば。これ逃したら、お前一生嫁に行けねぇかもよ?」
 にやにや笑うアレンの鼻先に、ナナはびしりとフォークの先を突きつけた。
「うるさいわね! あんた五歳の時、許婚の子と戦いごっこしてて思い切り後ろ頭どつかれたんですってね! その時の怪我が元で出来た一ゴールドハゲのこと、年始年末に親戚が集まると必ず話題にされるんでしょ!」
「うわあああ何でお前がそんなこと知ってんだあああ」
 後頭部を抱えてうろたえるアレンにそれ以上一瞥もくれることなく、ナナは残りの料理を掻き込んだ。