勇者の血と三つの王国<5>


 アレンは唇に滲んだ血を拭った。
 ローレシア王族の頑強さは確かに別格だが、生身の人間である以上怪我もするし病気にもなる。巨岩の直撃を受けて全くの無傷というわけにもいかず、体のあちこちがじんじんと痛い。
「いってぇ〜」
「骨が折れなくて良かったな」
 アレンが上腕部を擦ったのと、聞き覚えのない声が響いたのはほぼ同時の出来事だ。弾かれるように振り返ったその先には、何処からやってきたのか一人の少年の姿があった。
 アレンの肩ほどまでの身長しかない小柄な少年である。とさかのように逆立つ癖毛を銀の頭環で押さえ、くすんだ葡萄酒色のマントを纏っている。腰に長剣を携え、手に皮手袋を嵌め、足に膝丈のブーツを履いたそのいでたちから察するに、旅の剣士といったところか。
「……」
 アレンは奇妙な感覚を覚えた。全く見覚えのない少年なのに、不思議と初めて会った気がしないのだ。遠い昔、まだ母親の胎内でまどろんでいた頃から、彼のことを知っていた気がする。
 名状し難い既視感はやがて苛立ちへと変わった。柄を握る手に無意識に力を込めながら、アレンは低い声で少年に誰何する。
「何だお前」
「君は城の外に出たくてたまらないんだ」
 アレンの問いに答えることなく、少年はそう囁いた。
「広い世界を見てみたい。自由に空を翔けてみたい。ロトとは関係ないところで自分がどれだけ強くなれるのか……確かめてみたいんだ」
「……てめぇ」
 胸の内を全て見透かされ、アレンはいよいよ瞳を険しくして少年を睨みつけた。敵愾心を剥き出しにして唸るアレンの様相に、少年の微笑が苦笑へ変じる。
「そんなに怖い顔しなくても大丈夫。俺は君の味方だよ」
「ああそうですかって信じられるかよ。お前、あいつの仲間なんじゃねぇの?」
 人を疑うことを学習したアレンが、瓦礫を顎で指し示した。
「信じてくれよ。俺は君をここから脱出させようと思ってやってきたんだ」
「俺を?」
「そう、君は世界を守る旅に出る。ロトの血はそのために今日まで伝えられてきたんだから」
 その瞬間、アレンの顔がそれまでとは別の感情に顰められた。
「……まぁ〜たロトかよ」
 物心ついた時から聞かされ続けてきた先祖の名に、アレンはもううんざりしているのだ。ロトの末裔なのだからこうしなさい、ロトの末裔なのだからそんなことをしてはいけない……アレンの過ごして来た世界には常にロトの影があった。
 アレンはアレンであり、ロトとは違う人間なのだ。それなのに何故周囲は、ロトという勇者の理想像を押しつけてくるのだろう。
「俺は腕試ししたいだけだ。ロトなんか関係ねぇ」
「誰にだってしがらみはあるんだよ。完全に自由な人間なんてこの世にいない。背負わされたものの重みに潰されるか、それに打ち勝つほどの力を得るかは、それぞれの生き方で変わってくるんだろうけどね」
 幼子さながらに口を尖らせるアレンに、少年は小さく肩を竦めて見せた。
「嫌いなロトに押し潰されるなんて悔しいだろう? だったら君は君として、ロトの名が霞むような生き方をすればいいじゃないか」
「……それってさ」
 とんとんと、アレンは剣を肩の上で弾ませた。
「俺の好き勝手にやっていいってことだよな」
「え? うーん、そうだな。……まあそういうことかな」
「じゃあいいや」
 アレンはすっかり打ち解けた様子で頷いた。二言三言交わすうちに、少年に対する警戒心は消え失せている。単純と言えば単純、バカと言えばバカ、純真といえば純真だ。
「な、お前、俺をここから出してくれんだろ? 抜け道知ってんのか?」
「君を脱出させる前に、一つ約束して欲しいことがある」
「約束ぅ?」
 一旦人懐こさを取り戻したアレンの表情が、再び猜疑を帯びて強張った。
「ここを出た後サマルトリアに向かうこと。サマルトリアには君と同じ年、同じ月、同じ日に生まれた王子がいる。彼に旅の同行を申し出るんだ」
「何でそんな奴と一緒に行かなくちゃなんねーんだよ」
「君は魔術が使えないから」
 あまりにあっさり言われてアレンは鼻白んだ。
「し、仕方ねぇだろ。俺は魔力変換出来ねぇんだし……」
 魔術を発動させる際、必要になるのが魔力と呼ばれるエネルギーだ。
 魔術師は術を行使する際、命の一部を切り取ってそれを魔力とする。生命力を魔力に作り変えることを魔力変換といい、その能力のない人間に魔術は使えない。
 魔力変換能力は血で受け継がれるものだから、ロトを祖先とするアレンにも潜在能力はあるはずなのだ。ただ先祖の特徴が必ずしも子孫に反映されるわけではないように、魔術師の流れを組んでいても、魔力を作り出せない者はたくさんいる。アレンばかりが特異な事例ではない。
「そうだよ、仕方ない。仕方ないからこそ、君は自分の弱点のフォローを考えなくちゃならないだろ?」
 少年の瞳は空のように穏やかで海のように深い。一体どれほどのものを潜り抜けてくれば、このような光を得ることが出来るのか。アレンは本能の部分で、この少年には決して敵わないことを悟った。
「動けなくなるような怪我をしたらどうなるか、剣が通用しない魔物に囲まれたらどうなるか……ちょっと考えれば仲間の必要性が分かるはずだ。世界は本当に広いよ。そして色々なものがある。力押しで解決出来ることばかりじゃない」
「……」
「太陽だって一人じゃ空を守れない。地平線の下で眠る間は星と月に空を託すんだ。たくさんの存在に守られてるから、空は何時だってきれいなままでいられるんだ」
 少年はきゅっと両眉を持ち上げて、今一度アレンに念を押した。
「約束してくれ。サマルトリアの王子に会いに行くって」
「……分かったよ」
 反論の気勢を削がれて、アレンは不承不承頷いた。
「剣に懸けて誓ってくれるね」
「誓うってのしつけぇな」
 ローレシアの剣士にとって剣は命だ。刃の輝きに懸けて誓った事柄は、何があっても守らねばならないとされている。剣士としてのプライドがある以上、アレンとて少年との約束を違える気はない。
「よし、それじゃあここから出ようか。手を貸してくれ」
「……こうか?」
 アレンは差し出された少年の手に、素直に自分のそれを重ねた。少年は軽く指先に力を込めると、なにやらぶつぶつと口の中で呟き始める。
 繋いだ掌から金色の光が滲み出し、あっという間に巨大な球体に膨れ上がる。光の風船のようなそれの中に取り込まれた瞬間、アレンを浮遊感が襲った。


 湿り気を帯びた濃い草の香りが、アレンの鼻腔を擽った。
「外に出たよ」
「は?」
 慌てて辺りを見回せば、そこは小高い丘の上である。あさまだきの青白い闇が満ちた眼下の草原には、ローレシアの城と町が広がっていた。
「あ、あれ? 何で俺、何時の間にこんなところ、あれ?」
 アレンは混乱しながら一変した風景を見回す。
「今の……お前の魔術?」
「そんなところかな」
 少年は得意気に頷き、延々と続く広野を振り返った。
「さあ、サマルトリアはこっちの方角だ。十日くらい歩けば城が見えてくるはずだよ」
「……」
 アレンは少年に並んで大地の彼方を見つめた。
 旅の実感が急激に込み上げてきて、アレンの心は弾んだ。ここから一歩踏み出した世界には、十六年の人生では知りえなかったたくさんのものが待ち受けているだろう。これまでの生活で培った全てが引っ繰り返ってしまうかもしれない。
 アレンは意気揚々と頤を持ち上げた。
「色々世話んなったな。んじゃ、俺行くわ」
「気をつけて」
 少年がアレンの目を見上げながら、一言一言噛んで含めるように言う。
「必ず無事に帰って来て元気な顔を見せること。君が旅に出ている間、回りの人達はたくさんの心労を負うことになるんだから、それを忘れないように」
「……知ったこっちゃねぇよ、そんなの」
「君はまだまだ子供だな。心配してくれる人がいるってことが、どんなに幸せか分かってないんだ」
 アレンはたちまちむっと唇を尖らせた。
「うるせぇな。お前だって俺と同じくらいのくせに、偉そうに説教すんなっ」
「全部終わってこの城に帰ってくる頃には、きっと君にも俺の言ってることが分かるはずだよ」
 アレンは膨れっ面のままぷいと横を向く。反抗期真っ盛りのアレンに少年は苦笑混じりの溜息をついた。
「後は頼んだよ、アレン。もっと手助けしたいけど、そろそろ存在維持が辛くなって来た。術を食らった時に力のほとんどを使い切っちゃってね」
 アルマディス山脈から顔を覗かせた太陽が、その日最初の光を撒き散らした。一瞬にして闇が払われ、地上にある全てのものが朝日の色に染まる。幾千幾億の夜露が、ビーズのようにきらきら輝いて世界を彩った。
「ムーンブルクの王女が君達の助けを待っている。今度は君達が力を合わせて虹の橋を架ける番だ」
 続く少年の声は、風となってアレンの傍らを吹き抜けた。
「……俺に連なる全ての運命に、精霊神ルビスの加護がありますように」
「え?」
 アレンは振り返り、きょとんと瞬きをした。
 少年の姿がない。あたかも夢か幻であったかの如く、一片の名残も残すことなく忽然と消えてしまっているではないか。
「あれ……あいつ何処行っちまったんだ? てかあいつ、結局何だったんだ?」
 アレンは少年の正体をあれこれ推測しようとしたが、元来頭を使う作業は得手ではない。考え込むと著しく体力を消耗する因果な体質なのである。
「……ま、いいか」
 あっさりそう結論を出すと、アレンはそれきり少年の存在をきれいさっぱり忘れてしまう。何しろ彼の頭の中は、これから始まる旅のことでいっぱいいっぱいなのだ。
 彼方まで広がる光の波頭を縫って、何処からともなく飛んできた白い鳥がアレンの頭上を旋回する。少年を誘うかのように一声鳴くと、サマルトリアの方角に向かって羽ばたき始めた。
 淡い陽光が降り注ぐ。春の風が吹き抜ける。シロツメクサの花が揺れる。
 アレンは一人、広い世界へと踏み出した。