戦士の宴と月の囁き<2>


 トーナメント初日は、抜けるような青空が広がる好天に恵まれた。
 座っているだけでも汗ばむような暑気の中、デルコンダルの民が続々とコロシアムに集う。国を挙げての催しに参加しようと誰もが入り口に殺到し、押し合いになり、ささやかな口論が火種を孕んだ小競り合いへと発展した。
 騒ぎを聞きつけた兵士の誘導で一旦羊のように従順になった人々は、闘技場が満員になったと知った途端、再び狼の如く牙を剥いて吼え始めた。あちらで取っ組み合いが始まり、こちらで激しい罵倒が飛び交い、それに兵士達の怒号も加わって大変な騒ぎが勃発する。抑えきれぬ興奮と熱気が早くもデルコンダルを揺るがすかのようだった。
 そんな喧騒を遠くに聞きながら、アレンは用意された鎧を纏っていく。
 ひやりとした感触は浮き立つ気持ちを鎮め、心地よい緊張を齎せた。御前試合の経験は幾度かあるが、他国のそれに出場するのは初めてだ。
 出場者は試合中、顔をすっぽり覆う兜の装着を義務づけられている。彼らは振り当てられた番号のみで識別され、顔を晒すことはおろか名乗りを上げることも許されない。正体を明かすことが出来るのはただ一人、万人が認めるデルコンダルの英雄のみに与えられる特権なのだ。
 剣を腰に携え、兜を小脇に抱え、アレンは王宮の奥まった場所に用意された部屋を出た。控え室目指して足早に回廊を進む途中、彼の背を呼び止めた声がある。
「なかなか似合っている」
 円柱に寄りかかったコナンは、アレンを頭の天辺から爪先まで仔細らしく観察し、珍しく褒め言葉を口にした。実際、艶を消した漆黒の鎧はアレンに良く似合っていた。
「こんなとこで何してんだよ?」
 コナンとナナは国賓として、王と共に試合観戦することになっている。
 三人いるはずの末裔が二人しか姿を見せぬ事態は、観客席に様々な憶測を飛び交わせた。残る一人は恐らく試合に出場しているのだろう、ではどの剣闘士がロトの末裔なのか……議論は更なる議論を呼び、程よい興奮剤となって人々を熱くさせるのだ。
「王のお相手はナナに任せてきた。男の話し合い手など拷問に等しいね」
 そう皮肉っぽく唇を歪めるコナンの装いもまた、何時もの旅装束ではない。
 黒い詰襟の礼服には鬱金色の縁取りが施され、それが彼の髪の色によく馴染んでいた。両肩で留めたマントは渋みのある苔色で、焚き染めた香が時折ふわりと周囲に漂う。腰に巻いたオレンジ色の飾り布には細かな花模様が織り込まれており、デルコンダル織独特の鈍い光沢を放っている。舞踏会に赴くような改まった装いであったが、襟を胸元まで開けているせいか何処かしら寛いだ印象を覚えた。
「試合、何処まで行った?」
「僕が抜け出した時は第五試合の真っ最中だった。今はもう少し進んでいるかもしれないな」
 その言葉が終わるや否や、コロシアムの方から一際大きな歓声が上がった。誰かが敗北し、誰かが勝利したのだろう。
「あ、やべ。俺そろそろいかねーと」
「気をつけろ。一人、恐ろしく強い剣闘士がいる」
 立ち去りかけたアレンを、コナンが今一度呼び止めた。
 アレンは項の辺りにすっと冷たい緊張が走るのを感じた。コナンがわざわざ忠告しに来るのだから、それは余程の人物だ。
「どんな奴だ?」
「生憎鎧姿なので詳しいことは分からない。ただ目立つほど小柄な剣闘士で……もしかすると女性かもしれないな。番号は二十三番」
「女ぁ?」
 アレンが気の抜けた声を出すと、コナンはそれを咎めるように首を振った。
「舐めてかかるな、一戦目の対戦相手は一撃で首を掻き切られたんだ。不慮の事故として片付けられたが間違いない。あれは最初から急所を狙っていた」
 トーナメントはあくまで技を競うことを目的としており、命を賭けたやりとりではない。人と人の戦いには最低限の規定と礼儀が設けられるものだ。
 だが実際に剣を交える以上、怪我は勿論命を落とす可能性はあるのだ。出場者達はみなそれなりの覚悟で試合に臨んでいるし、アレンとて例外ではない。
「……」
 それでもあからさまな殺人が行われたとなれば心穏やかではいられない。戦士達が誇りを賭けて戦うコロシアムは、悪意や憎悪で汚されてよい場所ではないのだ。
「君に忠告しておく。意地になるな。引き際を見極めろ。君ならば一撃でやられるということはないだろうから、降参するチャンスは絶対にあるはずだ」
 淡々としたコナンの台詞は、アレンの神経を逆撫でするに十分だった。
「最近の君は勝つことにこだわり過ぎて、周りを見ていないから困る。今日は僕もナナも君のフォローを出来ないことを忘れないでくれ」
「俺がそいつに負けるっつーのかよ!」
「言われた傍からカッカするな。鼻息を荒くするばかりではこの先の成長など到底望めない。押すことは大切だが、引くこともそれと同じくらい重要だ。……君は強くなりたいんだろう?」
 アレンは唇を噛んで幼子のように俯く。短い沈黙を置いて、ふうと呆れたような溜息が聞こえた。
「アレン」
 呼びかけられた声の質がそれまでと違うような気がして、アレンはふと顔を上げた。まっすぐにこちらを見据えるコナンの双眸には、何かを突き抜けたような達観の色がある。
「僕は、僕が僕であることこそ最大の美だと思っている。この美しい魂を闇に汚そうとは思わないし、誰かにくれてやるつもりもない」
「……」
 唐突な話題の変化に戸惑って、アレンは眉頭を寄せる。彼の話法は時折自分勝手でイライラする。
「だがもし、ほんの一瞬の隙を突かれて……僕が僕でなくなった時は、君とナナ、二人で虹の橋を架けてもらわねばならないんだ。だからくれぐれも、こんなところで無茶はしないでくれ」
「……は?」
 アレンは世にも凄まじいマヌケ面で佇んだ。コナンの話がさっぱり理解出来ないのは通例としても、言外に漂う不穏な予感はただごとではない。
「お前、何言って……」
 それ以上の言葉が思いつかず、アレンは唖然とその場に佇んだ。気詰まりな沈黙が流れること数秒、コナンはくるりと踵を返した。
「それではご武運を」
 軽く手を翳すと、コナンはすたすたとその場から立ち去っていった。


 照りつける日差しと巻き起こる興奮でコロシアムの体感温度は凄まじかった。
 暑気を和らげるため時折行われる散水も、さしたる効果を生み出さぬようだ。清浄な水が齎す涼よりも、人々が生み出す熱の方が遥かに勝っている。
 尤も観客らにしてみれば、うだるような暑さも楽しい催しの副産物に過ぎなかった。彼らは笑い声を上げ、酒盃を酌み交わし、生き生きと目を輝かせながら次の試合の開始を待ち構えているのだ。
 陽気な人々にアレンはふとローレシアの民を重ねた。祭りとなればアレンも町に飛び出し、臣民に混じって朝方まで遊び回ったものだ。その中にはアレンの素性を知る者もいたし、知らない者もいた。だが誰もがまるで幼友達を迎えるように、彼を輪の中に受け入れてくれたものだった。
「四十五番!」
 番号を呼ばれてはっと我に返る。すっぽりと顔を覆う兜の具合を今一度改めると、アレンは一歩、また一歩とコロシアムの中央に進み出た。
 鎧を通してでも感じられる日差し。耳を劈く大歓声。揺らぐ空気、巻き起こる熱狂と興奮。
 バルコニーのように突き出した観覧席に目をやると、筋骨隆々たる王の傍らにコナンとナナの姿があった。特別に設えられたロイヤルボックスには日除けの緞帳が張り巡らされ、侍女達がせっせと氷を入れ替えているせいもあって随分と涼しげだ。
 薄花色のドレスに身を包んだナナがぴょんと立ち上がり、手摺から大きく身を乗り出した。すぐさまコナンがそんな彼女の腕を捕らえ、優しく、だが有無を言わさず席に座らせる。それからくどくどとコナン節の効いた長い説教が始まったようだった。
 声は聞こえない。だがどんなやりとりをしているかは手に取るように分かる。気分がすうっと落ち着いていくのを感じながら、アレンは仮面越しに対戦相手を見つめた。
 全身を鎧に包んだ対戦相手は男なのか女なのか、年寄りなのか子供かも分からない。だがしゃんと伸びた背筋や鎧越しに伺える体つきから、若い男であろうと推測は出来た。それとなく身構える様から察するに、舐めて挑める相手ではなさそうだ。
 やがて審判が進み出て、高々と赤い旗を掲げた。王家の紋が刻まれたそれが太陽と重なった瞬間、場内は緊張に満ちた沈黙に包まれる。
「始め!」
 旗が振り下ろされた瞬間、剣士の右手に火玉が生まれる。炎はゆらりと震えると、鎌首を擡げる蛇の如くアレンに飛びかかってきた。相手は魔術剣士であるようだ。
 アレンは横っ飛びに火炎を避けると、着地と同時に大地を蹴った。姿勢を低くしたまま稲妻の如く相手の懐に滑り込み、力任せに剣を跳ね上げる。
 くるくると回転しながら相手の剣が空に舞い上がる。あまりに早い試合の幕切れの予感に、観覧席からどうっと失望の溜息が漏れた。
 だが得物を弾き飛ばされたにもかかわらず、剣士は一片の動揺も見せなかった。後方に二度跳んでアレンとの距離を置くと、冷静に次の魔術の準備に取りかかる。すっと突き出された掌に淡い魔力の光が宿った。
「マヌーサ」
「げ」
 それはナナが時折扱う幻影の魔術だった。
 忽ちアレンの周囲には怪しい霧が立ち込め、乱舞する粒子が幻影を結び始める。次々と生み出された剣士の虚像は、何時しか十を超える数となってアレンを取り囲んでいた。
 尤も霧や幻を視認しているのはアレンだけだ。マヌーサは対象者の肉体に魔力を注ぎ、感覚を混乱させ、ありもしない光景を見せつける魔術である。一時的に五感を狂わされた人間は、気配で敵の位置を探ることも困難な状況になるのだ。
 視界の端でかっと赤光が閃き、アレンは反射的に避けた。体勢を整える間もなく、予想外の方向から火玉が飛んでくる。
「!」
 反射的に翳した腕を焼かれた瞬間、左方から迫る殺気に気づく。痛みを堪えて振り下ろした剣は、何の手応えも伝えぬまま強かに大地を打って砂を吹き上げた。虚像だ。
 舌打ちする間もなく背中に打撃を食らう。前のめりになったところで肩に追撃。容赦なく繰り広げられる強打を腹に受け、アレンは大きく吹き飛んで砂地を滑った。
 仰向けに転がったアレンを取り囲み、幻の剣士達がじりじりと間合いを詰めてくる。何時の間に拾い上げたのか、それぞれの手に握られた剣が輝く様にアレンは唸った。あれを喉元に突きつけられた時点で敗北が決定する。
 立ち上がる体力も気力も十分にあった。だが無闇に飛びかかったところで返り討ちに遭うことは目に見えている。確実に本物を見極めなければアレンに勝利はない。
「……」
 敗北の予感が冷たい汗となって全身に吹き出した。
 恐怖に近い焦燥を飲み込みながら、アレンは勝機を求めて視線をさまよわせる。追い詰められた獣の如くぎらついた瞳が、ある光景を捉えた瞬間落ち着きを取り戻した。
 一人の剣士の足元で、踏み出すたびに白い靄のようなものが生じるのだ。敷き詰められた細かい砂粒が靴底に張りつき、剥がれ落ちる際光に当たって輝いているのだろう。
 虚像は、砂埃を上げることは出来ない。
 アレンは仮面の中でにやりとし、それから辛抱強く獲物が近づくのを待った。さく、さく、大地を踏む力が微かな振動となって伝わってくる。
 じりじりと待つこと数秒、剣士がアレンの攻撃範囲内に侵入した。アレンは息を吹き返したように跳ね起き、驚愕に仰け反った剣士の顎に強烈な拳を叩き込む。アレンの渾身の一撃を受け止めきれるはずもなく、剣士は面白いように吹き飛んで砂の上に叩きつけられた。
 男は必死にもがいたが、脳震盪を起こしているらしく立ち上がることが出来ない。じたばたと足掻いていた手足が、やがて疲れきったように大地に伸びた。戦意を喪失したその体に歩み寄り、アレンはぴたりと剣先を添える。
「そこまで!」
 審判の判定と共にアレンは体の力を抜いた。
 晴天を割らんばかりにコロシアムが沸いた。歓声と拍手が瀑布の如く轟き、歓喜の渦になってアレンを押し流そうとする。
 先刻の説教を忘れたナナが盛んに手を振り、コナンも今ばかりはそれをたしなめる様子もない。デルコンダル王は大きな掌を打ち鳴らしながら、満足げに幾度も頷いている。そこに存在する全てがアレンの勝利を祝福してくれているのだ。
 ふわりと兜を掠めるようにして白いものが足元に落ちた。拾い上げるとそれは花束で、愛らしい野の花をギンガムチェックのリボンで纏めている。
 観客席を見上げると、幼い少女がちらちらとこちらを見ながら、母親らしき女と嬉しげに微笑みを交わしている。この可憐な花束は恐らく彼女からの贈り物なのだ。感謝を込めて手を振ると、少女は嬉しそうに頬を染めた。
 くすぐったい喜びを覚えながら周囲を見渡していたアレンは、ふと鋭い視線を感じて振り返った。汗が一斉に引いていくような、冷たい緊張感が肉体の隅々にまで行き渡る。
 控え室に続く入り口に、銀色の鎧を纏った剣闘士が立っていた。
 その肩幅は細く、胸板は薄い。身長はアレンの胸元に届かず、手も足もひょろりとして頼りない。背負った両手剣ばかりが不恰好に目立ち、ごっこ遊びに興じる子供のような印象だ。
 だがゆったりと腕を組んでこちらを眺める様の、その隙のなさはどうだろう。獅子の如く悠然とした落ち着きと、鷹の如く油断のならぬ気配を放つ剣士の強さを、アレンは一瞬にして看破した。
「あいつがコナンの言ってた奴か……」
 小柄な剣士は、僅かに覗く口元に侮蔑の笑みを刻む。アレンは唇を噛み締め、体ごと振り返って剣闘士に向かい合う。冷たく熱い火花が、闘技場の乾いた空気に見えない火花を散らした。
「……」
 ゆるりと踵を返して、剣闘士が控えの間へと歩き出す。暗がりに銀色の輝きが溶け込んでいくのを、アレンは瞬きもせずに見送った。