王族達が見守る回廊の先には、真鍮製の巨大な扉が聳えていた。 観音開きの扉は貝の如くぴったりと閉じ合わさり、彼らの行く手を阻んでいる。つるりとした戸板には取手どころか指をかける箇所も見当たらない。アレンは扉を軽く押し、その重量を確かめて眉を寄せた。 「……こんなの、どやって開けるんだよ?」 「こうやって開けるのよ」 ナナは扉に向けて手を翳した。静かに紡ぐ詠唱はムーンブルク王家に伝わる古の魔術だ。 「アバカム」 魔術を発動させた途端、役割を思い出したとでも言うように扉が独りで開いていく。完全に開くのを待つのももどかしく、ナナは狭い隙間に体を滑り込ませた。 十二本の太い柱に支えられた宝物庫には、芸術品とも見紛う祭事具が所狭しと鎮座していた。そのどれもが現在の技術では生み出ぬ貴重な魔術品であり、ムーンブルクの偉大な遺産でもある。例え国が滅びても、人々が生きた証まで消えることはない。 「姫、足元にお気をつけください。階段があります」 サミュエルの言う通り、短い下り階段が足元から伸びていた。角度は急だが段数は少ない。 「これ位平気よ」 ナナは小さく肩を竦めるや否や、とんと一足飛びに床まで飛び降りた。くるりと裾を翻しながら振り返り、手を差し出した格好のままのサミュエルに微笑む。 「ね?」 サミュエルの面に苦笑とも微笑ともつかぬものが浮かんだ。 「相変わらずのお転婆娘でいらっしゃいますね。池に嵌ってびしょ濡れになられたり、登った木から降りられなくなったりと、姫はとかく元気な御子でいらっしゃいました。私は姫が何かをなさるたびに寿命が縮む思いをしたものです」 「君のお転婆には随分と年季が入っているようだな」 「お前、俺のことサルサル言うけどお前だって似たようなもんじゃん」 しみじみ頷くコナンとにやにや笑うアレンを睨みつけた後、ナナはサミュエルに向けて肩を怒らせた。 「サミュエルってば余計なこと言わないで!」 ナナは膨れっ面のまま宝物庫の奥へ進んでいく。豪奢な巻き毛が歩調に合わせて弾む様に、サミュエルは優しげに目を細めた。 「……お元気そうで本当に良かった」 サミュエルはアレンとコナンを振り返って一礼する。 「姫はムーンブルクが残した最後の希望です。どうかこれからも姫を支えてくださいますよう、身を伏してお願い申し上げます」 「お前こそ支えになってやれよ。ムーンブルクの人間が生きてて、あいつ随分元気になったみたいだ」 「……私では無理なのです」 寂しげに首を振ってサミュエルはナナの背を追った。アレンとコナンは歩調を速めてその後に続く。 きらびやかな品物には目もくれず、三人は宝物庫を奥へ奥へと進んでいく。高価な宝物を目の当たりにしても気後れしない辺り、彼らはやはり王族だ。 「あ」 先頭を歩いていたナナがぴたりと足を止めた。 消えることのない灯の下に佇むのはグリフォンの彫像だ。鷲の翼を大きく広げ、獅子の爪で大地を捉え、王者の瞳でじっと虚空を睨み上げている。鈍く輝く黄金細工の嘴には青い宝珠を咥えていた。 「あれが復活の玉よ」 それはナナの拳より一回り小さい宝玉で、金とルビーで繊細な装飾が施されている。透き通った玉の中には、気泡を思わせるような光が漂っていた。 「あたしが女王になった時にも、この宝玉に魔力を込めるはずだったの。命の一部を捧げることでルビス様の加護を願う、王家の証」 ナナはグリフォンの嘴からそっと宝珠を外した。 「でもムーンブルクはもうない。あたしが立て直すまではただの宝珠ね」 ナナは宝珠を手に宝物庫の中央まで歩み出た。ある程度広さのある空間に立つと、両手で宝玉を高く掲げて詠唱を始める。普段戦闘で耳にする詠唱とは抑揚も雰囲気も違うのに気付いて、アレンは小さくコナンに尋ねた。 「ナナの奴、何するつもりなんだ?」 「あの中に封じられた記憶を解放しようとしているんだと思う」 「そんなことが可能なのですか?」 身を乗り出したサミュエルが、自らの声の大きさに気づいて慌てて口元を覆った。 「……ものに記憶があるということなのでしょうか?」 「ものではなく、魔力に記憶があるんだ」 コナンは腕を組んだ。 「魔力変換は命の一部を切り取ることに等しい。だから魔力には個人の情報……記憶、思想、感情などがぎっしりと詰まっている。切り離された瞬間の分身といえば分かり易いだろうか?」 「それでは魔術具に魔力を移すことで、永遠に存在を繋ぎとめることも出来るのでは?」 「そうはいかない」 コナンはきっぱりと首を振る。 「肉体の老いから解放されるとはいえ魔力にも寿命がある。人間の魔力ならもって百年……神々のものならば五百年くらいだろうね。魔族やエルフはその中間くらいになると思う」 「ふーん」 アレンが感心して唸ったその時、部屋いっぱいに青い光が満ちた。 漣のように満ち引きを繰り返しながら、光は静かに宝物庫に満ちていく。淡い水色から濃い青色まで、瞬きするたびに濃淡を変える光が交じり合い、一つに溶け、また幾つにも散じる。そこに存在する全てが海の色に染められた。 やがて、宝珠を掲げ持つナナの前にゆらりと人影が浮かび上がった。 緩やかに波打つ髪が藻の如く舞った。ゆるゆると持ち上がる貝殻のような瞼から黒い瞳が現れる。頬から顎にかけての華奢な線とつんと澄ました鼻の形がナナにそっくりだ。 「王后陛下」 「お母様」 女の幻はゆったりと微笑んだ。作り物のように華奢な指を伸ばしてナナの頬に触れる。 「そんな顔をしてどうしたの?」 ナナは唇を噛んだまま何も言わない。瞬きも忘れた瞳でじっと母の虚像を見上げるだけだ。 ムーンブルク王妃は顔を上げ、アレンとコナン、そしてサミュエルを眺めて微笑んだ。 「サミュエル、お勤めご苦労様」 サミュエルは崩れるように座り込んだ。辛うじて膝を立て騎士の礼を取るが、顔を上げることも声を出すことも出来ないようだ。 「あなた達はローレシアのアレンとサマルトリアのコナンね」 王妃はアレンをしげしげと眺め、悪戯めいた輝きを瞳に宿した。 「アレン、あなたは兄様にそっくりね。兄様は元気にしてる? 相変わらずの筋肉ダルマなのかしら?」 「……はい」 「今でこそ偉そうに王座に踏ん反り反ってるんでしょうけど、若い頃は町に出て派手に喧嘩したり、三日間くらい行方不明になったりで大変な問題王子だったのよ。おまけに惚れっぽくて、よく浮気してお義姉様を怒らせていたわ。その度にお義姉様の機嫌を取ろうとおろおろしてる兄様を見るたび、ホント男ってどうしようもないって思ったものよ。でもお義姉様が亡くなってからはすっかり気落ちして、別人みたいに大人しくなったらしいわね。あなたも叱られた時にはその辺突いてやりなさいな」 ころころと笑う様は一国の王妃とは思えない。この娘にしてこの母あり、この甥にしてこの叔母ありと言ったところか。 「お母様ってば」 「え? ああ、そうね、思い出話している場合じゃないわね。私のかわいい娘は一体どんな困りごとがあって、こんなところまで来たのかしら?」 「ムーンブルクが滅びたの」 今眼前にいる王妃は元日の記憶までしか持たず、ムーンブルク滅亡を知り得ないのだ。絶句する母の姿に心が痛んだが、ナナは敢えて淡々とこれまでの経緯を説明した。 「あたし達今、精霊神ルビス様にお会いするために紋章を探しているの。そのうちの紋章の一つがムーンブルクにあると聞いて探しにきたの。お母様、水の紋章について何か知ってることがあったら教えて」 「……そう」 王妃は微かに目を眇めてナナの顔を覗きこんだ。 「残念ながらわたしは紋章については何も知らないわ。けれどナナ、ルビス様を復活させるというのなら、あなたには紋章を探す他にもう一つ役目があります」 「役目……?」 鸚鵡返しに尋ねるナナに母は頷いた。 「そう、話してあげるからおかけなさい。アレンにコナン、そしてサミュエルも楽にして。少し長くなるから」 ムーンブルクの礎を作った海と月の一族は、通称テパ族と呼ばれている。 テパ族は元来流浪の民であり、船を家として海上で生活する民族だった。何百年に渡って数多の海域を渡り、頑なにその生き方を守り続けていた彼等に転機が訪れたのは、月夜に降臨したルビスとの出会いがきっかけだったと言われている。 満月を背にゆっくりと海面に下り立った精霊神の美しさに、人々は我知らず甲板にひれ伏したという。ルビスは慈愛の微笑みを柔らかく投げかけながら、そっと爪先で海面を弾いた。すると海底が盛り上がって遠浅のさんご礁と化し、更にその一部が隆起して白亜の神殿に変じたのだ。 「テパ族は神殿に十二人の乙女を捧げたの。巫女となった十二のうち、六人がその後再びテパ族に戻ってルビス様の教えを説いた。テパ族は大地の理にしたがって陸地に上がった……それが今のムーンブルクの始まりよ」 月と海の加護を受けた民は、以後陸上で千年の栄華を極めたのだ……あの日、大地が人々を食らう瞬間まで。 「ルビス様は大地に同化される寸前、巫女を集めて仰ったそうよ。再び精霊神の言葉が必要な時は、女神の眠る地に五つの心を捧げなさいと」 王妃の黒髪と裳裾がふわふわと光に靡いた。 「海の神殿の祭室に女神の眠る地への通路がある。そして祭室の扉はテパ族の血に反応する。……ナナ、あなたが巫女として扉を開くのよ」 ナナは父から濃いテパ族の血を受け継いでいる。月と海の加護を受けた血筋ならば祭室への扉を開けることは可能だ。 「で、でも」 ナナは動揺してぱちぱちと瞬きをした。 「その神殿は何処にあるの?」 「ここから南西にあるテパ村のことは知っているわね、ナナ」 「ばあやに聞いたことあるわ。今でも月と海の教えを守って暮らしてる人達がいるって」 テパ族の中には、混血化や多文化との融合を嫌ってムーンブルクを捨てた者がいる。彼らは今でも千年前の出来事を言い伝え、小さな村で細々と生活しているという話だ。 「そこで神殿や巫女のことをお聞きなさい。テパ村では今でも昔の教えがそのまま語り継がれているはずよ」 ナナは目を伏せ、彼女らしくもない気弱な表情で俯いた。母を前にすると、何時もの強気も何処かへ行ってしまう。 「あたしに巫女の務めなんて果たせるのかしら」 「私の娘に出来ないことなんてないわ」 王妃は愛娘の頬を包み込んで自信たっぷりに言う。ナナの頬が明るい薔薇色を取り戻したその時、不意に低い衝撃が宝物庫を揺らした。 |