王女の心と水の導き<2>


 ナナの肩に刻まれた月の紋章で、さして手間取らずに身元を証明することが出来た。
 先達の約束もなく大司教宅を訪れた非常識な旅人達は、緊張に青冷めた召使によって貴賓室に通される。ほとんど間を置かず姿を見せた大司教は、ナナの姿を認めると呆然とその場に立ち尽くした。
「お久しぶりです、大司教様」
 ナナはソファから立ち上がり、愛らしく一礼した。にっこり笑う笑顔は百点満点、文句なしの可憐な姫君だ。
「姫……」
 大司教は呼吸を整えると、やっとのことでしわがれた声を搾り出した。
「一体これまで、何処でどうされて……」
「世界が滅びの危機に瀕しているとあっては、ロトの末裔として黙っていられませんもの。各地を旅しておりました」
 ナナは芝居っ気たっぷりに肩を竦めた。
「今日ここをお尋ねしたのは、復活の玉をお借りするためですの」
「復活の玉……?」
 不思議な響きを持つそれが何なのか、アレンにもコナンにも分からない。だが大司教が狼狽する様を見るに、それが彼女らにとって……或いはムーンブルクという国にとって特別な存在であることは推測出来た。
「復活の玉はムーンブルク王族の秘宝です。千年の歴史が刻まれた宝玉はこの国の証ともいうべき……」
「ええ、勿論よく知っています。承知の上でお借りしたいと言っているのです」
 駆け引きもへったくれもないナナの要求に大司教は再び絶句する。世継ぎの姫が生きていたというだけでも驚きなのに、正式な手続きも踏まず秘宝の引渡しを要求してきたのだ。混乱が混乱を呼んで頭の中が真っ白になっているようだった。
「おっさん固まっちゃったぞ」
「そりゃそうだろう。秘宝の引渡し要求なんて幾ら何でも無茶苦茶だ」
「お前が頼んだ方が良かったんじゃねぇの?」
「ここはナナの領域だ、口を出すつもりはないね。それに」
 コナンは意味ありげにアレンを見た。
「これは君にとっていい勉強になる」
「……どういう意味だよ?」
「ローレシアの次期国王として、ムーンブルク女王……将来のライバルの交渉術を見ておくのは無駄じゃないという意味だ」
 楽しげに喉を鳴らすコナンを見て、アレンは思わず鼻に皴を寄せる。
 アレンとコナンがそんな遣り取りをする間に、大司教はどうにか気を取り直したようだった。居住まいを正して咳払いをし、改めてナナに問いかける。
「姫は一体何をなさるおつもりなのか?」
「……紋章を集め、ルビス様にお会いし、ムーンブルクの仇を取る。国を滅ぼした大神官ハーゴンを、必ずこの私の手で討ちます」
 少女が毅然と宣言したのは、ロト三国の軍隊を総動員しても果たせるかどうか知れぬ大義だ。大司教は孫娘を諌める口調で懇々とナナを諭しにかかった。
「姫はご自分の立場をお忘れか。今となってはたった一人の王族であられる姫には、やって頂かねばならぬことがごまんとあるのです。まずは姫のご存命を元老院に報告し、然るべき……」
「元老院の相手している暇などありません。婿を取れだの子を生めだの、長々とお説教されるのは目に見えていますもの」
「姫は民に対して果たすべき責務もあるのですぞ。元気なお姿を見せ、お言葉を下賜すれば、民がどれほど救われるかお分かりになるでしょう」
「そんなチャリティーやってるより、ハーゴンを倒した方がよっぽど救われるわよ。生きてる人も、殺された人もね」
 ナナの声に遂に抑えきれない怒気が混じった。取り澄ました王女の仮面が剥がれ、本来のはねっかえり娘の顔が現れる。わがままが通らぬ幼女さながらの苛立ちを込めて、ナナは大司教を睨み上げる。
「勘違いなさらないで、大司教様。あたしは相談じゃなくて命令してるのよ。復活の玉をお貸しなさい」
 精霊神ルビスでも翻意させられぬだろう強固な決意が、その表情に、仕草に、佇まいに溢れ出す。こうと決めたら梃子でも動かぬ彼女の気質を、大司教は良く心得ているはずだった。
「……どのような手段を用いて反対しても無駄のようですな」
「あたしが講義を抜け出す時は何時でも力尽くだったってこと、大司教様はご存知のはずだわ。あたしあの頃より、もっとたくさんの魔術が使えるのよ」
「民や元老院にはどのような意思表示をされるおつもりか」
「……雨の血筋の王女は、太陽の血筋の王子達と虹の橋をかけにいきます。空が七色の光で覆われた時、その輝きの元にムーンブルクは蘇るでしょう」
 ナナは勝ち誇った表情で頤をつんと持ち上げた。
「……と、でもプロパガンダしといてちょうだい。そうすれば元老院のタヌキ親父達も、あたしが帰ってくるまで下手なことは出来ないでしょ」
「……」
 雨の血筋の娘は得意気に最強のカードを閃かせる。ロトとその奇跡を崇める大衆を、ちっぽけな小娘は完全に味方につけたわけだ。
 大司教は降参だという風に溜息をついた。


 ムーンペタ大聖堂の最奥に、一般人には立ち入りの許されぬ場所がある。
 精霊神ルビス像が見守る扉を潜ると、白亜の円柱が規則的に立ち並ぶ広い回廊に出た。月明かりを髣髴とさせる魔術の照明が灯る中、ナナを先頭にして末裔達が進んでいく。長い廊下の突き当たりには王家の秘宝が納められた隠し部屋があるのだ。
「それでナナ、復活の玉というのは一体何なんだ?」
 コナンの問いかけにナナが振り向いた。ふわふわ棚引く巻き毛が今宵は青みがかって見える。
「テパ族がルビス様から授かった宝玉よ。毎年晦日と元日に、歴代の女王や王妃が魔力を込めてルビス様に捧げていたの。テパ族のルビス様に対する忠誠の証ね」
「なるほど。確かに大層な宝だな」
 二人の会話を聞き流しつつ、アレンはきょろきょろ周囲を見回すのに忙しい。回廊には歴代の王家の肖像画がずらりと飾られ、穏やかな眼差しでじっと三人を見下ろしているのだ。
「なあ、あれお前のお袋?」
 アレンが顎で指し示したのは、金の額縁に収められた肖像画だ。王冠を頂いた男の傍らに若い娘が腰かけ、その膝にちょこんと幼女が座っている。男は嘗て滅びた王城で出会ったムーンブルク王であり、赤い瞳の少女はナナに間違いない。では柔らかく微笑む美しい娘はナナの母親なのだろう。
「そうよ。あたしが三つの時の肖像画」
 ナナは顔を上げて懐かしそうに微笑んだ。
「兄妹なのに俺の親父とはあんま似てねぇんだな」
「ローレシアの伯父様とお母様は年の近い兄妹でよく喧嘩してたって聞いたわ。お嫁入りするのにローレシアを出る前日に、取って置きのプティングを食べた食べないで取っ組み合いの喧嘩になったってお母様が言ってた」
「君達のおやつの奪い合いは、親の代からの因縁というわけだ」
 感心したようにコナンが唸る。遺伝子というものは恐ろしい。
「……伯父様の話はたまに聞くけど、アレンのお母様の話って聞いたことないわね。どんな人だったの?」
「お袋?」
 唐突な話題の展開に、アレンはどんぐり眼をぱちくりとさせた。
「ローレシア王后には一流の剣の技を求められると聞いたことがある。アレンは母上から剣術の手解きを受けたのかい?」
 ローレシア王后は妻であると同時に、王の命を守る最後で最強の盾だ。国の花としての美しさや教養、家柄や血筋は勿論、いざ実戦となった時に王を守りぬく強さが要求される。だから王子と同じ年頃の娘を持ったローレシアの貴族は、幼い頃からせっせと剣術の稽古をさせて妃の座を狙う。そんな貴族の風習が影響してか、ローレシアの娘達にとって剣術は淑女の嗜みの一つだ。
「剣術を教えてくれたのは親父とか師匠で、お袋はそういうことにはあんま口出ししなかった。俺がうさぎ跳びとか腹筋とか背筋とか腕立て伏せとかするのを、樹の陰から泣きながら見るのが趣味だったんだ」
「ほう。特殊な趣味だな」
「コナンのお母様はどんな人だったの?」
 コナンは肖像画を見上げたまましばし沈黙する。微動だにしない顔の中、ややあって薄い唇が独立した生き物のように動いた。
「……母上は伯爵家の娘で陛下の幼馴染。幼友達が何時しか想い人に変わったというよくありがちな恋物語だ」
 三人の生まれる前に綴られた物語が、回廊の冷たい大気に染み込んでいく。囁くようなコナンの声も、静まり返ったこの場所では良く通った。
「だがそこにもう一人男がいたから話はややこしくなった。陛下と母上は幼い頃からの友人だったが、そこには何時も叔父上が一緒だった。陛下が母上を想われていたように叔父上も母上が好きだった」
「……ハーゴンが?」
 思いもよらぬタイミングで飛び出したのは邪教の大神官だ。アレンとナナは顔を知らず顔を見合わせる。
「そして母上が愛したのは叔父上の方だった。二人は結婚の約束をしていて、母上が十六になったら正式にお祖父様にお願いする気だったらしい」
「でも……コナンのお母様はサマルトリアの国王陛下とご結婚なさったの?」
 コナンはナナを見下ろし、両の眉を皮肉っぽく持ち上げて見せた。
「二人の婚約は生まれた時から内密に決まっていたんだ。色々と政治的なしらがみがあってね、当人達の気持ちが介入するような状況じゃなかった。叔父上と母上は引き裂かれ……その頃から叔父上はおかしくなったらしい」
 これだけはと望んだものですら、虚しく指の間をすり抜けていった。そう言ってハーゴンは嗤った。日々鬱積していた事柄が、最愛の少女を奪われることによって一気に爆発したのかもしれない。やり場のない想いを抱えて蹲っていたところにゾーマが甘く囁いたのだろう。
「……そんで、お前のお袋は?」
「僕が叔父上に攫われた時に亡くなった。もっと分かり易く言うと、母上は僕を庇って叔父上に殺された」
 コナンがあまりに淡々と語るので、アレンとナナは趣味の悪い創作でも聞かされているような気分になった。
「母上は僕を救ったことに満足して死んでいったようだが、残された方はその死の重みに潰されそうになったよ。自己犠牲なんて手前勝手な死に方だ。それによって生き永らえた人間の気持ちを置き去りにしてしまうんだからね」
 コナンの面は仮面のようにのっぺりとしていて何の表情も読み取れない。共に旅をするようになってそれなりに絆は深まっても、心の深淵を覗き込めるほど彼らの距離は近くなかった。
「でも、そんな風に思ったらお母様がかわいそう。コナンを愛していたから、お母様は……」
「それは理解しているつもりだけどね」
 コナンが肩を竦めたのと、鈍い具足の音が回廊に響いたのはほぼ同時だった。


 反射的に振り返った三人の前に、一人の男がゆっくりと姿を見せた。
 扱けた頬と尖った顎を持つ痩せぎすの男だ。三十に手が届く頃に見えるが、無精髭を剃ればもう少し若いのかもしれない。鈍く光る青銀色の鎧を纏い、三叉の長槍を携え、裾に刺繍をあしらったマントを羽織っている。ムーンブルク兵士の基本的な装いだ。
「ここで何をしている」
 鋭い穂先がアレンの喉元に突きつけられる。アレンは手の甲で勢い良くそれを払った。
「そりゃこっちの台詞だ。お前こそこんなとこで何してんだよ」
「……サミュエル? あなたサミュエルでしょ?」
 じろりとナナを睨んだ兵士は、次の瞬間ひゅっと息を飲んだ。眦も裂けんばかりに目を見開く兵士の手から、がらんと音を立てて槍が滑り落ちる。兵士は体を震わせながら膝をつき、ナナに向かって深くこうべを垂れた。
「……知り合いかい?」
「お父様に仕えてくれていた近衛兵よ。あたしが小さい頃から色々面倒見てくれたの」
 ナナは蹲る兵士に近寄った。膝を抱えて座り込み、俯いた兵士の顔を覗こうとする。
「みんな死んじゃったと思ってた。でもあなたは生きててくれたのね」
「姫」
 サミュエルは顔を伏したまま呻いた。
「私は卑怯者です。ムーンブルク城が襲われたあの夜、私は魔物に背を向けて逃げ出しました。同僚が果敢に魔物に立ち向かう様を尻目に、私は自らの保身を最優先させたのです」
「……」
 それは騎士として最も恥ずべき行為だった。彼は国を、王家を、そして自らの誓いを裏切ったのだ。
「けれど私は、未だ見捨てたはずの故郷を忘れられません。このムーンペタの地で、東の空を眺めながらあの日の自分を呪い……」
「故郷を思うのは当然だわ。あたしも毎日ムーンブルクの方角を見るもの」
 のろのろとサミュエルは顔を上げた。ナナの知っているサミュエルはもう少し若く、もう少し覇気があって、もう少し綺麗だった。拭い切れぬ疲労のこびりついた顔に、彼の背負った苦悩が透けて見えるようだ。
「ムーンブルクの思い出話を出来る人がいて嬉しいな」
 サミュエルは深く項垂れて肩を震わせる。大理石の床にぽたぽたと涙の雫が零れ落ちた。
「……それにしても、ムーンブルクの兵士が何故ここに?」
 サミュエルは潤んだままの目で胡散臭そうにアレンとコナンを見た。彼にしてみれば、アレンとコナンこそ不審者以外の何者でもない。
「この人達なら大丈夫よ。こっちがローレシアのアレンでこっちがサマルトリアのコナン。あたし今、この人達と旅してるの」
「ローレシアとサマルトリアの皇太子殿下であらせられましたか。……ご無礼をお許しを」
 サミュエルは恐縮したように縮こまり、それからやや緊張を帯びた声でコナンの問いに答えた。
「私が大聖堂におりますのは復活の玉をお守りするためです。我ら近衛兵団は王家と秘宝をお守りするために存在するのだと、日々隊長から言い聞かされておりました。国と王が失われた今、私に残された役目の一つがそれなのです」
 ナナはサミュエルの瞳をしっかりと見つめながら立ち上がった。
「あたし達復活の玉に会いに行くの。一緒に行きましょう、サミュエル」