生命の樹と血の呪縛<2>


 ただの風邪にしては奇妙な症状だった。
 ホイミもベホイミも、あらゆる苦痛を取り除くと言われる最上級魔術ベホマでさえコナンを回復させることが出来ない。奇跡の力は肉体に入り込むことすら叶わず、肌の上を水滴の如く滑り落ちてしまうのだ。ものは試しと施した薬草や毒消し草もやはり効果なく、万策尽きたアレンとナナは町の医師に助けを請うことにした。
 ベラヌールの医師は神父の資格もあるという初老の男だった。医師は丁寧にコナンを診察した後、手早く薬草を混ぜて鎮痛剤らしきものを調合する。甘い匂いのするケシのシロップは、コナンの頭痛を幾らか和らげたようだった。
「……あれはただの病ではない」
 診察を終えた医師は、部屋の隅で手を洗いながらアレンとコナンに小声で囁いた。
「肉体に入り込んだ何らかの力が、彼の命を食い荒らそうとしている。私の魔術技術では払い切れぬ強力な力だ」
 医師の言葉にアレンは眉を顰め、ナナは唇を噛んだ。
「何らか力って何だ?」
「……きっとハーゴンか三柱神の嫌がらせよ。こんな陰険で汚いことするのって、あいつら以外に考えられないじゃない」
 ナナは確信めいた表情で頷いた。
「特にベリアルは性格激悪だから、コナンの藁人形作って釘を打つくらいやりそうだもん。あーもう、あたし、あの女大っ嫌い!」
「けど何でコナンだけなんだ? 俺やお前はぴんぴんしてんのに」
「そんなことあたしが知るわけないでしょ」
 ナナが大威張りで頤を持ち上げる。それもそうだなと素直に頷いて、アレンは改めてコナンの病状を神父に尋ねた。
「んで、コナンはこれからどうなっちまうんだ?」
「このままでは体中の水分を吐き出し、干物のように干乾びて死んでしまうだろう。死に至るまでの苦痛は想像を絶するかと」
「うえ、乾き死にかよっ」
「ちょっと、声が大きいわよ、アレンってばホントにデリカシーがないんだから!」
 ナナが腰に拳を当て、憤然とアレンを睨み上げた。
「コナンに聞こえたらどうするの? 乾き死になんてまるで……まるでゴキブリみたいじゃないの!」
「お前の方がよっぽど声でけぇよ」
「嫌だ……そんな美しくない死に方は嫌だ……」
 はらはらと流れ落ちる涙の分だけ、乾き死にへの距離が縮まるコナンである。そんなコナンを視界の端に捕らえつつ、アレンは素朴な問いをナナにぶつけた。
「お前はどうにか出来ねぇの?」
「人の命を内側から食い荒らす魔術なんて聞いたことないわ。多分呪詛の類だと思うけどそっちはコナンの分野よ。司祭の資格があるコナンでさえ弾けない力なんだから、あたしじゃ無理」
 ナナは軽く肩を竦め、医者に向き直って首を傾げた。
「お医者様、その力を排除する方法にお心当たりはありませんか?」
 医師はこほんと咳払いをし、二つの方法を提示した。
 一つは術者の息の根を止めること。力の源が死ねば災いも消失する。臭いものは元から断ての言葉通り、実に単純で明快な答えだ。
 ただしこの方法には問題がある。術者の正体がはっきりしないことと、よしんばそれがハーゴンだとしても彼の居場所が分からないことだ。今から紋章を集め、ルビスに会い、敵に本拠地に乗り込んでハーゴンを討ったとしてもそれまでコナンの体が持つまい。
 だとすると、もう一つの手段に賭けてみるしかない。
「世界樹をご存知か?」
「セカイジュ? それって……」
「美味しくないから」
 冷たくアレンを制すると、ナナはこくりと頷いた。
「生命の樹ですね? 空と大地から命の恵を吸い上げて、お城みたいに大きくなる神木だと聞いたことがあります」
「世界樹から滴る雫はどんな傷をも癒し、青々と茂る葉は死者の魂をも呼び戻すと言われている。世界樹の恩恵を与えることによって彼の命を強めれば、力を弾くことも可能だろう」
「世界樹の葉さえあればコナンは助かるんですね」
「恐らく」
「んじゃ、早速その葉っぱ取りに行こうぜ」
 善は急げと拳を固めたアレンが、ふとそのままの体勢で固まった。
「んでその世界樹ってのは何処にあるんだ?」
「確かな情報ではないが、ここから西に行ったところにある小さな島に、山のように巨大な樹が生えていると聞いたことがある。そのように大きな樹のことを、私は世界樹の他に聞いたことはない」
「……分かりました。あたし達、そこへ向かってみます」
 アレンとナナは顔を見合わせて頷く。不確かな情報ではあるが、他に当てがあるわけでもない。
「お医者様はその世界樹の島にどんな魔物が出るかご存知? コナンが抜けて戦力的に厳しいから、万端の準備を整えて行きたいの」
「スライム系の魔物をよく見ると……船乗りがそんな話をしていたような」
「スライム?」
 ナナは露骨に顔を顰めた。スライムやおおなめくじのようにぬとぬとねとねとした魔物を彼女は病的に嫌っている。小さい頃に嫌な思い出があるらしいが、彼女は決してそれについて語ろうとしないので、アレンもコナンも詳しいことは知らない。
「……でも、仕方ないわよね。うん、仕方ないのよ」
 ぶつぶつと自分に言い聞かせるナナを引き連れて、アレンはコナンのベッドに歩み寄った。右手を腰に当てて病人の顔を覗き込む。
「俺らこれから、世界樹の葉っぱを取りに行ってくるからな」
「あたし達が帰ってくるまで頑張ってよ」
「僕のために済まない……」
 病で気持ちが弱っているのか、何時になく素直な言葉がコナンから零れた。
「君達を二人きりで行かせるなんて、所構わず喧嘩を始めないだろうかとか、猛獣のように暴れないだろうかとか、美しくない振る舞いをしないだろうかとか、僕のデリケートな胃が早くもきりきりと痛み始めているが、君達を信じて待つことにするよ」
「……信じてくれて嬉しいわ。でも何だか微妙にムカつくのは気の所為?」
「気の所為だとも」
 コナンは脂汗の滲む顔に爽やかな微笑みを浮かべた。


 西に向かって全速力で船を走らせること五日目の夜明け、青白い水平線の向こうに黒々とした影が浮かび上がった。
「あれが世界樹か?」
 海に転げ落ちんばかりに舳先から身を乗り出すアレンに、双眼鏡を手にしたナナがこくんと頷いた。
「うん、きっとそう。それにしてもホントに大きな樹、大灯台より大きいかもね」
 島周辺の海域にはさんご礁が広がり、このまま船を進めれば座礁する危険性がある。二人は船乗り達に頼んで船を沖に停泊させると、積んであった手漕ぎの小船に乗り換えて島を目指した。
 ずんぐりとした山陰のような樹は、近付くにつれ次第にその様相を顕わにした。
 その幹はこれまでに見たどんな樹よりも太く、その枝はこれまでに見たどんな枝よりも長かった。天を覆うばかりに広がった枝は巨大の天蓋を成し、美しい薄緑色の葉を数多茂らせている。まるで島全体が緑色のドームにすっぽりと覆われているかのようだ。
 神秘の力を蓄える葉は大人の掌程の大きさで、葉脈に流れる金色の樹液が透けて見えた。風が吹く都度葉の先端から金色の雫が滴り落ち、光の筋を描いて降り注ぐ様は、時を忘れて見入ってしまう程に美しい。
「すっごーい、綺麗ねぇ!」
 船を降りるや否や、ナナがうっとりと両手を組み合わせた。
「コナンが見たらきっと訳分かんねぇポエム連発だぞ」
 目庇を翳したアレンもまた感嘆の声を上げる。
 二人は砂浜を乗り越えて、島のほぼ中央に聳える世界樹の元にやってきた。ごつごつ突き出した巌のような根は、半ば光る清水に浸っている。
「精霊神ルビス様は世界樹から生まれたんですって。樹から生まれるなんて変なのって思ってたけど、実際に世界樹を見たら納得しちゃうわ」
 水場に踏み入ると、魚達が銀色の鱗を光らせながら逃げ出した。あめんぼうが幾重もの波紋を描きながら行き交う水面の下では、透明な膜に包まれた蛙の卵がおたまじゃくしになる日を夢見ながらたゆたっている。生命の樹の根元には数多の命が息づいていた。
「えーっと、どの葉っぱでもいいってわけじゃねぇんだっけ」
「新鮮であればある程命の力が強いって神父さんが言ってたわよね」
「んで、上の方に新しい葉っぱがあるんだよな?」
「そゆこと。だから登れるとこまで登らなくちゃ」
 世界樹の太い幹には、恐らく宿木に近い種なのだろう樹が何本も撒きついている。これらの寄生樹にも命の恩恵があるらしく、生い茂る葉は瑞々しい緑色に輝いていた。
「こいつを辿ってけば高いとこまで行けそうだな」
 アレンは適当な宿木に飛び乗り、腰を落として重心を低くすると慎重に幹を伝い始める。ナナも杖を左手に持ち直し、バランスを崩さぬように細心の注意を払いながらそれに続いた。


 世界樹に巻きつく木は頂上まで綺麗な螺旋を描いているわけではない。途中で切れたり全くあさっての方向に伸びたりしていて、一本の木をバカ正直に伝っていけばいいような単純な木登りではないようだ。考えなしに進んでいくとドン詰まりに追い込まれ、二人は何度も引き返す羽目になった。
「ちょっとした洞窟なんかよりずっと面倒臭いわね」
「さっきは右に行ってダメだったから、次は左に行ってみっか」
「それじゃまた行き詰っちゃうから、あの枝に飛び移った方が良さそう。そうすればあそこの梢までは登れそうだし」
 ああでもない、こうでもないと議論しながら、二人は少しずつ、けれど確実に世界樹の頂点へと近付いていく。
「こういうの考えるのは、コナンが得意なのよね」
「お前は向いてねーよな、大雑把だもん」
「アレンに言われたくないんだけど!」
 ナナは憤然と眦を吊り上げた。
「あたしは大雑把なんかじゃないもん。そりゃ、細かいことはコナンの方が得意だから何時も任せちゃうけど……」
 地表から吹き上げる突風にナナの髪が踊る。ふわふわ靡く髪をうるさそう押さえたナナが、不意にぴたりと歩みを止めた。
「……コナン、治るかな」
「うん?」
「このまま死んじゃうなんてことないよね?」
「……いきなり何だよ?」
 振り返ったアレンは、しょんぼりした様子のナナに首を傾げた。アレンやコナンの前でナナがこんな表情を見せるのは珍しい。
「あたし達、一緒に旅をするようになってもうすぐ一年ね」
 アレンがローレシアを飛び出したのは緑薫る初夏の頃だ。あれから季節が一巡りして、早一年を迎えようとしている。
「色んなことあったけどどうにか三人でやってきた……ううん、三人いないと、どうしようもならないことばっかりだった」
「……」
「最近思うの。あたし達、ロトや曾お祖父さまが背負ったものを三人で背負ってるんだろうって。だから三人いないときっと潰れちゃうわ」
「んなこと……」
 以前のアレンなら一笑に伏したところだ。どんなに試練も一人で背負ってやると嘯いたかもしれない。
 だがこれまでの日々を振り返ってみれば、確かにナナの言う通り、アレン一人ではどうにもならなかっただろうことばかりだった。コナンとナナがいなければ、今日という日を生きて迎えられたかどうか分からない。
 死と隣り合わせの旅をしている以上、誰かが欠ける可能性は何時だってあるのだ。明日にはコナンが死ぬかもしれないし、ナナがやられるかもしれないし、アレンが消えるかもしれない。三人で一緒にいるのが当たり前となった今、誰かがいなくなった風景というのをアレンは上手く想像できなかった。
 アレンは思わず眉頭を寄せた。そんなアレンの複雑な表情見たナナは、慌てた風にひらひらと手を振る。
「ごめん、ヘンなこと言ったわ。夕べあんまり眠れなくて、色々考えてたらちょっと不安になっちゃったの。忘れて」
 アレンはくるりとナナに背を向け、再び慎重に木の幹を伝い始めた。
「コナンは死なねぇよ。だって俺、あいつがくたばるとこなんて想像出来ねぇもん」
 急激な段差に差しかかると、アレンは突き出した木のでっぱりに足を引っ掛け、頭上の枝を握って体を持ち上げた。たわわに果実をつけた世界樹の枝が、アレンの重みで柔らかくしなる。
 両足を踏ん張ってしっかり足場を固めてから、ナナに向かって右手を差し出した。
「さっさと葉っぱ取って戻るぞ。遅かったとか何とか、ぶつぶつ言われんの嫌だからな」
「……うん」
 ナナはにっこり頷いてアレンの手を取った。
「そうね、早く帰らなくちゃ」