凄まじい量の海水が、勢い良く渦を巻きながら広いドームの中に満ちていく。 数多の蛇に絡みつかれるように体の自由を奪われて、ナナは水の底に引き摺り込まれた。空気のある場所を目指して浮き上がろうとしても、水を掻く力より水流の方が圧倒的に強い。 唇の端から気泡が漏れていくのを感じながら、ナナは遠い水面を見上げた。こんなところで仇討ちも果たさず死んでいくなんて、コナンじゃないが無様で情けないことだ。 「……っ」 往生際悪く足掻く手が、不意にすべすべした何かに触れた。 痺れる指先が、死にたくないと叫ぶ本能に従ってそれを掴んだ。すると腹の下に何か硬いものがぴったりと寄り添い、それに押し上げられる形で体が浮上を始める。あんなにも遠かった水面がすぐ傍にまで近づいている。 ざばんと水飛沫を蹴立てて、ナナの体が水の上に出た。 「げほっ、げほ、こほん、く、は、げほんっ」 限界まで縮まっていた肺が酸素を求めてひくつく。全身を震わせながら、ナナは喉を喘がせて荒い呼吸を繰り返した。 「落ち着いて。ゆっくり吐いてゆっくり吸うんだ」 「……コナ、ン……?」 背中から覆い被さるような形で顔を覗きこんでくるのはコナンだ。 ナナは改めて状況を確認した。目の前には二本の棒があり、無意識のうちにそれを力強く握り締めている。つやつやと輝く何かの上に腹ばいになった体を、コナンが背後からしっかりと固定してくれている。 「え……竜……?」 ナナを海中から掬い上げてくれたのは一匹の竜だ。白銀の鱗を降り注ぐ陽光に煌かせ、しなやかな筋肉に包まれた体躯を逞しく躍動させ、大きな羽を広げて悠々とドームの中を旋回している。 「あなた竜王なの?」 「何れドームも海水に満ちよう。一度水に潜り出口を目指すぞ。しっかりと肺に空気を溜めるのじゃ」 竜が言った。それは確かに竜王の声だった。 「何で俺だけこんなとこなんだよ!」 怒鳴り声に振り向けば、竜の尻尾にしがみついたアレンがこめかみに青筋を立てている。竜は競走馬程度の大きさしかなく、ナナとコナンが腹這いになればそれでいっぱいいっぱいなのだ。アレンが座るような余裕はない。 「馬鹿馬鹿しい程の腕力を持つ君に相応しい場所ではないか。運命によって決定された、君だけのための特等席だ。そのように素晴らしい待遇にある君を、僕は心の底から羨ましく思う」 「そ、そっかなぁ?」 アレンとコナンのやり取りを聞き流しながら、ナナは遥か下方を見下ろしてごくりと喉を鳴らした。流れ込む海水は牙の如き白波を立てながら渦巻き、獣の咆哮にも似た轟音を響かせている。如何に竜とは言え、視界も効かぬだろう激流に飛び込んで出口を探り当てることなど可能なのだろうか。 ナナの懸念に応じたかのように、その時白く輝く光の玉が水面から浮上した。竜王を誘うようにくるりと周囲を旋回すると、凄まじい速度で激流に飛び込んでいく。 「……母上」 「うわっ」 竜王が急下降を始めたので、三人は慌てて空気をいっぱいに吸い込んだ。 逆巻く海面を突き破った途端、圧倒的な水流が上下左右から肉体を嬲る。ナナは必死に竜王の角を握り締め、姿勢を低くして水の抵抗を減らすことに努めた。水流の凄まじさ耐え切れず目を瞑れば、名状し難い恐怖がふつふつと湧き出てくる。もしかして永遠にこの水に閉じ込められるのではないかという思いが、叫び出したくなるような衝動を引き起こすのだ。 長いような短いような恐怖の時間を経て、ナナは唐突に水の抵抗から解放された。 竜王が地下通路に入り込んだ水の流れを追い越したのだ。水滴を拭いながら振り返ると、濁流が土壁を抉りながら追い駆けてくる。 「しっかり掴まるのじゃ!」 竜王はさほど広いとは言えない地下迷宮を白銀の矢となって駆けた。右に曲がり、左に折れ、天井近くに上り、床すれすれに沈み、様々に体勢と角度を変えて速度を維持する。尻尾を大きく振って舵を取るため時々アレンの情けない声が聞こえるが、コナンもナナもしがみつくのに精いっぱいで振り返る余裕もない。 「おい、追いつかれるぞ!」 一際切羽詰ったアレンの声が響く。ふらふらと振り回される彼の足先は、既に凶暴な水流に洗われているようだ。 「ロトの末裔! その方らの魔力を借りるぞ!」 「魔力を借りるってどういうこと……あ」 角をしっかり握った掌から、背に密着した腹から、すうっと命の一部が吸い取られていく奇妙な感覚がした。 「我は竜王、正統なる神の末裔にして大地の守護神! 地の精霊よ我の声に応えよ!」 その咆哮は呪文の詠唱と同じ効果を齎した。地下迷宮に眠っていた大地の精霊が応え、竜王と濁流との間に薄い土の壁を作り上げる。壁は即座に破られたが、その破片が濁流に飲み込まれるよりも早く新しい壁が立ち塞がる。破壊されては生じ、生じては破壊されを繰り返すうち、やがて土壁は分厚い障壁となって竜王の背後を塞いだ。 荒々しく土壁に叩きつける濁流の唸りを聞きながら、竜王は地下一階の階段を駆け上がって大きく空へと舞い上がった。 「俺は泳ぐ好きだけどさ、陸にいる方がやっぱいいかな。だって息が出来るじゃん」 「凄まじく頭の悪そうな物言いはさておいて、その意見には僕も賛成だ」 明るい日差しの下でしっかりと大地を踏みしめると、先程まで水に追われていたのが嘘のようだ。ナナは頭巾を脱いで濡れた髪を手櫛で整えながら、竜王の背に声をかけた。 「ちゃんと竜になれたじゃない」 人型に戻り、瓦礫の上に呆然と腰かけていた竜王がのろのろと振り返った。 「……良く分からぬ。わしは確かに竜となりお前達と共に脱出してきたのじゃな? 今となっては夢か幻のようじゃ」 「でも夢でも幻でもないわ」 「お前を死なせたくないと思った。気付いたら竜に変化していた」 「あれがあなたの竜なのね。先代とは違うあなただけの竜」 竜王はのろのろと、自分の掌に視線を落とした。 「あなたならきっとこのアレフガルドを守っていける。あなたは正しい神の末裔で、大地の守護神なんだから、ハーゴンなんかに絶対に負けないわ」 「……自信はない。今でもどのように力を振るって良いのか分からぬ。しかし」 そう前置きしてから、これまでにはなかったしっかりした表情で竜王は頷いた。 「わしは大地の守護神となろう。この広き世界はわしの手に余るが、せめてこのアレフガルドだけはわしの手で護ろう」 「もも」 竜王の宣言に力強く相槌を打ったのはナナではなかった。 二人から少し距離を置いた砂地で、白く生き物がぱたぱたと尻尾を振っている。それは満足したと言う風情で二度頷くと、ぱっと宙に散じて光の粒子に姿を変えた。光は一塊になると、ほうき星の如く長い尾を引きながら空の彼方へ昇っていく。 「……母上が、わしをアレフガルドの守護神として認めると」 空の色が染みるとでも言うように、竜王は微かに目を細くした。 ナナは頷いた。この竜が守ってくれるのなら、ロトの伝説が息づく大地は大丈夫だと確信出来る。ヘタレだろうが根性なしだろうが、彼は伝説の竜王なのだ。 「人間のオス供、こちらへ来い。お前達に渡したいものがあるのじゃ」 竜王は少し離れたところで濡れた服を絞っているアレンとコナンを呼んだ。二人が不思議そうな顔をして近づいてくるのを待って、竜王は腰に下げていた剣を鞘ごと抜き取り、それをアレンに向かって放った。 「何だよコレ?」 「百年前、お前達の先祖が残していった剣だ」 「曽お祖父様の剣……ロトの剣?」 コナンとナナが興味津々で見守る中、アレンは渋々と言った風に鞘から剣を抜いた。油も滴らんばかりの刃が、太陽よりも尚明るい白金の光を放つ。鏡のように光沢のある刃、不死鳥を象った鍔、柄にはめ込まれた宝石の輝き、芸術品としても通用する美しい品物だ。 剣にしばし視線を落とした後、アレンはコナンに不死鳥の柄を向けた。 「お前が使えよ」 手を差し出す素振りも見せず、コナンは少し芝居がかった風に首を傾げる。 「せっかくのロトの剣だ。剣術に長けた君が使うべきだと思うが」 「俺には大かなづちあるし。こんな剣いらねーし」 らしくもなく、アレンは歯切れの悪い言い訳を並べる。コナンはふうと溜息をつき、それから挑戦的に顎をしゃくった。 「使いこなす自信がないということか」 「な……」 「今の君には、伝説を切り開いた剣はいささか荷が重いのかもしれないね。まあ君が使えないというのなら仕方ない、ロトの剣は僕がありがたく……」 アレンの顔が真っ赤に染まった。半ばやけくそのように剣を翳した次の瞬間、ひゅんと甲高い音を立てて刃が空気を薙ぐ。それはまるで彼の体の一部のように、聊かのぶれを感じさせることもなく軌跡を描くのだ。重さといいバランスといい、ケチのつけようのない名刀であることは、素人のナナにも分かった。 「ロトや曽祖父ちゃんが使えて、俺が使えねぇわけねぇだろ!」 「頼もしいね」 コナンが軽く肩を竦める。アレンはぷいと横を向いた。 伝説の謳われる神の剣となれば数多の加護を秘めているだろう。初の挫折で何かと落ち込みがちになっているアレンにとって良い護りとなるはずだ。もしかしたらそれを見越した上で、コナンもアレンを挑発したのかもしれない。 「……良かった」 心持ち目を細めたコナンを、ナナは暖かい気持ちで見上げた。 「僕のファッションはトレードカラーの緑とオレンジを基調に考えているんだ。そこに青いロトの剣などを持ったら、色の調和が崩れて美しくないではないか。ロトの剣がグリーンならアレンなどに渡さなかったが、如何せんブルーでは……」 独り言めいたコナンの述懐を、聞かなきゃ良かったとナナは思った。 砂の細道を下っていくアレンとコナンを追い駆けようとして、ナナはもう一度竜王に振り返った。 「色々ありがとう、竜王。あなたのお陰で助かったわ」 「わしも少しは名誉挽回出来たのか」 竜王の顔から足先まで視線を走らせて、ナナは頷いた。 「今のあなたは、初めて会った時のあなたよりかっこいいと思う」 「ではわしの后になってくれるのか」 「それとこれとは話が別でしょ」 ローブに縋りついてきた竜王を反射的に蹴り飛ばす。竜王は乾いた地面の上によよよと崩れると、力なく体を両手で支えて横座りになった。 「わしのことが嫌いか? わしには全く興味ないか?」 寄る辺のない子犬のような目で見つめられては、野良犬経験があるだけにナナも弱い。 「……ハーゴンを倒した後またここに遊びにくるわ。その時お天気が良かったら……お弁当持ってピクニックにでも行きましょ」 竜王は忽ちばね仕掛けの人形のように飛び起きて、ナナの手を取った。 「本当か! わしはお前に好かれるオスになるように努力するぞ! 是非たくさんの愛らしい卵をお前に……」 「もう一回卵のこと言ったら殴るわよ」 「な、何故じゃ。卵は子孫繁栄の要であり避けては通れない……」 警告してあるから遠慮はいらない。ナナはにっこり笑って、力いっぱい竜王の頭をどついたのだった。 |