緩やかな流れの中にへたりこんで、アレンはぜえぜえと荒い呼吸を繰り返した。 「あ、あぶねー、剣の重さのこと考えてなかった……」 背負う剣の重量に浮力が追いつかず、結果水底をずりずりと歩いてくる羽目になった。床の緩い勾配のお陰で、徐々に水深が浅くなっていったから良かったものの、そうでなければ今頃溺死していたかもしれない。危うく伝説級のバカとして歴史に名を残すところだった。 「もう剣背負ったまま泳ぐのは止めようっと」 一つお利口になったアレンは、改めて周囲を見渡した。 ローレシアの地下水路は、蟻の巣さながらに道が入り組む迷宮だ。上下左右好き勝手に伸びていく通路は、どれが何処に通じているのやら皆目見当もつかない。 揺れる水面には数枚の木の葉が漂っている。まだ瑞々しい緑を保っているそれらは、アルマディス山脈の麓から流れて来ているはずだった。 「これを逆に辿れば川に出れるかな」 アレンはざぶざぶと水の道を歩き出した。時折立ち止まって壁や天井を見上げ、ふうんと感嘆に似た声を上げる。 「ローレシア城にも、こんな古臭ぇところがあったんだな」 ローレシア城は今から百年前、アレンの曽祖父であるロトの勇者が二十年の歳月をかけて建設したものだ。城そのものは行き届いた手入れのお陰で老朽化を免れているが、人も訪わぬ地下設備ともなると、越してきた時の長さがそこここに刻み込まれている。 「旅から帰って来たら、こん中ゆっくり調べるのも面白……」 言いかけて、アレンはふと足を止めた。 何か物音が聞こえた気がしたのだ。呼吸音が邪魔にならぬよう息を潜め、アレンは改めて耳を澄ませる。 かしゃん、と奇妙な微音が空気を震わせた。空耳ではなかったようだ。しんと静まり返った地下水路の中、硬いものを摺り合わせるような音が何処からともなく響いてくる。 「……こんなとこに何かいるのか?」 アレンの好奇心はたちまちそちらに引きつけられる。くるりと方向転換すると、細い糸を手繰るように音を辿って歩き出した。 やがて崩れ落ちた壁の向こうに、地下水路とは明らかに様相の異なる空間を発見した。 黒光りする壁に複雑な文様が丁寧に彫刻されている。城や町の随所で見られる魔法陣と同一形であることから、それが魔除けであることはアレンにも察しがついた。 だがアレンがもう少し聡ければ、その魔法陣の本当の意味に気がついたかもしれない。排魔の力は、使い方によっては魔を閉じ込める役割を果たすということに。 「……上かな?」 崩れ落ちそうな階段を上ると、露台の如く壁から突き出した二階へと出た。周囲を縁取る柵をなぞったアレンの視線が、ある一点に差しかかって釘づけになる。 床に、人が倒れているのだ。 薄汚れた法衣を纏っているところからして、神官か僧侶の類だろう。痩せ衰えた手首が、床から伸びた銀色の鎖に繋がれている。アレンをここまで導いた音は、彼を戒める鎖が床に擦れた音に違いない。 「助けてくれ……」 喘ぐ男の前にしゃがみ込み、アレンは小さく首を傾げた。 「お前、こんなとこで何やってんの?」 「……恥ずかしい話だが、窃盗の罪でこの地下牢に投獄された」 呻くようにそう言うと、男は悔恨の涙を滲ませて切々と訴え始めたのだ。 「お願いだ、逃がしてくれ。二度と過ちは犯さない。家では年老いた両親と病気がちの妻、それに腹を空かせた十五人の息子と娘が私の帰りを待っているんだ。私が帰らなければ家族は、家族は……」 この上なく怪しい状況に胡散臭い述懐である。常人ならばこんな手に引っかかるはずもないが、いかんせん、箱入り王子は他人への警戒心が極端に薄かった。加えて生来の気質が単純、家族ものと動物ものに弱い等々、騙されやすい要素をたんまり持っている。 「うううっ、何てかわいそうな話なんだ……」 すっかり同情したアレンは、でっかいどんぐりまなこをうるうるさせつつ鎖に剣先を押し当てた。切断した瞬間光が散ったところを見ると、鎖そのものに何らかの魔術が込められていたのかもしれない。 「ほらよ。もう悪いことすんなよ」 「……ありがとう。これでやっと自由の身だ」 手首を擦る男の輪郭が、何の前触れもなく揺らいだ。 「ここから出るのは、実に五十年ぶりだよ」 男の皮膚がどす黒く染まり、肉がどろどろと溶け落ちる。眼球のあった場所にぽっかりと穴が開き、青白い燐光がちかちかと瞬く。剥き出しの歯から漏れる息からは、人ならざる命の臭いがした。 アレンは反射的に後ろに跳んで男との間合いを取った。ゆっくりと立ち上がった男の手元で、用をなさなくなった鎖がじゃらん、と重たい音を立てる。 「我らが主の降臨は近い。私は邪教徒の一人として、主の復活に尽力せねばならない」 黄ばんだ歯列の向こうで、舌が独立した生き物のように蠢いた。 「古の闇は、既に始まりの地にて復活し、私はその恩恵により蘇った。闇は三つの災いを呼び、やがて破壊神シドーを覚醒させる」 「……破壊神シドー?」 破壊神シドーは太古の昔、神々の戦いの元凶となった悪しき神だ。破滅の神アトラス、死の神バズズ、虚無の神ベリアルの三柱神を従えた破壊神が、創造神を頂点とする善き神々に戦いを挑んだことがきっかけとなり、五つの世界を舞台とした千日戦争が始まったと言われている。 激突が始まって九百九十九目の夜、膠着状態だった戦局に異変が起きた。激しい剣戟の最中、創造神の両腕が破壊神によって切り落とされたのだ。善き神々と悪しき神々の勝負はそれで決着したかに見えた。 だが、戦況は再び思わぬ方向へと転がる。 空を飛んだ左腕が翼を宿して不死鳥に、地に落ちた右腕が角を得て竜と変じたのは、瞬きよりも短い時間の出来事だ。生まれたばかりの神々は白き雷を操り、あらぬ事態に動揺する破壊神シドーを三柱神もろとも混沌の中に叩き落した。以後破壊神シドーは、冥界と呼ばれる場所で深い眠りについていると伝えられている。 破壊神シドー、それを崇める神官、そして牢獄。この三つの単語をぐるぐる巡らせた結果、アレンはようやく一つの答えを導き出した。 「あ、そっか。お前が悪魔神官かぁ……って待てよ。つーことはお前、俺を騙しやがったな!」 アレンが両手で構えるは、ローレシア王子に代々受け継がれる竜の剣だ。ばかばかしいほど巨大な鋼の長剣で、並みの剣士では扱うどころか構えることすら出来ない重量を誇る。その剣を自在に扱えるようになってこそ、剣術の国ローレシアの王位継承者に相応しいという乱暴な理由による代物だ。 「汚ぇ手使いやがって。後悔させてやるから覚悟しろよっ」 純情を裏切られたアレンは、怒りに任せて悪魔神官に突っ込んだ。 「食らえ!」 アレンの剣捌きは力強く素早く、そして的確だ。振り下ろすタイミングといい太刀筋といい、その刃は確実に魔物を叩き潰すはずだった。 刃が獲物を捕らえる寸前、悪魔神官の杖が鈍い輝きを帯びた。竜を模したオブジェがふうっと風を纏う。 「うわっち!」 アレンは背骨の限界まで体を仰け反らせ、巻き起こった風の渦をなんとかかわした。かまいたちが掠めた鼻先がじりじりと痛い。 「このや……」 反撃に転じようとしたアレンの頬を、悪魔神官の杖が強かに打つ。 切れた唇から血の筋を迸らせつつ、アレンは勢い良く吹っ飛んだ。右掌から床に着地した後、思い切り折り曲げた肘をバネとして跳び、今一度放たれた風の刃をやり過ごす。 空中で体勢を整えて、アレンは柵の上に降り立った。 「神官のくせにいい腕力してるじゃ……あら?」 不意に足場ががくんと傾いだ。柵は華奢な造りで、アレンの体重を支えるほど頑丈には出来ていない。 「う、わわわ」 バランスを取ろうと踏ん張るが足場がなくてはどうにもならない。アレンは崩れた柵もろとも、水中へぼちゃんと落下した。 「ぶはっ」 器官に入った水に咽る暇もない。小さな竜巻が無数に巻き起こり、アレンの肌を裂いては血を吸い上げるのだ。周囲の空気が血飛沫を孕んでたちまち真っ赤に染まった。 反撃の機会も見出せぬ現状にアレンはイライラと舌打ちをする。 ローレシア最強の名を欲しいままにしてきたが、それはあくまで人間相手の手合わせで獲得した称号だ。生温い擬似戦闘ではアレンを王子と崇める人々が、意識外の遠慮と手加減を伴って敵役を務めていたに過ぎない。 だがこの戦いは違う。敵は本気だ。悪魔神官はアレンの命を奪おうと容赦なく攻めてくる。竜巻と共に降り注ぐ殺気がぴりぴりと痛い。 悪魔神官がふわりとアレンの前に舞い降りた。アレンは改めて剣を構え、全神経を集中させて敵の隙を探る。 「お前は私のマホトーンを断ち切ってくれた」 それが魔力封じの魔術名であることなど、アレンは知る由もない。眉を寄せるアレンに向かって、悪魔神官は引き攣るような笑い声を上げた。 「とっておきの魔術を見せてやろう……せめてもの礼だ」 永遠とも刹那ともつかぬ睨み合いの後、悪魔神官がすいと杖を頭上に翳した。 何か圧倒的な力が凝縮される気配を感じて、アレンは筋肉を緊張させる。どの方向にでも逃げられるように腰を低く屈めて、敵の出方を待った。 「イオナズン!」 悪魔神官の声に呼応して、目も眩むような光玉が杖の先端に生じた。光はアレンの頭上高く浮かび上がると、轟音を伴って大爆発を起こす。吹き荒れる爆風に水面が大きくうねった。 「バーカ、外してやんの……」 揶揄しようとしたその時、頭上でびしりと音がした。 爆風を食らった壁に亀裂が走り抜けていく。支えを失った内壁が、数多の石礫となってアレンに降り注ぎ始めた。 「な……」 予想外のことに一瞬足が固まる。逃げ遅れたアレンは、そのまま剥落した巨大な瓦礫の下敷きになった。 もうもうと立ち込めた埃が治まった後には、無数の瓦礫の山が出来ていた。 静寂を取り戻した水路に佇み、悪魔神官は満足そうに喉仏を上下させる。それから余裕めいた足取りで、一際巨大な岩の塊に歩み寄った。 突如現れたびっくりするほど単純な少年は、人間を守るための魔封じに潰されて死んだ。 人間への意趣返しを込めて、敢えて魔法陣に向けて放ったイオナズンは、この上なく気分の良い勝利を齎してくれた。肩を震わせて笑う悪魔神官の耳を、ふと物音が掠めたのはその時だ。 「……?」 ごとり、と岩が動いた。 「!」 ぎょっと後じさる悪魔神官の前で、巨岩がじわじわと浮かび始める。 圧倒的な重量を上腕部で支えつつ、アレンがゆっくりと身を起こしていく。全身打ち身と擦り傷だらけだが、そのどれもが致命傷にはほど遠い傷ばかり。巨大な瓦礫を背負ったまま、アレンは余裕たっぷりにやりと笑って見せた。 「悪ぃけど、こんな礼いらねーわ」 アレンの鼻先目がけて、悪魔神官は慌てて杖を翳した。 「イオナ……」 「返すぜ!」 体中の筋肉を振り絞って、アレンは巨岩を悪魔神官に投げつけた。ぐしゃ、と奇妙な音を立てて、腐りかけていた肉体が敢えなく潰れる。一瞬間を置いて、墨色の血液が水中に広がった。 「もう聞こえねぇと思うけど、一応教えといてやる」 アレンは水底から愛剣を拾い上げた。巨大な剣を肩にひょいと乗せてから、悪魔神官の墓標に向かってべえと舌を出す。 「ローレシア王家の人間は、代々頑丈に出来てんだよ」 |