生命の樹と血の呪縛<1>


「……美しくない」
 不満そうな声を捕らえて、ナナはぴたりと足を止めた。きょろきょろと周囲の風景を見回した後、後方のコナンを振り返って首を傾げる。
「そうかしら? すごくきれいな町だと思うけどな」
 いっぱいに広がる夕焼け空に抵抗するように、あちこちの建物に灯りが瞬き始める。仄かなオレンジ色の炎は凝ったガラス細工の窓や水路に反射し、宝石箱の如き煌きを放ち始めた。
 デルコンダルに向かう途中、末裔達が食料や水の調達のために訪れたのは、ローレシアから遥か南西に位置するベラヌールという都である。
 ベラヌールは水の都の二つ名が示す通り、巨大な湖の中に作られた都だった。広い街の隅々にまで水路が走り、人々は道を歩く以外、小船に乗って街中を移動することが出来る。行き交う船はどれも趣向を凝らしたデザインで、派手な彫刻を施したり季節の花を飾ったりして船主の個性を演出している。水の都の人々にとって、船は便利な乗り物であると同時に、生活を演出する手段となっているようだ。
「そうでなくて、さっきから頭痛が酷いんだ」
 三人は緩やかなアーチを描いた橋に差しかかった。すぐ下の水路を過ぎていく船から、初々しく頬を染めた娘達が手を振る。それには愛想良く応えて彼女達を喜ばせた後、コナンは再び苦々しい表情に戻った。
「麗しき水の乙女達を前に頭痛とはついていないな」
「風邪でも引いたんじゃねーの」
「僕の自己管理は常に完璧だ。風邪など引くはずがない」
 愛想もクソもないコナンの仏頂面を花の香が撫ぜていく。
 長い航海を経て陸地に上がってみれば、季節は既に春の終わりを迎えていた。吹く風は甘く柔らかく、降り注ぐ日差しは肌を焼くほど強く、生い茂る草花は生き生きと青い。失われた季節感を取り戻そうと夕暮れの風を吸い込むと、濃い水の匂いが鼻腔を刺激した。
 まどろむような晩春の夕暮れを散策する三人は、やがてふらりと一軒の武器屋に辿り着いた。
 店じまいが近いのだろう、猫を膝に抱いた店主が眠たそうな目を三人に向けてくる。さして広くもない店内をあっという間に一周したアレンは、コナンが難しい顔をして壁を睨みつけているのに気付いた。
「おっかねぇ顔して、何見てんだよ?」
 尋ねながら辿ったコナンの目線は、一枚の盾に注がれていた。
 円形の盾の中央に拳大の精霊石が象嵌され、それを取り囲むように丁寧な彫刻が施されている。一見飛翔する鳥を髣髴とさせるその文様は、良く見れば計算された精緻な魔方陣なのだ。
「これは素晴らしい魔術具だな」
 滑らかな表面に指を滑らせつつコナンが唸る。アレンには理解の及ばぬ領域だが、魔術を繰る人間には何かしら感じものがあるようだ。歩み寄ってきたナナも感心したように頷いている。
「アレン。今日はこの高価な盾を君に買ってやろう。今日というこの日と僕の美しい好意を死ぬまで感謝したまえ」
 恩着せがましいコナンの言葉にアレンは思わず舌を出した。
「いらねぇよ。俺、盾って好きじゃねぇもん」
「……そういえばアレンが盾を使っているのって見たことないわね」
 ローレシアの王子としてあらゆる武防具の扱い方を叩き込まれているアレンだが、生身の人間である以上得手不得手がある。武器であるならば弓が苦手だし、防具であるなら盾が得意でない。
「これはただの盾ではない。魔術具の一種で、使用者にベホイミの魔術と同じ恩恵を齎す。魔力変換能力がない君が扱っても、忽ち傷を治してくれる実に便利な代物だ」
「だからいらねーって」
「これがあれば君の苦痛の時間を短縮することが出来る」
「しつけぇなあ、嫌だっつったら嫌……」
「とにかくっ」
 コナンの双眸が、ぎんっ、と得体の知れぬ輝きを帯びた。
「是非っ、君にっ、この盾をっ、持って欲しいんだっ!」
 訴えるコナンは誠実そのもので、一切の反論を封じる迫力に満ちていた。平生コナンの氷の如き視線を浴びせられ続けているアレンにとって、熱意溢れる真摯な眼差しはある意味恐怖だ。緊張に粘ついた汗が吹き出してくる。
 アレンはごくりと喉を鳴らし、それから不承不承頷いた。
「しょ、しょうがねぇな。そんなに言うなら持ってやっても……」
「決まりだ」
 一瞬でつるりと何時もの表情に戻って、コナンはすたすたとカウンターに歩き出す。ほっと胸を撫で下ろすアレンを尻目に、ナナがその後を小走りで追った。
「二万、一千、五百と……」
 コナンが財布から取り出すのは、普段扱わぬような凄まじい大金である。良く言えば倹約家、悪く言えばドケチのコナンがこのような大枚……しかもアレンのために……を惜しげもなく叩くとは槍でも降るに違いない。
「ねぇコナン」
「ん?」
「コナンがアレンにこの盾を持って欲しいのって、やっぱり……」
「当然、僕達の手間が省けるからだ」
 揉み手が止まらぬ店主に紙幣を渡しつつ、コナンは面白くもなさそうに頷いた。
「無鉄砲で向こう見ず、後先考えずに突っ込んでいくアレン傷を一々治癒していては、僕達の魔力がやたら消費されて美しくない。この盾があれば多少の傷は自分で治すだろう」
「まあ、それは、そうね。あれば便利だとは思うけど」
「そう考えれば、これだけの出費も惜しくないというものだ」
 店主は紙幣を大切そうに手提げ金庫に仕舞うと、仕切り戸を開けていそいそとカウンターから出て行く。
 嬉々として壁から盾を外す店主と、むっとした表情でそれを受け取るアレンを眺めつつ、ナナはひょいと両の眉を持ち上げる。
「コナンの思うように行くかな。アレンのことだからあっと言う間に壊しちゃうかもよ」
「……そのような事態にならないことを祈る。それは僕にとってもアレンにとっても大変不幸なことだ」
 仮定の話で早くも殺気立つコナンを見て、ナナはやれやれと溜息をついた。


 コナンがベッドから起き上がれなくなるという異変が起こったのは、その翌日のことである。
 ある時は照りつける太陽の下を、ある時は横殴りに吹きつける雪礫の中を、魔物との激しい戦闘を交えながら旅してきたにもかかわらず、三人はこれまで寝込むほどの大病をしたことはなかった。
 ロトの末裔はすこぶる健康だった……連綿と受け継いできた勇者の血の力なのか、精霊神の加護のお陰なのか、はたまた単に丈夫なだけだったのか理由は定かでないが、少々熱を出すことはあっても、翌朝にはけろりとしていたものだった。
 だからこんな状況になると、アレンとナナはどう対処していいか分からない。ベッドの脇に立って、困惑顔を付き合わせるだけだ。
 コナンは高熱と酷い頭痛に悩まされているようだった。熱は一向に下がる気配を見せず、汗を拭いたタオルは絞れる程ぐっしょりと濡れる。額に乗せた氷嚢は瞬時に温くなり、ほとんど役目を果たさない。
「何か悪いもんでも食ったのか?」
 病人の顔を覗きこみながら、アレンは太い眉を顰めた。
「えーと、昨日の夜食べたものは……ベラヌール名物ガチョウの丸焼きとキノコのスープと白身魚の煮つけと温野菜の盛り合わせとじゃがいものグラタンと鶏肉のトマト煮込みとくるみぱんだっけ」
「あとエビフライと焼きりんごも食った」
「……同じもの食べてるのにどうしてコナンだけ病気になるのかしら?」
 それらのほとんどはアレンとナナの鋼鉄の胃袋へ治まるため、厳密に言えば彼らは全く同じものを食べているわけではない。実際コナンは昨晩も、二人の食欲にげんなりしながら少量の魚料理と赤ワインを胃に収めただけだ。
「あ、そうそう。ねえ、アレン。そう言えば昨日、あたしのお皿からエビフライ取らなかった? 尻尾の数が足りなかったような気がするんだけど」
「知らね」
 ぷいと横を向いたアレンに、ナナは疑いの半眼を向けた。
「ホントにぃ? ちょっと目を離すとアレンは人のお皿から何でも持ってちゃうから油断出来ないのよね。子供の時飼ってたおサルのウッキーと同じだわ」
「サルと一緒にすんなっ。俺がサルならお前は犬じゃねーか!」
「ななな何ですってぇ? もう一度言って見なさいよっ」
「犬」
「ホントに言ったわね!」
「お前が言えっつったんじゃん!」
「う……」
 アレンとナナの間に赤い火花が散ったその時、コナンが苦悶の呻き声を上げた。
「君達の声が頭に響いて割れそうだ……」
「あ、ごめん」
 コナンらしくもない消え入りそうな声で訴えられ、アレンはばつが悪い思いで頭を掻き、ナナは申し訳なさそうに項垂れた。苦しむ病人の枕元で喧嘩するなんて非常識極まりない。
 微かに震えながら亜麻色の睫毛が瞬く。アレンとコナンの顔をゆっくりと見比べてから、コナンは苦しそうに大きな息を一つついた。
「君達がちょっとしたことですぐにカッとなる単純な思考の持ち主であることは知っているが、今は勘弁して欲しい」
「うん、ごめんね。静かにするわ」
「お互いを罵る顔がまるでマンドリルのように醜くて、あまりに美しくない光景に熱が五分程上がってしまったじゃないか……」
 一発殴っちゃおうかなとか、窓から突き落としちゃおうかなとか、物騒な考えは二人の頭を過ぎっただけで取り敢えず実行には移されなかった。