王女の心と水の導き<4>


 風に乗って吹き上げる粉塵、行き交う怒号と悲鳴、夜闇を凍らせる緊迫。静寂の中にあったはずのムーンペタ大聖堂は混乱の極みにある。それはムーンブルクが滅ぼされたあの日の光景を髣髴とさせるもので、宝物庫から飛び出したナナは思わず身を竦ませた。
「何が起きて……」
 再び鈍い衝撃が辺りを揺るがす。幸か不幸か、それがきっかけで金縛りから解放されたナナは、音源目指して弾かれるように駆け出した。
「ナナ!」
 呼び止めるコナンの声も耳に入らない。心臓が痛いほど早く鼓動を刻む。歯を食い縛って回廊を駆け抜けたナナは、礼拝堂に飛び込んだ瞬間、目の前の光景に絶句した。
 礼拝堂の丸天井が破壊され、美しい花模様を刻んでいたボスが床の上で無残に砕けている。ぽっかり開いた穴から差し込む星明りを浴びて、皹入ったステンドグラスの下にナナと同じ顔をした少女が立っていた。
「人間の作るものは脆くてだめね。あたしの国になった暁には、もっと丈夫でもっと立派なものに作り変えるわ」
 円らな双眸が研ぎ澄まされた刃物の輝きを帯びる。りんご色の頬に無邪気な微笑みを浮かべて、少女は駆けつけてきた末裔達に優雅に会釈した。
「初めまして、ロトの末裔」
「バズズか? ベリアルか?」
 剣を抜き放つアレンに、少女は軽く首を傾げて微笑んだ。
「アトラスから聞いてるなら説明は要らないわね。あたしはあなた達人間が呼ぶところの、虚無の神ベリアルよ」
「……サミュエル、復活の玉をお願い」
 ナナは胸に抱いていた宝珠をサミュエルに託し、魔術師の杖を構えた。己の影と向き合うのはひどく奇妙な気分で、嫌悪が吐き気になって胸の奥に蟠る。
「自分の顔をした魔物って最悪ね。アレンの気持ちがやっと分かったかも」
「遅ぇよ」
 ゆっくりと視線を巡らせたベリアルは、サミュエルの手にある復活の玉を認めた瞬間、忌々しげに顔を顰めた。
「この町を守っている力の源はそれね。人間のものにしちゃ強くて入り込むのに一苦労だったわよ」
 言いながらベリアルは胸に手を押し当てた。途端黒い光が火花の如くばちばちと弾け、彼女の小さな肉体を包み込む。
 それは一瞬面妖な鎧を形成した後、白磁の肌にすうっと吸い込まれていく。何か偉大な力が、堅固なバリアとなってベリアルを覆ったのがはっきりと感じられた。
「あたしがシドー様から授かった悪魔の鎧よ。先の大戦で砕かれちゃったけど、こうして呼び出せば何時でもあたしを守ってくれる」
 少女は陶酔したように囁き、にやりと笑った。
「アトラスは単細胞な上に、肉体のせいで更に馬鹿になってるから対処出来たでしょうけど、あたしはそうは行かないわよ」
「てめーっ、肉体のせいってどういう意味だー!」
 ぶんぶん剣を振り回すアレンを押しのけて、ナナが一歩前に踏み出した。
「ムーンペタに何の用なのよっ」
「あたしのものになる国を見ておこうと思って。あとアトラスと一緒でやっぱり肉体のオリジナルには興味があるのよね」
 余裕たっぷりに微笑むベリアルに、ナナは奥歯を噛み締めた。
「あんたの狙いもあたしの人生?」
「あたしはあなたを殺してムーンブルクの女王になる。あなたが作るよりも大きく強い国を作る。そして」
 ベリアルは肩まで伸びた髪を、余裕めいた仕草で掻き上げた。
「邪神の力で、作り上げた国を何者からも守り抜いてみせるわ」
「あたしだって」
 ナナは指先が白くなるほど、強く魔術師の杖を握り締めた。
「あたしだって……」
 続く言葉がどうしても出てこない。喉奥に声を詰まらせたまま佇むナナに、ベリアルは予想通りだという目を細めた。
「あたしだって、なぁに? その続きはどうしたの?」
 今のナナを生かしているものは二つ。ハーゴンへの復讐とムーンブルク再建の夢である。
 ムーンブルクを復興させることは、凄まじく困難ではあるが決して不可能ではないだろう。ローレシアとサマルトリアの援助を得て、大樹がゆっくり成長するようにムーンブルクは蘇る。美しい王国が再びこの大地に根づくことに、ナナは何の疑問も懸念も抱いていなかった。
 だが今になって突然、ナナは一つ問いを投げかけられた。再びムーンブルクが襲撃された際、その脅威から国を守る力が自分にはあるのだろうか。何も出来なかったあの日のように、国が崩壊していく様をただ呆然と眺めることになるのではないだろうか。
 ベリアルはナナの心に澱の如く沈んだ不安を掬い上げたに過ぎぬ。影を礎とする三柱神は、誰よりも正確に彼らの心を知っているのだ。
「ナナ、下がれ!」
 コナンがナナの腕を引くと同時に、アレンが疾風の如く飛び出した。岩をも砕くアレンの一撃を、ベルアルは手にした華奢な杖で易々と弾く。二度、三度と矢継ぎ早に閃く太刀を鮮やかに避けると、ベリアルはふわりと跳んで祭壇の上に降り立った。
「あなたを殺すなんてあたしには簡単なことなのよ」
 ベリアルの視線はただ一人ナナへと注がれている。彼女にとって、アレンやコナンは気に留めるまでもない存在のようだ。
「ワンスペルで心も体もずたずたに出来るんだから」
 ベリアルが唇の中で一言呟いた途端、凄まじい寒波が部屋いっぱいに満ちた。それは肌に浸透し、血流を滞らせ心臓までをも凍らせるような冷たさだ。
「今、ムーンブルクから呼んだわ。地脈を通ってすぐにここにやってくる」
「……呼ぶ?」
「シドー様への贄よ」
 ひゅうと風がなる。大気がざわりと蠢く。大理石の床を突き破って、ぼこぼこと人影が現れた。


 それは一目で、あの日死んでいった城の者達だと分かった。
 腕がなかったり頭が半分欠け落ちたり、人としての形を保っているものは数える程しかいない。多くの死体は内臓と思しき肉の塊をぶらさげ、吐き気を催すような腐汁を滴らせながら左右にふらふらと揺れている。その数、その姿、そしてその臭気に圧倒されたアレンが反射的に後じさった。
 ナナは冷たくなった手で口元を覆った。悲鳴は喉で潰れて声にならなかった。ベリアルは宣言した通り、たった一言でナナの心をずたずたに引き裂いたのだ。
 死体の群れからよろよろと数人の少女が進み出た。眼球が抜け落ちたり、腐肉が顔から滑り落ちたりといった惨状だが、ナナには彼女達が誰であるのかすぐに判別がついた。
「ウェンディ……。リーファ、ベス……」
 ベリアルの魔力で蘇った少女達は、嘗ての友であると同時に邪神の傀儡だった。
 少女達の一人が棒切れのごとき両手を差し伸べ、ゆらりゆらりとナナに歩み寄ってくる。濁った二つの瞳がナナの綺麗な肢体をじろじろと眺め回した。
「どうしてナナだけ生きてるの? 私達は殺されてこんなに汚い体になったのに」
 腐りかけた舌で、少女はたどたどしく恨み言を口にした。
「ねえ、見て。あそこにいる兵士は、ナナを守った時片腕を食いちぎられたんですって。凄く凄く痛かったんですって。みんながそんな酷い目に遭ったのに、ナナだけ生きてるなんて……ずるいわよねぇ?」
「……」
 引くことも抗うことも出来ず、ナナは魔物と化した友人を凝視するばかりだ。
「あなたもこっちに来るべきだわ」
 腐敗した指先がナナの首に触れる寸前、アレンが稲妻の如くその合間に滑り込んだ。ロトの剣が翻った一瞬後、ぐしゃりと音を立てて友人の肉体が潰れる。地獄のようなその光景を、アレンの広い背中が覆い隠してくれた。
「ムーンブルクは魔力の地。土地そのものに魔力が満ちている。あなた達、この意味を考えたことがある?」
 ベリアルの唐突な言葉にアレンは眉を寄せ、コナンは唇を引き結んだ。
「神々の大戦の時、腕を切断された創造神の血がここら一体に散ったのよ。神の血は大地に、大気に、生きるものに魔力を与えた」
「……」
「ハーゴンはその血からシドー様の肉体を創造した。……皮肉でしょう、創造神の血が破壊神の礎となるなんてね。万物の創造を司る血は、ムーンブルク二百万の民の命を吸い込んで死のエネルギーを孕み、小さな結晶体となった」
 ベリアルは壮絶に美しく残忍な微笑みを浮かべた。
「邪神の像を依代に、シドー様は神として蘇る」
「ナナは逃げろ」
 何時の間にか横に並んだコナンが語気鋭く囁きかけてきた。ナナは未だ自分を取り戻せないまま、ぎくしゃくと首を振った。
「嫌よ、だってあたし……」
「戦えるような状態じゃないだろう!」
 コナンがナナに向かって声を荒げるのはこれが初めてだ。外から見てそうと分かる程動揺しているのだろうと、ナナは何処か冷静な頭の片隅で他人事のように思う。
「ナナを頼む」
 サミュエルに囁いて、コナンがアレンと共に走り出す。コナンの放つベギラマの炎が立ち尽くすナナの頬を赤く染めた。
「姫、こちらへ」
 ぐいと手を引かれた瞬間、ナナは反射的に足を踏ん張って激しくかぶりを振った。
 このままではアレンとコナンがやられてしまう。ムーンペタの町に腐った死体が溢れ出てしまう。ナナの大切なものがまた悉く踏み躙られてしまう。あまりの恐怖にがたがたと震え出した体をナナは必死に抑え込もうとした。
「あたし、戦わないと。みんなを守らないと」
 だがどうすればいいのだろう。ナナにはベリアルの干渉を断ち切るほどの力はなく、使える魔術だって神から見れば子供騙しに過ぎぬものばかりだ。哀れな死体達を安らかな眠りに導き、アレンとコナンを助ける方法など思いつかない。
(あたしはあの時みたいに何も出来ない……)
 ナナはぎゅっと両手を組み合わせた。肉に爪が食い込む痛みで混乱を抑えながら、打開策を求めて必死に辺りを見回す。
(だめよ、しっかりしないと。何かある、きっと何か、あたしに出来ること……)
 狂人めいてぎらつく瞳がぴたりとサミュエルの手元に止まる。そこには復活の玉……ムーンブルク王族の魔力の結晶が燦然と輝いていた。
 反射的に伸ばした指先は、復活の玉に触れる寸前でぴたりと止まった。
「姫……?」
 額に滲んだ汗は、ナナのマシュマロのような頬を伝って顎から滴り落ちる。葛藤と緊張に喉が一瞬で干上がった。
「やりなさい」
 凛とした声が響いた一瞬後、すぐ側にふわりと母の影が浮かび上がった。
「あなたはこの国の王女、民に対して責任があります。あなたの力で彼らを邪神から解放しなさい」
「だけどそうしたら、お母様、消えちゃうでしょ?」
 復活の玉にナナのありったけの魔力を注ぐ。そうすれば内圧に耐え切れなくなった宝珠が粉々に砕け、これまで込められた魔力が一気に空気中へ吹き出す。ナナはそこにトヘロスを乗せてこの空間ごと清めようというのだ。
「そうね。宿り場がなくなればわたしは消えるわね」
「……あたしまた一人になっちゃう」
 ナナは睫毛を震わせたが、やはり涙は出てこなかった。心はこんなに痛くて苦しいのに、感情を吐き出す機能は未だ壊れたままなのだ。
「……あなたは一人じゃないでしょう」
 母の見せた微笑みは、ナナの知っている中で一番晴れやかで美しいものだ。だがその色は淡く、輪郭ははかなく、肉体は透けている。
 母は死んだのだ。ここにいるのは残留思念に過ぎない。ナナは唐突にそのことを理解した。
「ねぇ、お母様」
 聞いておきたいことも話しておきたいこともたくさんあったはずなのに、いざとなると言葉にならなかった。ナナはたった一つ、ずっと気にかかっていたことを母の幻影に尋ねた。
「お母様は幸せだった……?」
「勿論よ。お父様は十五も年上だったけどいい男で優しかったし、あなたはお転婆だけど可愛い娘だった。わたしみたいな幸せ者はいないと胸を張って言えるわ。いいこと、ナナ。わたしの娘であるあなたは、わたしよりも幸せにならなくてはだめよ」
 ナナは網膜にしっかりと母の姿を焼つけ、目蓋を落とした。両手に復活の玉を持ち、高々を掲げてトヘロスの詠唱を始める。
 両掌にあらん限りの魔力を生み出つつ光の精霊を召還する。町中に彷徨っていた精霊達が、冷たい悪意を潜り抜けてナナの元へと集う。
 ナナは魔力を一気に宝玉へと注ぐ。ガラスが弾けるような甲高い音と共に復活の玉が弾けた。