大灯台と星の瞬き<1>


 一艘の船が帆に風を孕んで力強く海原を疾走している。
 アレフガルドを出港したロトの末裔達は、真っ直ぐ南へ向けて針路を取っていた。ハーゴンと渡り合うにはルビスの加護が必要であり、ルビスに会うには五つの紋章を揃えねばならぬという。
 紋章の一つがアレフガルドの南にあるという情報を得た。三人が目指すのは人々に忘れ去れた巨大な塔……通称大灯台だ。
「アレンは?」
 舳先に立って海を見つめていたナナにコナンが歩み寄ってきた。
 振り返るナナの頬は桜色に紅潮している。まだ冬も終わりきらぬというのに、ここ数日は夏のような暑気だ。
「昨日の夜から見てないけど。その辺で素振りしてないんだったら、船員さん達と一緒じゃない?」
「そうか。船員に混じると違和感なく溶け込み過ぎて探すのが大変だ」
 乗船して半日で暇と体力を持て余したアレンは、何時の間にか船員に混じって手伝いをするようになった。割り当てられた仕事と剣の稽古に忙しいらしく、寝る時以外ほとんど部屋に戻ってこない。
 ローレシアの第一王子と身元を知られているにもかかわらず、海賊上がりの船乗り達からボウズボウズと可愛がられているアレンは、ある意味大したものだと二人は思う。
「これでアレンが船乗りとしての生き方に目覚めでもしたら、ローレシア国王陛下に申し訳が立たないな」
「そーね。アレンはたった一人の王子様なんだから、船乗りになっちゃ大変よね」
「万が一そうなった場合には、複製の魔術でも行使して、きれいなアレンをローレシアに進呈することにしよう」
「それってば禁術じゃない」
 コナンの強烈な毒に苦笑した後、ナナはふと真顔になって声を潜めた。
「……アレン、最近変よね。戦ってる時にすごく余裕がないみたい」
「叔父上に負けたのが余程ショックだったんだろう」
 反撃の機会すら見出せず敗北したことは、アレンのプライドを粉微塵に打ち砕いたに違いない。剣術に絶対の自信と矜持を持っていたアレンがどん底に沈む気持ちは二人にも理解出来た。
「何かあたし達にしてあげられることがあればいいんだけど」
「敗北をバネに更なる高見へ這い上がるか、重みに潰されたままでいるか、それは彼自身の問題だ。僕達が口を出すようなことではない」
「それはそうなんだけど……」
 そんな会話をしているところへ噂のアレンがやってきた。この船旅で更にこんがり日焼けして、もう十年も前から船で暮らしているような顔をしている。食べかけのりんごを掌で弾ませながら、アレンはくいと顎で前方を指した。
「もうちょっとで塔が見えてくるってさ」
「そうなんだ、いよいよね」
 ナナが水平線の彼方を眺め、乱舞する陽光の眩しさに目を細めた。
「星の紋章の守護者、あたし達のこと認めてくれるといいわね」
「どーにかなるだろ。今までだってどーにかなったし」
 アレンが手にしていたリンゴを齧る。拳大のりんごをあっという間に食い尽くすと、手に残った芯をぽいと海に投げ捨てた。
「ゴミのポイ捨ては止めたまえ」
 コナンがすかさずアレンを咎める。美を愛する彼にとって環境破壊は許されざる行為だ。
 波の音を乗せた風が甲板を吹き抜ける。海の輝きが睫毛の上に踊る。青い空と海に包まれて佇んでいると、体の隅々までもが大いなる自然の力に満ちていくようだ。
 ナナは海の香を吸い込んで大きく伸びをした。
 ムーンブルクの礎を築いたテパ族は元来海の民である。その血の流れを汲むナナにとって、海はもう一つの故郷なのだ。
「いい気持ちね、久しぶりに歌いたくなっちゃった。あたしね、こう見えても歌が得意なのよ」
「歌?」
「ムーンブルクは音楽と絵画の国でもあったね。芸術の都の姫君たる君の歌声、ぜひ一度拝聴したいものだ」
 アレンは軽く首を傾げ、コナンは興味深そうに頷いた。太陽の血筋を示す青い瞳に注目されて、ナナは照れ臭さに頬を染める。
「小さく頃から歌うのが好きだったの。お父様が歌を歌うための部屋を用意して下さっていたのよ」
 ナナはくるりと甲板の方へ向き直った。
 滑らかな肌が真珠色に輝き、柔らかな巻き毛が菫色の光を弾く。海の煌きを浴びたナナの横顔は恰も波と戯れる人魚のよう。珊瑚の唇から放たれるだろう歌声は女神もかくやと思われた。
 ナナは胸の前に両手を組み合わせ、目を瞑って歌い出した。
「ホゲ〜」


「久し振りだったから、あんまり上手に歌えなかったかも……」
 乙女心たっぷりの恋歌を歌い終えたナナは、にこにこと二人を見た。
 アレンはしゃがみこんで頭を抱え、コナンは柵に寄りかかったまま爽やかな微笑みを浮かべている。ややあってアレンはがばりと立ち上がり、ぶるぶる震える指をナナに突きつけた。
「お、お、お……」
「なぁに、アレン」
「俺の耳を潰す気か! 何だ今の殺人音波!」
「な、ななな何ですって失礼しちゃう! あたしの歌の何処が殺人音波なのよ! あたしの歌はとても上手だって、城のみんなも誉めてくれたんだから!」
「お前は姫さんなんだから、城の奴らはそういうしかねぇだろ! コナン、お前よく笑って聞いてられ……コナン?」
 アレンはコナンに歩み寄り、その顔を覗きこむ。凍りついた笑顔を眺めて眉を寄せた後、ゆさゆさと肩を揺すりながら言った。
「こいつ立ったまま気絶してるぞ」
「え、嘘。……いやだ、ホントだ。ちょっとコナン、コナンてば! しっかりしてよ! あたしの歌で気絶するなんて酷いじゃない!」
 ナナが胸倉を掴み上げてがくがく揺さぶると、見開いたままだったコナンの瞳にはっと生気が戻る。ぱちぱちと瞬きを繰り返したのち、コナンはふっと笑って亜麻色の髪を掻き上げた。
「これは失敬。ナナの地獄の子守唄……じゃない、天使の歌声で、ついつい口から魂が抜け……じゃない、桃源郷に迷い込んでしまっていたよ」
「ふんだ、コナンまでそんなこと言うんだ。もういいわよ」
 ナナはすっかり不貞腐れてぷいと横を向いた。
 コナンは歯噛みした。婦女子の機嫌を損ねるなどあってはならない失態である。例え鼓膜が破裂し三半規管が砕け散ったとしても、それがレディの歌声である以上、笑顔で拝聴するのがナイトたる者の勤めなのである。
「申し訳ない。君を傷つけてしまったようだ」
 コナンはナナの手を取り、苦痛に満ちた声で取り返しのつかぬ非礼を詫びた。
「ああ、ナナ。例え君の歌声が地獄の番犬ケルベロスの唸りにも似て、人心を混乱と恐怖に陥れるものだったとしてもだ」
 ナナの瞳に殺気が閃くのを見て、アレンがそおっとバギの有効範囲内から離れる。
「君にはアレンと張る動物並の食欲や、相手を完膚なきまでに叩きのめす口撃力や、王女らしからぬ鋼の気の強さがあるじゃないか。それはどれも素晴らしいことだ」
「……褒めてくれてるのよね?」
「勿論だとも」
「ならいいけど……」
 いまいち納得の行かない風情で海に目をやったナナが、次の瞬間ぱっと顔を輝かせた。
「見て! あの影、大灯台じゃないかしら!」
 水平線に浮かぶ影を見るや否や、アレンは船室へと飛び込んだ。海図やら羅針盤やらでいっぱいのテーブルから双眼鏡を取ると、再び疾風のように甲板を突っ切って舳先から身を乗り出す。
「ねぇねぇ、何が見える?」
「美しいものはありそうか?」
「押すなよ、落っこちるだろっ」
 狭い舳先で押し合いへし合いしながら、アレンは双眼鏡を覗き込んだ。
 海に浮かぶ島影が見える。その小さな島に黒々と聳えるのは巨大な塔……星の紋章があると言われる大灯台だ。


 大灯台はその名の通りとてつもなく巨大な塔だった。小島の面積のほとんどを占めた円柱が、遥か天空の彼方にまで達している。
 三人は塔の下に立ち、口をぽかんと開けて眼前に聳え立つそれを見上げた。筋が痛くなるまで首を逸らせても全容を伺い知ることは出来ない。
「でっけぇ〜」
「何と巨大な塔だろう。この迫力には感動したがいかんせん、色と形が地味で華やかさにかけるな」
「上の方は雲がかかって見えないわ」
 塔の大半は蔓草に覆われ、苔むした石の合間に根づいた植物が季節外れの陽気に花を咲かせている。気の遠くなるような年月をここで過ごしたのだろう大灯台は、自然の一部と化して違和感なく周囲に溶け込んでいた。
「けど灯台って感じしねーぞ、これ」
「確かに。単なる灯台にしては大き過ぎるな」
 首を捻る少年達の傍らで、ナナがぱんと両手を打ち鳴らした。
「思い出した。これはきっと空の国に行こうとした人達が建てた塔よ」
「空の国?」
「勇者ロトの故郷だよ」
 勇者ロトはこことは違う世界の人間で、空を介してアレフガルドに降臨したといわれている。ロト三王家が家紋に太陽、星、月を掲げているのは、空の象徴を組み込むことで勇者の血脈を示すためだ。
「ロトに憧れた人達が、空の国へ届く塔を作ろうとしたんですって。建築中の塔には何時でも灯りがついていて、それが当時の船乗りの道しるべになったそうよ」
「それで大灯台って言われてんのかな」
 アレンは改めて大灯台を仰いだ。塔は太陽を貫くばかり、本当に空の国までにも達していそうだ。
「んじゃ、この塔に登ればロトのいた国へ行けんのか?」
「ううん、行けない」
 ナナはあっさりと首を振った。
「建設の途中で雷が落ちて、それきり塔は放置されたそうよ」
「単なる偶然か何者かの意図か、正に神のみぞ知るというものだ」
「ふーん」
 そろそろ話がつまらなくなってきたので、アレンはくいと太い眉を持ち上げて二人を見た。
「何でもいいや。さっさと行って星の紋章取ってこようぜ」
「何でも良くはないだろう。幾ら君でも自分のルーツに興味がないなどということは……」
「ねぇよ」
「……君らしい答えをありがとう」
 アレンは塔の扉に手をかけた。軋みながら塔内側に開き始めた戸板が、途中でぎちっと鈍い音を立てて止まる。蝶番がすっかり錆びて役目を果たしていないようだ。
 アレンは一歩後ろに引き、次の瞬間思い切り靴底を叩きつけた。蝶番が吹っ飛び、支えを失った扉がばたんと床板に沈む。その衝撃で床に蓄積していた埃と黴がぶわっと三人に吹きつけた。
「こほっ、ごほん、やだもぉ、埃だらけ!」
「アレンっ! ドアは普通に開けろと何時も言ってるだろう!」
「錆びちまってたんだから、ごほ、しょうがねぇだろっ!」
 勇者の末裔達はしばらくごほごほ咳き込んだ後、気を取り直して塔に足を踏み入れた。