青と金の風が吹き抜ける中、何人もの貴婦人がナナに歩み寄ってくる。時代めいた豪奢なドレスと装飾品を身につけた彼女らは、肖像画でしか見たことのないムーンブルク王家の女だ。 (私達の娘に月の守護がありますように) (私達の希望に海の加護がありますように) (月と海の王女に精霊神ルビスの導きがありますように) 先祖達は次々にナナの額に口づけを落とし、抱擁していく。 やがてムーンブルク最後の王妃が現れ、ぎゅっとナナを抱き締めた。不思議なことにそれは確かな感触を持つ実体で、ナナは幼い頃よくそうしたように夢中で母の背に手を回した。 (あなたはわたしと陛下の愛し子。どんな道でも強く歩いていけると信じてる) 「見守っててくれる?」 (あなたがロトの末裔の務めを果たして、誰かと恋をして、幸せな結婚をして。優しいお母さんになって、素敵なお祖母ちゃんになって、全ての役目を終える日まで) 母は腕の力を僅かに緩め、ありったけの愛情を込めてナナの額に接吻する。 (わたしはどんな時でもあなたを見守っているわ) 母の存在がゆっくりと消え始める。清浄なるトヘロスが弱まるのに合わせて祖先達の影は薄まり、ぼやけ、そうして完全に消失した。 ふと我に返って足元を見ると、復活の玉の破片が辺り一面に散らばっていた。魔力の結晶体である宝珠は、砕けても尚神秘の光を力強く明滅させている。 「ナナ」 コナンの声がすぐ傍でした。ナナはのろのろと顔を上げ、未だ感情の戻らない声で尋ねた。 「……ベリアルは?」 「逃げた。聖なるトヘロスの光は聊か刺激が強かったらしい」 淡々と述べるコナンの双眸には、素直な賞賛と敬意が浮かんでいる。 「君とムーンブルクの王族は、見事にこの町を守り抜いたね」 言いながらコナンはナナの手を取り、ホイミを唱えた。全く気付かなかったが、宝珠が飛び散った瞬間破片で掌を抉られていたらしい。滴り落ちた血がローブの袖口を赤く染めていた。 「大丈夫か?」 アレンが尋ねるのにナナは力強く頷いた。 「平気よ。一気に力を出したから少し疲れただけ」 かしゃん、かしゃんと、具足の音が背後から近づいてくる。懐かしいムーンブルク兵士の足音に、ナナは心和むものを覚えつつ振り返る。 「サミュエル、見てくれた? あたし……」 サミュエルの姿を認めた瞬間、ナナの表情が凍った。 夜明け前の青白い闇の中でサミュエルの体は透けていた。今宵最後の星光と自ら発する微光を纏い、まるで蛍のように儚く輝いている。 「あの日城から逃げ出した私は、月の泉で不思議な声を聞きました。宿り場を破壊された精霊が私に話しかけてきたのです」 そう語り出すサミュエルの表情は悲痛でもなく、悲壮でもなく、むしろ全てをやり遂げた清清しさに満ちていた。 「私は騎士にあるまじきことに背中に深手を負っており、このムーンペタまで逃げて命を終えました。以来私の魂をこの世に繋げていたのは、月の泉の精霊から託された水の紋章です。精霊に代わる守護者として、力を渡すのに相応しい方をお待ち申し上げておりました」 ムーンブルクの月の泉には、テパ族縁の精霊が住んでいたと伝えられている。ではその精霊こそが、捜し求めていた守護者だったのだろう。 サミュエルの右掌が青い光を帯びる。光は三つに分かれてしばし宙を漂い、末裔達の胸元に飛び込んで一瞬その体を青く染めた。 「……水の紋章、確かにお渡し致しました」 「サミュエルも行っちゃうの?」 「役目を終えましたから」 「……ムーンブルクの思い出話、する暇なかったね」 サミュエルはナナの前に跪いた。生き残りの王女の手を取ると、その指先に恭順の口づけをする。 「古きムーンブルク最後の王女殿下にして新しきムーンブルク最初の女王陛下。私の忠誠は何時までもあなたと共に」 「……あたし、あんまりいい王女じゃなかったわね。魔術の講義をさぼったり勝手に町に遊びに出かけたり、あなたにも随分迷惑かけたわ」 「あなたは手のかかる、お転婆で元気な姫君でした」 そう語るサミュエルの声は、肉親を髣髴とさせる優しさに満ちていた。 「私達の小さな姫が立派な女王となられる日のことを、私達はよく語り合ったものです。これから姫が作られる国は、きっと私達が夢見ていた理想の国そのものなのでしょうね」 サミュエルの瞳がそこで不安そうに歪む。まだ頼りのない王女を、一人残して行かねばならぬ心痛が彼にそんな表情をさせるのだろう。しっかりしなくちゃと、ナナは改めてしゃんと背筋を伸ばした。 「ゆめゆめ誤解されぬよう。兵士達はあなたのせいで死んだのではなく、あなたのために命を捧げたのです。……お分かりですか? 私達はそうしても後悔せぬほど姫を愛していたのですよ」 差し込む朝日が少しずつ強さを増していく。それに反比例するかのように、サミュエルの姿が徐々に薄らぎ始めた。 「私達は何時か、あなたの作られる新しいムーンブルクに蘇るでしょう。その日までほんの少しの間、お暇を頂きます」 ナナはサミュエルの指先を握り締めた。 「あなた達が戻ってきてくれるような立派な国を作ってみせる。あたし、約束するから……待っててね」 頷いたサミュエルが、斜めに差し込んだ光の帯に溶けた。 ムーンブルク港を出港した船は真っ直ぐに西へ進み、その後ルプガナ半島の海岸線を一旦北上した後南下する。 目指すは旧きコロシアムの聳える地、デルコンダルである。本来ならば東海を渡るのがデルコンダルへの一般的な海路だが、ここ最近ローレシア海域に出没する渦潮によって幾隻もの船が沈められているという不穏な噂がある。要らぬ危険を冒すこともないと、彼らはやや遠回りではあるものの安全な西回りを選択したのだ。 「お帰り」 ナイフの特訓を終えたナナが船室に戻ると、コナンは何時ものように円卓で本を読んでいた。堆く積まれた魔術書の合間に、古代語を書き散らした紙が何枚も散らばっている。新しい魔術の詠唱を組み立てているらしい。 「アレンはもう少し稽古してくるって」 「そうか」 「最近少し元気になってきたみたい。魔法陣が効いたのかもね」 「アレンは僕達の攻撃の要だ。一秒でも早く立ち直ってくれないと困る」 ナナは奥歯で笑いを噛み殺した。アレンやナナと比べて酷く大人びたコナンだが、時折ふと年相応の表情を覗かせることがある。手出し無用といいながら、遠回しにアレンを気遣っているのかもしれない。 「……何の詠唱を作ってるの?」 「爆裂系。出来れば最高位のイオナズンを復活させたいと思ってね」 それはロト時代に流布していた爆裂の呪文だ。六種の精霊の力を借りたイオ系の術は、術者の魔力次第では山をも吹き飛ばしたと言われている。 「魔力変換まではどうにかなるんだが、精霊の配分のバランスが上手くいかない。僕はあまり風の精霊と相性が良くないというのもあるんだろうけど」 魔力の質や詠唱の構成に加え、精霊との関係も術に大きな影響を及ぼす。法則に基づいて詠唱を組み立てるだけでは完成しないのが魔術なのだ。 「……精霊の愛し子の君なら、イオナズンを使えるかもしれないな」 コナンは散在した紙切れの一枚を拾い上げた。やや長い文字列の上にぴっと斜めに線を走らせる。 「僕と君の魔力要素は似たところがあるから、こことこの部分はそのまま使えると思う。魔力の方向指示と精霊召還の部分は君が組み立ててくれ……ただし」 そこですっとコナンの声音が硬くなる。 「火への嫌悪を克服しなければ精霊は君に応えない。六種の精霊を完璧に配下に治めなければイオナズンの行使は無理だよ」 コナンの指摘に、ナナは心臓が大きく波打つのを感じた。 「何故ギラが使えないのか、君にももう察しはついているんだろう?」 「……」 あの日父を包み込んだ炎熱は今もナナの心を焼き続けている。彼女は無意識に炎を嫌い、火の精霊を遠ざけている。詠唱が完璧でも、魔力が申し分なくても、精霊との信頼関係がなければイオナズンは使えない。 「あたし、やるわ」 ナナは決然と頷いた。どうすればいいのか、どのように克服するかはいまだ霧の中だが、現実を認めることで一歩前に進めるような気がした。 「イオナズン、必ず成功させるから見てて」 「分かった」 コナンは書物の影から小さな石版を取り出した。複雑な魔法陣を描いた御影石の上で青い指輪が輝いている。 「それとこれを。やっと完成したんだ」 「これ……」 ナナは指輪に触れて目を見張った。大分弱くなってはいるものの、それは復活の玉が放っていた魔力と同種のものだ。 「復活の玉のかけらから魔術具を作ってみた。かけらは幾つかあったが、結局魔術具として成功したのはこれだけだ」 コナンの瞳に、指輪の放つ光が星屑のように踊った。 「たくさんの祈りが込められた石だから祈りの指輪と名づけてみた。僕が作ったのに相応しい、美しい名前だと思うがどうだろう?」 「うん、とっても素敵。すごくきれいな指輪だわ」 「これは君の守りになる。お守りは気持ちの安定剤だよ」 「……ありがとう……」 ナナは右手に指輪を取り、左手にナイフを握り締めた。一人じゃないでしょうと笑った母の声が聞こえたような気がした。 |