コナンは瞳を閉じ、それからゆっくりと開けた。全ての迷いが洗い流されると、闇に淀んでいた視界までもが明瞭になったようだ。 「断る」 断固とした拒絶を浴びせられ、ハーゴンの右頬がぴくりと歪んだ。 「ゾーマが人の世界で生きていくことは出来ぬぞ」 「僕はゾーマになどならない。僕は叔父上とは違う。僕には僕を繋ぎとめてくれる仲間がいる」 自らの言葉に更なる確信を得て、コナンは力強く頷いた。 「アレンとナナなら、僕がゾーマになるのを力尽くで食い止めてくれるだろう。彼らある意味ゾーマよりもシドーよりも怖い存在だ」 ハーゴンの白い面に、一瞬羨望とも嫉妬ともつかぬものが過ぎったのはコナンの気のせいだろうか。 「人の世に留まったところで長くは生きられぬぞ。そう遠くない日に、我らが破壊神は地上に降りてくる。そうすればロトの血筋などというものは殲滅だ」 ハーゴンが忌々しげに錫杖を握り締める。しゃらん、と涼しげな音を立てる杖の先端には、ぬめつく光沢を持つオブジェが輝いていた。 鰐とも蛇ともつかぬ奇妙な生き物が、有角のしゃれこうべに長い尾を巻きつけている。血塗られた頤、黄色く濁った目、鋭い鉤爪に禍々しい牙……それは背後のステンドグラスに描かれた邪神と同じ姿をしていた。 説明されるまでもなく見当がつく。禍々しいそのオブジェこそが破壊神シドーの依代、邪神の像に違いあるまい。 「異世界への扉は空に開く」 邪神の像とコナンを交互に見やりながら、ハーゴンが低い声で囁いた。脈絡のない言葉に警戒するコナンがおかしいというように、くつくつと喉を鳴らす。 「そのためには空の光を飲み込まねばならぬ。月は既に噛み砕いた。残るは太陽と星」 「月? ムーンブルクのことか?」 「より正しく言えば月の血筋。ロトの王族に脈打つ温かい命の証だ」 ハーゴンに同意するかの如く、オブジェがはらはらと月の色の光を放つ。 「ロトが空の国への通路を閉じた話はお前も知っているだろう。ギアガの大穴と呼ばれたそれは、ゾーマが切り開いた異世界への通路。ゾーマは同じ要領で残る四世界への穴を穿とうとしていた」 ロトの生まれた天つ国、神々の住まう神界、破壊神の眠る冥界、魂の遊ぶ安楽の園、魔族の生きる魔界、そして末裔達が生活するアレフガルド。一つだった世界は神々の大戦時に六つに分かれ、以来それぞれの住民がそれぞれの歴史を紡いでいると言われている。 「あと少しで冥界への道が完成し、破壊神シドーの降臨の準備が整うというところで閉じられてしまったがな。だが道は完全に消滅したわけではなく、今も目には見えぬ亀裂となって空に残っている」 「それを抉じ開けようと?」 ハーゴンは形の良い眉を持ち上げた。 「ロトの力は空の力。ロトは空に太陽、星、月を呼び戻し、その輝きによってギアガの大穴を閉じた。ならばロトの血を捧げて今一度世界を闇で覆えばよい……忌々しい空の守護が消えれば、ギガナの大穴は蘇る」 邪神降臨のためにはロト三王家の血が必要なのだ。ハーゴンがムーンブルクを襲ったのはムーンブルク王、或いはナナに流れる月の血を狙ってのことだったのだ。 「次の生贄には誰が相応しいと思う? ローレシア王、ローレシア王子、兄上、ニーナ。お前の好きな人間を選ばせてやろう」 ハーゴンが口元を覆って笑った。 「それともお前が自ら生贄になるか?」 「何もかもお断りだ。そのような醜い像にくれてやる血など一滴もない」 ハーゴンは芝居めいた風に溜息をついた。幼子を咎めるかのように小さく首を振る。 「昔は素直な良い子だったのに、何故このように捻くれてしまったのだろう」 「……環境が悪かったもので」 「それは痛み入る」 ハーゴンがついと杖を持ち上げた。コナンがはっと飛び退くより速く、足元から無数の触手のようなものが躍り出る。それは瞬く間にコナンの首や手首に絡みつくと、恐ろしい力でぎりぎりと締め上げ始めた。影のように感触がなく、闇のように実体がないくせに、圧倒的な質感で食い込んで来る。 「くっ……」 引き剥がそうにも、指先は触手を擦り抜けてしまってそれも叶わない。 「だがゾーマに認められたお前を生贄にするのは忍びない」 さらさらと衣擦れの音を響かせつつ、ハーゴンが静かに歩み寄ってくる。 「より明瞭にゾーマを感じることが出来れば、きっとお前の心も変わるだろう。お前の内なるゾーマを強めてやる……お前は私の後継者になるのだ」 「止めろ」 コナンは必死に身を捩ったが、体は他人のものになったかのように言うことを聞かない。もがくコナンの汗ばんだ額に、ハーゴンの指がぴたりと添えられた。 「汝の魂に哀れみを」 「止め……」 氷のように冷えた一点から圧倒的な力が流れ込んできた。闇はコナンの中に満ち、血に燻っている何かを呼び覚まそうとする。心が塗り込められ、意識が翳った。必死で見開く視界が黒い霧に覆われて曇っていく。 「っ……上……!」 音にならない声を絞り出したその時だった。 コナンの全身を金色の光が覆った。優しい輝きは一瞬でに彼の全てを覆い、堅牢なバリアとなってハーゴンの波動を悉く跳ね返す。光は闇を威嚇するかの如く、何度も激しく明滅を繰り返した。 「この力は……」 汗塗れのまま、コナンは呆然と呟いた。 「世界樹の葉?」 「……あの小僧と小娘かっ」 ハーゴンは憎々しげに唸って大きく顔歪めた。命の樹の聖なる力は、今のハーゴンとは対極に位置する存在だ。 「コナン」 濃厚な闇の中に少しずつ溶け込みながら、ハーゴンは掠れた声で囁いた。 「私は何時でもお前が来るのを待っている。三本の剣が空を突き刺す大地で」 悪態をつく気力も力もコナンには残されていない。視界がぐにゃりと歪んだ一瞬後、意識が暗転した。 「おい、目ぇ開けたぞ」 「あ、ホントだ。コナン、コナーン、あたしのこと分かる?」 白く霞んだ視界の中に、アレンとナナの顔が浮かび上がった。 「う……ごはっ?」 呻くと同時に、喉に異物感を覚えてコナンは跳ね起きた。ごほごほ咳き込みながら前屈みになると、三叉の大きな葉っぱがぽろりと手元に落ちてくる。くるくると丸めたそれが、そのまま口に突っ込まれていたらしい。 「凄ぇ。効くなぁ、世界樹の葉」 「取ってきて良かったね」 「き、君達には葉を磨り潰すとか、ごほっ、煎じるとかいう発想はないのか!」 涙目のコナンが噛みつくと、アレンとナナは悪びれた風もなく首を傾げた。 「下手にいじって効果がなくなったら嫌だったんだもん」 「効いたんだから良かったじゃん」 ばん、と背を叩かれ、コナンは憮然と口を噤んだ。大雑把で美しくないと髪を掻き上げたその時、夢の出来事が蘇る。 「……叔父上は?」 コナンの脈絡のない発言に、二人は目をぱちくりさせた。 「は?」 「ハーゴン? ハーゴンがどうしたの?」 「……いや、何でもない」 生々しいやりとりの記憶を封じながら、コナンは手元の世界樹の葉を取った。 人の顔ほどもあるような巨大な葉っぱで、生き生きとした緑に金色の葉脈が透けて見える。恐らくこの中を流れる液体が命の力の源なのだろう。葉に宿った力がハーゴンをコナンの中から追い払ってくれたのだ。 (何れにせよ、二人は僕の命の恩人というわけだ) コナンは上掛けを避けて寝台から降りた。あれほど彼を苦しめた高熱も頭痛もきれいさっぱり消えている。 「もう起きて大丈夫なの?」 「君達のお陰で元気になった。それに今日というこの日を寝込んで過ごすのは美しくないだろう」 「……何で?」 きょとんと瞬きしたアレンの脇を掠めるように、コナンはびっと壁を指差した。壁にかけられたカレンダーが初夏の風に揺れている。 「今日は六月十日だ。十七歳の誕生日おめでとう僕達」 ソファの上で大口を開けて眠りこけるアレンを、コナンはやれやれと見下ろした。 ワイン二口でここまで泥酔出来る彼が羨ましいと、皮肉ではなしにコナンは思った。酒に強いなんて、実際のところ量が嵩むだけで不経済だし体に悪いしいいことなど一つもない。 同じようにグラス一杯で潰れたナナは先ほどベッドに運んである。今は罪のない顔をして眠っているナナが、酔うと歌いだそうとする厄介な酒癖の持ち主であることは痛い程理解した。 「これからこの二人には牛乳でいい」 幸せそうに眠るアレンに毛布をばさりと落とすと、コナンは一人宿の外へと出た。 草木も眠る丑三つ時、ベラヌールの町は深い静寂の中にある。墨を流し込んだかのように黒い運河を右手に、コナンは無言で街道を進んだ。やがて道は大きく左に折れ、町外れにある公園へと出る。 公園に人影はない。動くものといえば、街灯に群がる羽虫くらいなものだ。 「……」 コナンはじっと掌を見つめた後、それを目の前に聳える樹に突きつけた。軽く目を瞑り神経を集中させる。 どん、と心臓が大きく波打った。 途端コナンは、これまでに感じたことのない力が掌に生じたのを感じた。魔力とは似て非なるもの、搾り出された命の力がコナンの掌で次第に膨張していく。 「ザラキ」 死の力は大樹を包み込み、その存在に溶け込んだ。命を歪められ、さらさらとした灰になって崩れていく樹を眺めながら、コナンは微かに瞳を眇める。 「……これが覚醒したゾーマの……破壊神シドーの加護か」 世界樹が強めた命の力と、ハーゴンが覚醒させたゾーマの意識は、拮抗しながらコナンの中に息づいている。より強い光と闇はこうしている間にも激突を繰り返しているのだ。 肉体の奥で低く笑う声が聞こえた。何時飲まれるとも知れぬ危険極まりない存在ではあったが、上手く利用すれば何よりも強い武器になるだろう。 コナンは今や徹底的に開き直っている。自分という存在を保てる限り、あらん限りの力で叔父の野望を阻止するのだ。そのためだったらゾーマだろうがシドーだろうが、利用出来るものは全て利用してやる。 「それにしても」 コナンは濃い闇を睨みつける。今にも浮かび上がってきそうなハーゴンの影に向かって、彼は挑発的に微笑んだ。 「これが実父からのバースデイプレゼントとは美しくないな」 |