生命の樹と血の呪縛<3>


 ふと気がついた時、コナンは全く見覚えのない場所にいた。
「ここは……」
 きょろきょろと辺りを見回す。そこは何処かの聖堂のようだ。
 青ざめた花々を閉じ込めた柱も雪景色を透かす壁も、そこにある全ては氷解を知らぬ水の結晶。無数に揺らめく蝋燭の炎は青白く、冴え冴えとした光を放ちながら音もなく燃える。コナンは周囲の様子を慎重に探りつつ、真っ直ぐに伸びた黒い敷物の上を歩き出した。
 しばらく進むと巨大なステンドグラスが浮かび上がってくる。ガラスそのものが光を孕み、陽光の差し込まぬこの場所でも鮮やかに輝いているのだ。
 ステンドグラスには見たことのない奇妙な生き物が描かれていた。空を掻き消すように大きく、巨大な蛇の尾と鋭い鉤爪を持ち、赤い口蓋から炎を撒き散らす、おどろおどろしくも力ある魔物であるようだ。
「この醜い生き物は何だ?」
「破壊神シドーの御姿だ」
 何気ない独り言に低い声が答えた。
 振り返りながら反射的に腰に手を伸ばし、そこに武器がないことを知った。剣だけではない。楔帷子もなく、盾もなく、防具はおろか靴も履いていない。部屋着のままでここまで歩いてきたことに、コナンはようやく気が付いたのである。
 コナンは舌打ちしながら右手を広げた。ベギラマを唱えながら振り返った途端、精霊語を躍らせていた舌の動きが止まる。ややあって詠唱の代わりに掠れた呻き声が漏れた。
「……叔父上」
 ハーゴンは微かに口の端を吊り上げた。
 ここは一体何処なのか、何故ハーゴンが目の前にいるのか、何時の間にこんなところへ来たのか、濁流のように押し寄せた疑問は一つの記憶が蘇ると同時に全て解決した。コナンは強張らせていた体の力を抜き、軽く拳を固めてハーゴンを睨んだ。
「……どうした。術を唱えなくて良いのか」
「ここでは魔術は使えないでしょう。精霊が存在しない世界なのですから」
 コナンの落ち着き払った声は、凍りついた空間に良く響いた。
「ほう、感心だ。真面目に勉強していると見える」
「お褒めに預かり光栄です」
 謙虚な口調とは裏腹に、コナンは両足を軽く広げてふてぶてしく腕を組んだ。状況を把握して何時もの調子が戻ってきたのだ。
「対象者の夢に入り込み、精神を蝕んで衰弱死させる術ですね。ここは僕の夢の中、叔父上は断りもなく入り込んでいらした……かつてラダトーム国王陛下にそうしたように」
 ハーゴンは淡く微笑んだまま何も答えない。コナンは構わず続けた。
「僕の夢をこのように醜く飾り立てるのはお止めください。特にあの邪神のステンドグラスは最悪だ。あんなものを見せられたら精神も蝕まれるわけです」
「我らが神の美しさを理解出来ぬとは哀れなことだ」
「僕の貧しい感性を哀れんでくださる叔父上のお気持ち、痛み入ります」
 精いっぱい皮肉っぽく言い返しても、ハーゴンの表情は仮面のように動かない。挑発して相手の感情を昂ぶらせ、攻撃範囲に誘き出すコナンのやり口は通用しないようだ。
 コナンは軽く肩を竦め、直球勝負に出た。
「それで叔父上、今宵はどのようなご用件でいらっしゃったのですか?」
「お前を迎えに来た」
「……何?」
「お前は私と共にあるべき存在なのだ。十年前は邪魔が入ったが、今日こそは一緒に来てもらおう」
 コナンは大きく息を吐き出して、乱れかけた感情を沈めた。冷たく汗ばんだ掌を無意識に腿に擦りつける。
「お断りします」
「何故だ?」
「何故? 以前にも申し上げたはずです。叔父上の行い全てが僕の美学に反している。あなたは忌まわしい神の僕と成り果て、ナナの国を滅ぼし……」
「そして私はお前の母を殺した」
 コナンはぐっと顎を引いて、尖った声を飲み込んだ。
「あれは不幸な事故だったのだよ、コナン。私の放った術は兄を貫くはずだったのだ。それを護衛が下手に干渉したものだから軌道が狂い、お前を庇おうとしたエメリナが……」
 淡々と抑揚のないハーゴンの声音に初めて感情らしい感情が滲んだ。甘く切なく、湧き出るような愛しさを込めたその響きは、コナンを酷く苛つかせた。
「故意であろうと事故であろうと、母を殺したのはあなただ」
「だがその瞬間、エメリナは全ての苦しみから解放されたのだ……死は彼女にどれ程の幸福を齎したか! 生ある限り彼女が苦しみ続けただろうことは、今のお前になら理解出来るだろう?」
「……勝手なことを」
 処理し切れない感情に血の流れが滞る。
「お前が私と共にあることを、エメリナもきっと望んでいる」
 ハーゴンは赤い瞳を細めて微笑んだ。獲物を定めた蛇に似た、ぞっとするような喜悦がその面を覆う。
「……」
 不意にコナンは凄まじい恐怖を感じて後じさる。ハーゴンの唇から、彼の全てを決定づける言葉が放たれようとしていることを肌で感じ取ったのだ。
「何故ならお前は……」
「言うな!」
 コナンは絶叫に近い怒号でそれを遮った。その言葉を最後まで聞いてしまったらまともに立っていられるかどうか分からない。青い瞳を流星の如くぎらぎらと輝かせ、紛れもない殺気を放ってコナンはハーゴンを睨みつけた。
「言うな。それ以上言ったら僕はここでお前を殺す」


「やっと、着いた、のね」
「これ以上は無理かあ」
 アレンは細い枝をぐいぐいと踏みしめ、その頼りない反動に首を振った。
「けどこの辺りの葉っぱ、下にあったのとは全然違うぞ。使えるんじゃね?」
 アレンの言葉通り、世界樹のほぼ天辺に近い枝に茂る葉は、下方のそれらとはまるで色艶が違った。生まれたての若葉は良質の翡翠の如く艶やかな光沢を放ち、薄く浮き出た葉脈から金色の光を滲ませているのだ。
「じゃあ、あたし、バギで、出来るだけ、上のを、落とす、ね」
「ちょっと木登りしただけなのに、何でそんなにぜぇぜぇ言ってんだよ」
「た、体力バカの、アレンと一緒に、しないで、欲しいわ!」
 ナナは眉を吊り上げたが、体力の限界を感じてかそれ以上アレンに噛みつくことはしない。
 弾む呼吸を整えると、ナナは額の汗を拭いながら顔を上に向けた。木漏れ日溢れる梢に視線を彷徨わせることしばし、ぴたりとその動きが止まる。狙いを定めた箇所に向かって杖の先端を向けると、ナナは口中で詠唱を始めた。
 力を解き放とうとしたその瞬間、ひらりと舞い落ちた葉がナナの鼻先を掠めた。
「あ……」
 ナナは詠唱を中断させて葉を拾い上げる。一際大きな葉は舞踏会の扇程もあり、優しい命の力を湛えている。
「凄く綺麗ね。これならきっとコナンを助けてくれる」
「勝手に落ちてきたのか?」
「多分、世界樹があたし達を助けようとしてくれてるのよ」
 アレンはナナの手にある葉に視線を落とす。神秘の葉が放つ生命の波動が優しく頬を撫ぜた気がした。
「早く帰ってコナンに飲ませてあげないと」
 世界樹の葉をハンカチに包み、鞄の中へ大事に仕舞い込んだナナが、ふと思いついたように顔を上げた。
「ねぇ、世界樹の果実も一つ持っていかない? もし葉が効き目なかったら、果実を試してみればいいと思うの」
 世界樹には星の数ほどの果実が実り、重みに負けた枝が緩いカーブを描いていた。果実の大きさは様々で、拳大のものもあれば一抱え出来そうなものもある。何れもが太陽の光をいっぱいに浴びて、つやつやと輝いているのだ。
「実のことなんて、医者のおっさん何にも言ってなかったよな」
「知らなかったんじゃないの? 実際に世界樹を見たことはないって言ってたし」
 ナナはきょろきょろと辺りを見回しながら、適当に見当をつけた果実に歩み寄った。
「あんまり大きいと持っていくのが大変だからこのくらいがいいかな。つやつやしてて美味しそ……」
 手を伸ばして触れようとした正にその時、果実がぐにゃりと動いた。
「ひっ」
 反射的に首を竦めたナナの頭上を青い果実が飛び越えていく。果実はナナの後ろに立っていたアレンの顔面を直撃した後、枝に着地してぷよんと揺れた。
「な……」
「ス……スライム……?」
 アレンとナナの驚愕を楽しむかのように、ぴょんぴょんと一定のリズムで弾むのは紛れもなくスライムだ。
「こ、の、ふざけやがって!」
 鼻血を滴らせながら抜刀したアレンの背後で、ざわりと空気が蠢いた。項がちりちりとする感覚を覚えながら、恐る恐る振り返った瞬間に目にした光景を、恐らくアレンは一生忘れないだろう。
 世界樹の果実には目があり口があった。人を馬鹿にしたような独特の微笑み……のようなものを浮かべて二人を取り囲むのは、数え切れないほどのスライムの大群である。
 アレンは剣を構え、ナナは杖を掲げ、出来るだけスライム達を刺激しないように防御の構えを取った。
 この場所での戦闘は断然に不利だ。足場が悪くてアレンは剣を思うように振るえないし、ナナのバギで払い切れるような数じゃない。
「なぁ、この実っつーかスライム、下の方の枝にもたくさんいたよな?」
「もー、もー、気持ち悪いったら! 何でこんなにいるのよぉ?」
 ナナは顔を歪めながら、世界樹の入った鞄をしっかりと抱えなおした。
「でもこんなところで死ねない。絶対に帰らなくちゃ。コナンはきっと、あたし達のこと心配してるんだから」
 ナナが唇を噛み締めて言うのに、アレンはこくんと頷く。
「お前みたいな凶暴な女は結婚相手を探すのも一苦労だから、手遅れにならないうちに適当な貴族を丸め込んでやらなきゃって心配してたぞ」
「アレンみたいな野生児を一人にするとうっかり森に帰っちゃうかもしれないから、気をつけて見ていなくちゃって心配してたわ」
「……」
「……」
 二人はスライムの気配を伺いながら、じりじりと後退した。
「絶対帰って一発殴るぞ」
「うん」
 ひゅう、と一陣の風が枝の間を渡った。するとそれを合図としたかのようにスライム達が震え、二人に向かって一斉に落下を開始する。
「きゃあああ! きたあああ!」
「スライム相手にくたばって堪るかよ……ナナ!」
「え? ええ? きゃあ!」
 アレンは背負っていた力の盾を裏返しに放った。がらんと、重たい音を立てて宿木に落ちた盾に飛び乗り、しっかりと足を踏ん張ってナナの手を引く。彼女を小脇に抱えると、ぐいと膝を折って体重を前に移動させた。
 耳障りな摩擦音が上がり、白い火花が迸る。力の盾は二人を乗せて幹の上を滑走し始めたのだった。