大灯台と星の瞬き<5>


「それで結局、星の紋章は何処にあるのかしら」
 短い休憩の最中、ナナがふうと疲れた溜息をついた。
「あのお爺さんは単なる魔族だったし、アトラスは紋章とは関係ないみたいだったし。星の紋章の守護者は別にいるってことよね?」
「残るは三階上……恐らく塔の最上階だ」
 細かく書き込んだ見取り図を指で弾きつつ、コナンが次の目的地を定めた。
「行ってみよう。このまま手ぶらで帰るわけにはいかない」
 コナンが立ち上がり、ナナがそれに続く。数歩進んだところで、ナナがふとアレンを振り返った。
「……大丈夫? 顔色良くないわ」
「……」
 アレンは無意識に頬の辺りを撫で擦る。浅い切り傷がよれてひりひりと痛んだ。
「あいつさ、いらねぇもんばかりの人生っていいやがった」
「え?」
「俺……」
 全てをかけてなすべきことがある。そう囁いたアトラスの眼光にアレンは完全に気圧された。人生を否定されたにもかかわらず一言も反論出来なかった。
 十六年の日々で、他人に誇れるほど懸命に生きたことがこれまで一度でもあったろうか。
「……何でもねぇよ」
 結局、言いたいことが上手に言葉にならなかった。短く言い捨てて、アレンはコナンとナナを追い越して階段を下る。
 幾度かの戦闘を経て、三人はやがて塔の最上階に辿り着いた。広く開けたそこには天井がなく、崩れた壁の名残が低い柵のようになって縁を取り巻いている。ぐるりと周囲を見渡せば、無限に広がる水平線を延々と見渡すことが出来るのだ。
 日はとうに暮れ、夜の闇がゆったりと世界を覆っていた。塔に入ったのは朝方のことだから、半日以上もこの中でばたばたしていたことになる。
「見て見て! 凄い星空!」
 ナナが疲れも忘れてはしゃいだ声を上げた。
 満天の星空が彼等の頭上を覆っていた。星の瞬きは掌に握れそうなほど近く、しかし腕をいっぱいに伸ばしても触れることは叶わない。やはり空は高くて遠いのだ。
「この上に違う世界があるなんてホントかなぁ……」
 三人は空を見上げて、生涯見ることはないだろう幻の大地を想像した。
「大魔王を倒した後、ロトってどうなっちまったんだ?」
「その後勇者ロトの姿を見たものはいない。伝説はそう締め括られている」
 コナンが詩でも吟じるような口調でアレンに応じた。
「見た奴はいないって、魔王退治の後すぐに死んじまったのかな」
「恐らく勇者であることを辞めたんだろう。彼がロトの称号を捨てた瞬間、勇者という存在は独り立ちして伝説になった。……だから勇者を見た者はいないんだよ」
 伝説の勇者はその後の人生をどのように生きたのだろう。故郷への帰還と引換に大魔王を倒さざるを得なかった運命を一生呪いながら過ごしたのだろうか。或いは全てを受け入れ、示された道を力強く歩んでいったのだろうか。伝説からはみ出した彼の余生は、どんなに思いをめぐらせても想像の域を出ない。
「何だか可哀想ね」
 ナナがぽつんと呟いた。
「ロトにだって家族がいたでしょう? お父さん、お母さん、もしかしたら兄弟。大好きな友達だっていたろうし、懐かしい家だってあったはずだわ」
 そこでナナが二人を見た。雨の血筋を映す瞳が、仄かな星明かりの中で紅玉のように煌く。
「もう帰れないって知った時のロトの気持ちってどんな風だったのかな……」
 故郷を失った我が身を重ね合わせたのか、寂しげに呟いたナナの頬を黄金の光が掠めた。


 はっと見上げた空には変わらず星が瞬いている。その煌きの合間を縫うようにして、無数の光の粒が零れ落ちてくる。小さな流星が大灯台目指して一斉に降り注ぎ始めたのだ。
「何だこれ?」
「うわー、綺麗!」
 金平糖を思わせる光が雪のように降り積もる。味気のない石の床が忽ち黄金の輝きに満たされた。
「凄いな、空が落ちてきたみたいだ」
 金色の床からふっと拳大の玉が浮かび上がった。それは三人の頭上を暫時蛍のように飛ぶと、やがて三つに分かれてそれぞれの心臓の辺りに吸い込まれていく。彼等の体は一瞬眩い黄金色に輝き、すぐに元の色を取り戻した。
「……今のが、星の紋章?」
「大灯台そのものが紋章の守護者か……なるほど、どんなに塔の中を探しても見つからないわけだ」
 コナンの呟きに、アレンのどんぐり眼が更に丸くなった。
「塔が守護者って……これが?」
 アレンは床をとんとんと爪先で弾いた。厚いブーツを通して伝わるのは、何処にでもあるような固い石の感触だ。そこに何らかの意思が宿っているとは信じ難い。
「生きてるって感じしねぇけど……」
「何かの意思か、精霊か……この塔には人間の理解を超えた命が宿っているんだろう」
「塔があたし達を認めてくれたってことね。魔族を追い払ったからかしら」
「多分」
 コナンは頷き、仲間達を見た。
「さて、残る紋章は四つ。魔力の満ちていた大地、精霊神ルビスの従者が見守る場所、旧きコロシアムの聳える地、ロンダルキアに通じる洞窟。次は何処へ行こうか」
「魔力の満ちていた大地……ムーンブルクへ行きましょ。航路からしてもそこが一番近いでしょ」
 アレンとコナンは顔を見合わせ、星色に染まったナナを見る。
「……大丈夫かい?」
 ナナは荒廃したムーンブルクを見ていない。故郷の酷い有様を見せる必要もないと、アレンとコナンが半ば強引にムーンブルク城への道を避けたのだ。その時はそれが得策だと思っていたが、そのことが余計彼女を追い詰める結果になったのではないかと、コナンには度々危惧することがあった。どんなに高尚な書物を読んで勉強しても、こと心に関する問題で的確な判断を下すのは難しい
「行かなくちゃ。あたしの国だもの」
 ナナの声は凛としていて力強く、そこに躊躇いや迷いはなかった。滅びた故郷は何時か彼女が向かい合うべき現実なのだ。
「分かった。それでは次に目指すのはムーンブルクだ」
 ナナは何時もの表情で微笑んだ。
「あたしね、お城のみんなにムーンブルクの鎮魂歌を歌ってあげたいんだ」
「……」
「何その微妙な顔」
「いや、君の歌では寝た子も飛び起きてくるのではないかと……」
「どういう意味よ!」
 コナンがばさあっとオレンジ色のマントを翻し、塔の中へ続く階段をとっとと下り始めた。それを憤然とするナナが追い、アレンが続く。階段に差しかかる寸前、アレンはふと足を止めて星空を見上げた。
「……故郷かぁ」
 ローレシアはそろそろ根雪が溶け始める時期だ。故郷の雪景色をふと懐かしく思いながら、アレンは仲間達を追って階段を下りた。


 少女の小さな掌が、触れるか触れないかの距離を保ちながら、ぐずぐずに肉のつぶれた傷口を覆う。
 すると黒い血泡が生じ、どうにも手の施しようのないような裂傷を覆いつくった。ややあって凝固した血液がぼろぼろと剥がれ落ちると、そこには滑らかな少年の肌が再生しているのだった。
「派手にやられたわね」
 ベリアルが愛らしい少女の唇に微笑みを刻む。あどけなさの残る人形の如き少女の面立ちに、爛々と煌く銀色の瞳はひどくそぐわない。
 三柱神の肉体を形成するに当たり、ハーゴンが唯一写し取れなかったのが不死鳥と竜の色の瞳だ。いかな天才魔術師……人の子にしてゾーマを宿す大神官といえども、神の象徴を再生させるまでにはいたらなかったのである。
 結果三柱神は、末裔達とそっくりの肉体を持ちながら、その瞳だけはあまりに人離れした銀色の輝きを宿すこととなった。
「まだ耐性の低いこの体で無理をするからだ」
 氷の柱に寄りかかったバズズが挑発的に眉を持ち上げる。形の良い両眉の下ではやはり白金の瞳が鈍く煌いていた。
「だから成長するまで黙ってこの神殿に閉じこもってろってか? シドー様が薄汚ぇ封印に閉じ込められていらっしゃるのを、黙って見てろってか?」
 アトラスがきつく唇を噛む様にベリアルは視線を落とし、バズズは眉を寄せた。敬愛する破壊神、全てを捧げるに値する主が、他神の封印に戒められているなど三柱神にとって耐え難い屈辱だ。
「いいか、俺は絶対シドー様をお救いする」
 まだ幼い少年の顔が揺るぎのない忠誠心と決意に引き締まる。何をも射抜くような眼光が、より一層その輝きを強めたようだった。
「あたしだってバズズだって想いは一緒だわ。そのためにこの世界に降臨してきたんだもの」
「だが体を壊されては元も子もないだろう。せっかくのこの肉体、大いに活用すべきだ」
 反論しようとしたアトラスは、バズズの目線で制された。
「僕達の体はロトの末裔の影、この世界で多大な影響力を持つ人間のものだ。上手く活用すればこの世界のルビス信仰をそっくり破壊神信仰に変えることが出来る。数多の人間の信仰心の対象になることこそ、神のあるべきお姿だ」
「だけどよ」
「それに」
 かつん、とバズズが氷の床に踵を踏み鳴らす。その冷ややかな靴音に隠しようのない焦燥を感じて、アトラスはぐっと顎を引いた。シドーを解放したくて焦っているのはアトラスばかりではないのだ。
「肉体が完成しないうちは動くなとハーゴンに言われているだろう?」
 アトラスは音高く舌打ちし、どっかと胡坐を掻いて不貞腐れた。
「人間風情に逆らえねぇなんて邪神の名が泣くぜ」
「仕方ないだろう、邪神の像を握っているのはハーゴンだ。僕達はいわば、シドー様の肉体を人質にとられているようなものだ」
 神々の大戦で封印を施される際、破壊神シドーと三柱神は肉体を粉々に砕かれた。
 意識体となった三柱神が降臨するには肉体が必要だった。意識体のみでは本来の力の半分も発揮出来ず、何より魔族と同様に耐性が著しく低い。
 同様に破壊神シドーの完全復活にも肉体が必要となる。そして破壊神を内包出来るほどの力ある依代は、今邪教の神官の手中にあった。
「加えてむやみやたらにロトの末裔を殺すわけにもいくまい。未だ邪神の像に捧げられたのは月のみということを忘れるな」
 アトラスが鼻に皴を寄せるのを尻目に、ベリアルがこくりと首を傾げる。銀色の巻き毛がとろとろと小さな肩口から零れた。
「ローレシア王子とサマルトリア王子の死骸を引き摺ってくれば問題ないじゃない。必要なのは血……太陽と星の血なんだから」
 お気に入りの人形の話でもするように、ベリアルは無邪気で楽しげだ。
「ハーゴンだって、起こってしまったことにぐだぐだ言わないとは思うわ。どちらにしろ、あの三人は殺さないといけないんだし」
 ベリアルがくすくすと悪戯っぽく笑うのに、バズズが呆れ返ったように肩を竦めた。
「行く気か」
「オリジナルに興味があるのはアトラスだけじゃないのよ」
 やれやれと溜息をつくバズズに、唇を尖らせたアトラスが問う。
「お前はどうなんだよ、自分のオリジナルに興味ないのか?」
「勿論あるさ。僕もこの肉体がもう少し成長すれば会いにいくよ」
 バズズはコナンと寸分たがわぬ仕草で片目を瞑った。末裔達の影を礎に構成された肉体に降臨した三柱神は、オリジナルの影響を強く受けている。
「残念ながらその機会はないわよ。あたしが全員殺すから」
 ベリアルは立ち上がり純白のドレスの裾を摘まむ。そして来るべき世界の女王のように、優雅に会釈して見せた。