少年はアレンの時間を十年程巻き戻したかのような姿をしていた。 余計な色の一切混じらぬ黒髪、陽光をたっぷり浴びた小麦色の肌、感情を豊かに映し出す顔立ち。ただくるりと丸い二つの瞳だけは、人にはありえぬ白刃の如き銀色を宿している。 少年はぴょんと外壁から飛び降りて三人の前に立った。ふてぶてしい笑みを浮かべながら順繰りに末裔達を見回し、最後にアレンを見てもう一度にやりと笑う。 「お前が俺の親父か」 「お、親父だとぉ?」 衝撃に自失していたアレンが、別の種の衝撃で我に返った。 「なっ、何言ってんだお前! 俺には子供なんていねぇぞ!」 「アレン、落ち着きたまえ」 「だって俺、こんなガキ知らねぇもんっ」 「分かっているとも。日々の言動からして、どう考えても童貞の君に子供がいるはずがない」 「どっ」 ぼんっと頭から火を噴いたアレンにそれ以上一瞥をくれることもなく、コナンが貫くような視線を少年に向けた。 「君はアレンの影だね」 「ふーん……流石ハーゴンの甥っこは頭が回るな。俺もどうせならお前のコピーのが良かったかな。ま、この体は鍛え甲斐がありそうだから悪くもねーけど」 「影? コピー? ……まさか複製の魔術?」 緊張に頬を白くしたまま、ナナが柳のような眉を寄せた。 複製の魔術は錬金術から枝分かれしたもので、オリジナルから寸分違わぬコピーを作り出すことを目的としている。当初は金や宝石等の複製を目的としていたが、研究が進むにつれ、一部の傲岸な学者が生物の創造を目指すようになった。尤も神の御手による奇跡を真似るという不遜な行為が許されるわけもなく、全ては禁忌として封じられ、当事者は異端審問にかけられて全員処刑されたはずだった。 「この体は、そんじょそこらのバカ魔術師が作った肉人形じゃねーぞ。ハーゴンが闇の衣と死の力とお前らの影を混ぜて作った特別製だ」 「禁術に手を出すなんて」 呻いてから、ナナは今更な感情だったと唇を噛んだ。ムーンブルクを壊滅に追い込んだ邪教の大神官に禁じ手など存在するはずがないのだ。 「器は分かった。では中身は何だ?」 予測は出来ていたとでもいうように、コナンは淡々と言葉を続けた。 「光の玉が弾けた時僕も闇の衣とやらに触れている。あれも相当な力だったが、君から感じる波動はもっと邪悪で碌でもないもの……この世界にあってはならない代物だ」 「そう排他的な言い方するなよ」 少年はひくひくと喉を鳴らして笑った。肉体がアレンでも魂が違えばこんな風に笑うことが出来るのだ。 「俺はアトラスだよ」 「アト……ラス?」 何時も強気なナナの声が震える。彼女はそれを許さぬとでも言うように喉を押さえ、益々険しい表情をアトラスに向けた。 「破滅の神アトラス……破壊神シドーに仕える三柱神の一神ね。一体何が目的で、ハーゴンの召還なんかに応えたのよ」 「俺達三柱神が望むのはただ一つ、破壊神シドー様の復活」 分かり切ったことを聞くなとばかり、アトラスは唇を歪めた。 「ハーゴンはシドー様をお助けする方法を知っている。だから俺達はその手助けをする。単純な話だろ?」 「俺達、か」 コナンはやれやれと額に手を当てた。 「残り二神も降臨済みということか。破滅の神アトラスがアレンの影だとすると、死の神バズズと虚無の神ベリアルの影は……」 「お前とそこの女だよ」 「あたしの顔した邪神がうろついてるなんて、考えただけで気分悪いわ」 「文句はハーゴンに言えよ。俺には関係ねぇし興味ねぇ」 アトラスは軽く首を竦めてアレンを見た。アレンと同じ形をした瞳がすうっと半眼になる。 「俺が興味あんのは、俺のオリジナルだけだ」 アトラスは胸の前で、ぱんっ、と小さな掌に小さな拳を打ちつけた。 ゆっくりと離れていく拳と掌の合間に黒い光が生じる。光はじじじと微音を放ちながら複雑な形を成し、やがて一本の巨大な剣へと変貌を遂げた。 眺めているだけでぞっと怖気立つような面妖なフォルムだった。風雨に晒され続けた人骨の如き色味、苦悶に歪んだしゃれこうべが埋め込まれた柄、有角の魔物が微笑むナックルガード。死を帯びた刃は、太陽とは異なる光芒を纏って静かな点滅を繰り返しているようだ。 「かっこいいだろ? 俺がシドー様から直々頂いた破壊の剣だ。俺は神々の大戦の時、こいつでガイアの軍隊を壊滅させたんだぜ」 得意気に鼻を鳴らしてから、アトラスはアレンに向けて剣先を突き出した。 「お前の人生を寄越せ」 「……何だと?」 「俺がお前の代わりにアレンになる」 アトラスの足が力強く床を蹴った。 反射的に抜き放った剣がアトラスのそれを寸でのところで受け止めた。白い光と黒い光が火花のように散って辺りを染める。 その小さな体の何処にこれほどの膂力が秘められているのか。危うく弾き飛ばされそうになったロトの剣を握り直しながら、アレンは間合いを取るために後ろに跳ぶ。 「!」 予想外の速さでアトラスが仕掛けてきた。辛うじて攻撃を受けた際足元がよろめき、背中がどんと壁に押しつけられる。後退する術を失ったアレン目掛けて、アトラスの剣が流星の如く振り下ろされた。 ぎいんと鈍い音を立てて、二つの刃が十字に組み合う。 「死ねよ。お前が死んだら、俺がそっくり入れ替わってやるから」 「ガキのくせに、俺に入れ替わるなんて出来るわけねーだろ」 「すぐにでかくなるから心配すんな」 滑らかな子供の肌に、すうっと血管に似た奇怪な筋が浮かんだ。 「降臨した時は赤ん坊だったんだぜ。大急ぎで成長して、もうここまででかくなった。あと半年もすればお前と同じくらい……いや、もっと強い男になってやる」 ぎりぎりと音を立てて刃と刃が擦れ合う。信じ難い力を受け止めきれず、アレンの膝がゆっくりと沈み始めた。 「ローレシアを背負う気なんてないんだろ?」 あどけない少年の声が、抉るようにアレンの内面を再生した。 「ロトの血筋なんて鬱陶しいんだろ?」 「……」 「いらないものばかりの人生なら俺にくれたっていいだろ?」 アトラスは楽しげな口調でそう囁き、より一層瞳の輝きを鮮烈にした。 「俺にはどうしてもやらなきゃいけないことがある。俺の全てをかけてなすべきことがな。お前みたいないい加減な奴よりずっと有意義に生きてやるよ」 「ベギラマ!」 逆巻く炎を避ける為アトラスが舌打ちと共に跳んだ。ふわりと空を渡った体が、足先からきれいに外壁へ着地する。 「お前達の人生は俺達三柱神が頂く。邪神の支配するロトの王国は新しい世界でこれまでになく栄えるだろうよ」 「バギ!」 怒り心頭に達したナナの放つ風は、一瞬前までアトラスのいた空間を裂いたに過ぎない。 視界に黒い影が過ぎった次の瞬間、アトラスの回し蹴りがアレンの脇腹に炸裂した。アレンは高く吹き飛ばされ、堆い瓦礫の山の天辺に叩きつけられた後斜面を転がり落ちる。勢い余って塔の外に放り出される直前、右手がやっとのことで床のでっぱりと掴んだ。 頼りなく揺れる足先から、海の匂いを孕んだ風が吹き上げる。 「……くそっ」 這い上がろうともがくアレンの顔に影が落ちた。 太陽を背に従えてアトラスが立っている。逆光のせいで黒く染まった顔の中、銀色の瞳が嘲笑を孕んで閃いた。 「もう少し手応えあるかと思ってたんだけどな。せっかくの不死鳥の加護もロトの血も、お前じゃ生かしきれなかったってことか」 アレンの瞳にかっと怒りが閃いた。 アトラスが剣を振り下ろすより早く、アレンは思い切り壁を蹴った。爪先を高々と跳ね上げながら背を反らせ、両足でアトラスの首を挟む。膝を支点としてぐるりと体を捻ると、上半身が塔の中に戻った。肩から床に落ちると同時に、がら空きの少年の背に力いっぱい靴底を叩きつける。 アトラスの体が勢い良く塔の外に弾き飛ばされた。 ずるり、細かい瓦礫の斜面を滑り落ちて、アレンもまた落下の危機に見舞われる。なす術なく放り出されそうになったアレンの腕を、寸でのところでばしんと捕らえた掌があった。 「影が落ちたからといって君まで落ちることはない」 瓦礫に剣を食い込ませ、それをしっかりと掴んで足場を固定させたコナンが、くいと眉を持ち上げてみせた。 「……俺だって落ちたくねーよ」 コナンの腕を支えとして立ち上がり、アレンもしっかりと足場を確保する。注意深く瓦礫の山を乗り越え、塔内部に戻った二人にナナが駆け寄ってきた。 「二人とも怪我ない? あいつは?」 「落っこちた。今頃下で潰れてんじゃねぇの」 「普通の人間ならそうだが、邪神とあろうものがその程度では……」 呟きかけたコナンがぴたりと口を閉ざす。コナンの視線の先を追って、アレンは舌打ちと共に今一度剣を抜いた。 宙に浮かんだアトラスの右半身は潰れ、内臓と思わしきものが体からはみ出している。人間とは違う色の血液をぽたぽたと滴らせながら、それでもアトラスは余裕綽々の風情で笑っているのだ。 「まだ子供だけあって肉体の反応が鈍いな。飛ぶのが間に合わなくて潰れちまった。せっかくの体がこんなになって、バズズやベリアルに怒られちまう」 声帯に損傷を受けたのか、ぜいぜいと耳障りな声でそういうと、アトラスは軽く首を竦めた。 「これじゃ剣が握れねぇから、今日のとこはあいこにしといてやる」 「てめぇ、何があいこ……」 「今日のお前は運が良かっただけだよ。強さじゃ俺のが上だ」 「……」 ぎりっとアレンが奥歯を噛み締める。アトラスは勝ち誇ったようにぺろりと舌を出した。 「じゃあな」 アトラスが唇を歪めた瞬間、ぱんと黒い光が弾ける。光の粒に飲み込まれるようにして邪神の姿が消えた。 |