伝説の島と竜の王<4>


 やがて夜も更けた。
 アレンが大の字になって眠っている頃、コナンがレディ云々と寝言を呟いている頃、ナナは憮然とした面持ちで、闇の色しか映さなくなった海底を眺めていた。
 ゆったりと広い安楽椅子に座るナナの足元には、良く懐いた犬のように竜王が寄り添っている。ローブの裾から覗く尾っぽが、右に左にぱたぱたと揺れていた。
「このフルーツジュースはどうじゃ。わしが心を込めて絞ったジュース、きっとお前の口に合う。それともこのケーキはどうじゃ。わしが心を込めてクリームを泡立てたケーキ、きっとお前の口に合う。それともこの……」
「聞きたいことがあるんだけど」
 あれこれ世話を焼きたがる竜王を、ナナはやや硬い口調で制した。
「何じゃ。申してみよ」
「一生をお母様に頼って終わる気なの?」
 敢えて抑揚のない声で冷たく尋ねると、竜王は忽ち居心地悪そうにしょぼくれた。
「母上に頼っているばかりではない。……わしはこの生まれた場所を守ろうと……」
「嘘ばっかり。魔物が怖いからここを離れたくないって、さっきそう言ってたじゃない」
「嘘ではない。ここは母上との思い出に満ちた場所であり、先代から受け継いだ城であり……」
 竜王はか弱い声で呟きつつ、右手と左手の人差し指をちょんちょんと合わせる。その不甲斐ない有様にナナは柳眉を吊り上げた。
「だったら余計に自分の力でどうにかしようと思わないの? このままじゃ本当に、あなたとお母様が暮らしたお城が魔物でいっぱいになっちゃうわよ!」
 頭ごなしに怒鳴られて、さしもの竜王もむっとしたように口をへの字に曲げた。しかし己が不甲斐なさは重々心得ているようで、反論する声にも力がこもらない。
「仕方ないではないか。わしは弱いのじゃ。そして、それは、わしのせいではない」
 ぶつん、ぶつんとワンセンテンスごと力なく区切りつつ、竜王は続けた。
「母上はわしが先代とは違う、正しき竜神としてアレフガルドを護ることを望んでおられた。恐らくアレフガルドの民もお前達もそう思っているのだろう。だが竜神として生まれたばかりに、一方的に過分な期待をかけられるわしの身にも……」
「自分が世界で一番かわいそうだと思ってるでしょ」
 ナナの顔がすうっと表情を失った。
「生まれてくる場所を選べる人なんていないのよ。あたしだって……あたしのお父様とお母様だって、ムーンブルクの王家に生まれなかったら、今も元気でいらしたかもしれな……」
 込み上げてくるものに声が震えた。
 目元が痛くなるのに涙が出てこない。熱くて硬いものが喉につまり、それがごつごつとした岩でも飲まされたかのように重苦しい。ナナはぎゅっと目を瞑り、体を小さくしてその奇妙な痛みが過ぎ去るのを待った。
 愛する両親の顔が、かけがえのない人々の姿が次々と浮かんでは消えていく。淡いセピア色に染まったそれらの面影が二度と触れ得ぬものだと思えば、その切なさに益々息が苦しくなるのだ。
「どうしたのじゃ。どこか痛いのか」
 傍らに腰かけた竜王がおろおろと背中を撫でてくれる。その暖かい掌の感触が、今はとても嬉しいものに思えた。
「ありがとう、大丈夫。あたしは死なないから」
 悲しみで人は死なないのだ。心が抉られるように痛んでも、ものを食べて眠ることさえ出来れば、肉体は生命を維持してくれる。人体の仕組みがこれほどありがたいと感じたことはなかった。
 ナナは燃える瞳で闇を睨んだ。漆黒の風景にハーゴンの姿を思い描けば、苦しみも痛みも吹き飛ばす憎悪が心に吹き荒れる。最近ナナは、こうして悲しみをやり過ごす方法を身につけた。
「……あたしは今、ロトの血を引いてることに感謝してるの。だってこれは戦う力になるんだもん。ハーゴンをぎたぎたにするためにあたしは勇者の血を利用してやるの」
 強く唇を噛むナナを見つめることしばし、竜王は溜息に似た囁きを漏らした。
「わしにはお前のような目的がない。目的に邁進する根性もない。更に言えば竜神族としての誇りもない。実際のところ、竜神の末裔だという自覚ですらあやふやなのじゃ」
「あたしだって、多分アレンやコナンだって、自分がロトの子孫だなんて実感ないわ。周りがそう言うからそうなんだなって思ってただけ」
 ナナが俯いた拍子に、月光のような巻き毛がふわふわと肩口から零れた。
「でも戦う血筋を受け継いだっていうのなら、あたしはとことんまで戦ってやるわ。行き着くとこまで行けば、あたしが生き残った意味が見えてくるかもしれないもの」
「その意味が見えるまで、お前は何を拠り所にして生きていくつもりじゃ。……復讐か?」
「そうよ」
 本当ならそんな風に生きたくはなかった。王女として清らかに、勇者の末裔として崇高でありたかった。
「……あたし恥ずかしいよね、憎しみに縋って生きていくなんて。お母様は何時もあたしに、ロトの名に恥ずかしくないように生きなさいって仰ってたのに……」
 ハーゴンへの憎悪は血に溶け込み、毛細血管の隅々まで行き渡って今の彼女の原動力になっている。復讐心がなければ一歩も歩き出せないのがナナの現状だった。
「だがどう足掻いたところでわしらは先祖や先代と同じには生きられぬ。何故ならわしはわしで、お前はお前だからじゃ」
「……」
 無言で見上げた先には懐かしい竜の瞳がある。ナナの遠い祖先、雨の血筋の始祖も遠い昔こうして竜と語り合ったのだろうか。決して持ち得ぬはずの優しい思い出が、暖かい風となって吹き抜けた気がした。
「……母上は亡くなった後、一度たりとてわしに姿を見せてはくださらぬ」
「え?」
 何の脈絡もない竜王の呟きに、ナナはきょとんと瞳を瞬かせた。
「この王宮とアレフガルドを守るのは、本来なら大地の竜神たるわしの仕事。死してなおこの場を守り続けてくださる母上は、わしの不甲斐ない有様に大層ご立腹なのだろう」
「……」
「母上に認められるような強い竜神になりたいとは思う。だが一体、わしはどうすればよいのだろう?」
 それは勇者の末裔に相応しくありたいと思い、だがそう生きられぬナナの苦悩と同じだ。その時になってようやく、ナナは二人の心の有様がひどく似ていることに気付いた。
 沈黙が訪れ、それきり会話は途切れた。


「んじゃまたな。飯、美味かったよ」
「実に神秘的で有意義な体験だった」
「うむ。気を付けていくが良いぞ」
 アレンとコナンの挨拶に鷹揚に頷いた後、竜王はそっとナナの方を伺う。ちらりと犬歯を覗かせて何かを言いかけた唇は、しかし結局言葉を紡がなかった。
 三人は竜王に別れを告げ、ぐるりと王宮を回って出入り口へとやってきた。いざ階段を上ろうとした時、最後尾のナナがぴたりと足を止める。
「……ここでちょっと待っててくれる? あたし、竜王に言いたいことがあるの」
「言いたいこと?」
「行ってきたまえ。僕達はここで待っていた方がいいのかな」
「うん、ここは魔物が出ないから一人で平気。すぐに戻ってくるわ」
 ナナは二人に背を向けて駆け出した。海色の光がベールのように棚引く王宮を駆け抜け、小さな橋を渡り、星の砂地を飛び越える。
「竜王!」
 王座でぼんやりとしていた竜王は、ナナの声に怪訝な様子で振り返った。
「何じゃ、出発したのではなかったのか」
「うん、行くわ。でもその前にあなたに言いたいことがあって」
 ナナは胸に手を当てて弾む呼吸を整えた。
「昨日あれから色々考えたの。そして最終的に思ったのが、昨日あなたが言ってくれた通り、あたし達は結局、自分の方法でしか生きられないのかなってこと」
 光彩のない竜王の瞳が時折静かに瞬くのを眺めつつ、ナナは言葉を続けた。
「あたしとあなた、どっちが自分の生き方を先に見つけられるか競争ね。あたし一生懸命探すから、竜王にもがんばって欲しいの」
「……」
 竜王の口がゆっくりと開き、閉じる。少し間を置いて又開き、又閉じる。そこから言葉が生まれて出てくるのを、ナナはじっと辛抱強く待った。
 頬を優しく照らしていた光が、不意にふっと翳った。
 はっと天井を振り仰いだナナは、透き通った水面の向こうで暗雲が不自然なとぐろを巻くのを見た。明らかに人為的な力で動かされているのだろうそれは、あれよあれよという間に八方にたなびき、不可思議な形を作り出していく。燦々と降り注ぐ太陽の光が、雲の形をそのままドームに移し込む形となった。
 ぞくっ、とナナの背筋に怖気が走る。大気と海を通じても感じられる魔力は、嘗て一度だけ触れたハーゴンのそれだ。
 だが一体どのような奇跡を起こせば、短期間の間にこれほど力を増強させることが出来るのか。ラダトームの聖堂で見えた時とは比べ物にならぬほど、その波動は禍々しく力強い。
「竜王!」
 叫ぶより早くドーム全体に鈍い衝撃が走った。陽光が描いた魔法陣を中心に、無数の皹が走っている。
「……崩壊の魔法陣……」
「ハーゴンが本格的に攻めてきたようじゃな。このドームごと守護を消そうとは乱暴なことじゃ。母上の力がよほど目障りと見える」
「ハーゴン? だって……どうして今頃?」
「……新しき三つの闇から、空を動かすほどの魔力を手に入れたのじゃ」
 その言葉の意味を問おうとするより早く、一際大きな亀裂がドームを縦に走り抜ける。ナナは慌てて竜王の手を取った。
「早く逃げないと!」
 懸命に促しても、竜王は王座に腰かけたまま動こうとしない。
「わしはこの城の王。弱くて不甲斐なくともわしは王なのじゃ」
「何言ってるのよ、このままじゃ溺れ死んじゃうわよ! 竜神だって水中で呼吸が出来るわけじゃないんでしょ?」
「早く行くのじゃ。お前まで巻き込まれる必要はない」
「嫌よ!」
 ナナはその場に両足を踏ん張った。
「もうあたしの知ってる人を一人だって死なせるもんですか! 絶対に死なせない!」
 みしみしと嫌な音が連続して響き渡る。分厚いドームの壁に稲妻の如く白い皹が走り、それが瞬く間に広がって海底の景色を掻き消していく。細かい亀裂からはぽたぽたと水漏れが始まりつつあった。
「……ムーンブルクの人達は、あたしを護って死んだわ」
 自分を守ろうとして食い千切られていった兵士達、自分を匿おうとして引き裂かれていった侍女達。血の匂いに染まった凄惨な光景が何度もフラッシュバックする。忘れたくても忘れられない、そして決して忘れてはならない地獄の思い出。
「あの人たちが魂の国からあたしを見た時、守った甲斐があったなって思えるような人間になるの。そしたらみんな、喜んでくれると思うから」
 それはナナの思い込みにしか過ぎぬのかもしれない。だがそう考えでもしない限り、ナナはあの破壊の日から一歩も踏み出せない気がした。
「あなたはどうして死ぬの? このままこうしてたって王宮は壊れるのよ? ねえ竜王、この王宮と一緒に海に沈んで、あなたは本当にそれでいいの?」
「ナナ!」
 異変を悟ったアレンとコナンが駆けつけてきたのはその時だ。
「何ぐずぐずしてんだよ! さっさと逃げねぇと溺れるぞ!」
「だって竜王が……」
 アレンは未だ腰かけたままの竜王を見て眦を吊り上げた。
「ホントにドン臭ぇ野郎だな! 何時までうじうじしてんだよ!」
「先代から受け継がれたものを、自分の代で失うのが恥ずかしいという気持ちは理解できるよ。僕達も似たような立場にあるからね」
 コナンが軽く首を傾げて、高圧的な微笑みを浮かべた。
「だが先代の影に押し潰されて自分を失っては終わりだ。無様だ。美しくない。よって今の君は非常に情けなく且つ見苦しい」
「わしは……」
 竜王は顔を上げて、同じように偉大な先祖を持つ三人の顔を見た。
 ずうんと一際大きな力がドームを揺るがす。水圧に耐え切れなくなったドームの一部が砕け、そこから大量の海水が瀑布の如く流れ込んできた。