それから数日かけて幾つもの試合が行われ、幾つもの物語が生まれた。 人々は連日せっせとコロシアムに足を運んだ。朝まだきの頃に家を出発し、開門と同時に闘技場へ流れ込み、日没と共に家路については翌日に備えて眠る。老いも若きも男も女も……デルコンダルという国そのものが、トーナメントという刺激的な酒に酩酊したかのようだった。 コロシアムは楽しい祭り。人々は日々の懊悩を忘れてはしゃぐ子供達。彼らはお気に入りの剣士に熱心に声援を送り、賭け事に興じ、勝負がつく度に泣いたり笑ったり怒ったりした。 黒の四十五番ことアレンはその圧倒的な強さで試合を勝ち抜き、勢い人気の高い剣士となった。正体は未だ伏せられたままだったが、あの見事な太刀捌きこそローレシア王子と断言する者は日に日に数を増しているようだ。 黒の四十五番と銀の二十三番が決勝戦への駒を進めたところで、六日目の試合が終わる。明日に迫る決勝戦の準備のため、コロシアムは何時もより早く閉鎖された。 試合を終えたアレンは汗を流した後、一人夕食を取っていた。来るべき決勝戦に向けて、今日は何時にも増して早目に就寝することにしたのだ。 王宮の一角に設えられたバルコニーにはテーブルと椅子が用意され、涼しい夕暮れの風を浴びながら食事を楽しむことが出来る。朱金に輝く美しい山海の風景には目もくれず、ひたすら胃を満足させることだけに集中していたアレンの下に、ふらりと訪れた人物がいた。 「健康な食欲は強さの源。結構なことだ」 顔を上げれば、しどけなくマントを羽織った王の姿がある。王は断りもなくアレンの向かいに腰を下ろすと、器から果物を摘んで口に放り込んだ。 「……何の用だよ?」 異国の王に対してこの口の利きようだ。うるさいお目付け役から解放されたせいか、旅に出て以来アレンの礼儀作法は悪化の一途を辿っている。 「明日はいよいよ決勝だな。そなたの剣術もこれで見納めかと思うと少々寂しいぞ」 デルコンダル王はそんなアレンの態度を面白がっている節がある。彼もまたアレンと同様、堅苦しい作法や虚飾に塗れた美辞麗句を好まぬ人種であるらしい。王は指に付着した果汁をナプキンに擦りつけ、汚れたそれをぽいとテーブルの上に放った。 「流石ローレシアの王子だけはある。そなたはとても強い。余が知っている数多の剣闘士の中でも一、二を争う剣の使い手だ」 王はゆったりと背凭れに体を預けた。逞しい王の体重を受け止め兼ねて、華奢な作りの椅子がか細い悲鳴を上げる。 「だがそなたにはまるで余裕がないな。まるで何かに追い詰められているような戦い様よ」 アレンは口中のものが一瞬にして味を失ったように感じた。ひどく不味いそれを、二度咀嚼して無理矢理嚥下する。 「負けるのが怖いのか?」 「怖くなんかねぇよっ」 感情的な反応は王の言葉を肯定したようなものだ。すっかり食欲の失せたアレンは、ナイフとフォークをまだ料理の残る皿に戻した。 微笑を湛えた王の眼差しは穏やかで、アレンはふと父の姿を思い重ねた。顔つきも体つきも違う異国の王は、不思議なことに時折父を髣髴とさせる。 「アレン、そなたは何のために戦っている?」 「何のためって……」 唐突な問いに目をぱちくりさせたが、アレンはすぐに気を取り直して答えた。 「強くなるためだよ。絶対に勝ちたい奴がいるんだ」 王は頷いた。 「名誉のため、矜持のため、誇りのため……そなたは自分のために戦っているのだな。それではあのような戦い方になるのも頷ける。負ければ全てが終わり、残るものは何一つないのだからな」 「負けたら何にも残んないのは当たり前だろ」 「それは戦う理由によるだろうな」 アレンは眉を顰め、今一度しげしげと目の前の男を見つめた。相変わらず人を食ったような笑みを浮かべているが、アレンをからかったり馬鹿にしたりしているわけではないらしい。むしろ人生の先達者として真摯に語ろうとする姿勢が見て取れる。 「余はデルコンダルのために戦っている」 王はふと視線を遠方に移した。大陸を縁取る山脈は沈み行く太陽の光を浴び、険しい稜線を金色に輝かせている。山の麓から広がる平原は遙か大陸の彼方まで続き、風が吹く度にその濃淡を微妙に変化させた。 「デルコンダルの大地は我が肉、大河は我が血潮、臣民は我が心臓よ。例え世が戦で命を落としても、民がいる限りデルコンダルは生き続ける。余の敗北は一つの区切りとはなるが、終わりにはならぬ」 揺るぎのない信念の下、デルコンダル王はにやりと笑った。 「デルコンダルのために生き、デルコンダルのために死ぬ。それが余の生き様だ」 「……」 「そなたの父もそうなのではないか? そしてその跡を継ぐそなたもだ」 アレンはらしくもなく、しょんぼりとテーブルに視線を落とした。すっかり冷えてしまった肉料理には、ところどころ薄く脂が浮いている。 「あんたや親父が、そやって国に尽くそうとする理由が俺にはよく分かんねぇ」 「そなたは違うのか?」 「……やりたいことを我慢してローレシアのために生きろって言われると、何でそんなことしなきゃなんねぇんだって思う」 国や国民から受けたたくさんの愛情、その重みとありがたさを理解するには、アレンはまだ精神的に子供だった。広い世界ばかりに憧れて、傍にあるものの価値を考えることをしない。彼の頭は今、敗北と屈辱を味合わせてくれたハーゴンに勝利することでいっぱいなのだ。 「……ローレシアの料理は美味いか?」 「は?」 王との会話は話題があちこちに飛んで落ち着きを知らない。再び眉を寄せたものの、元来素直な性分であるアレンは真剣にその問いについて頷いた。 「ローレシアは港が近いから美味い魚や貝が取れるし、果樹園もいっぱいあるんだ。魚のフライとかアップルパイとか美味いもんたくさんあるよ」 「そうか。だが我がデルコンダルにも港はあり新鮮な魚介類が豊富だ。我が国の趣向を凝らしたスパイス料理は他国では味わえないものばかり。ローレシアにはこのような料理はあるまい?」 王はデルコンダルを上位に位置づけ、得意そうに頤を持ち上げた。挑発されたアレンはむっと唇を尖らせる。 「デルコンダルの飯も美味いけど、ローレシアだって負けてねぇんだって。今度来てみろよ、びっくりするくらい美味いもの食わせてやるから」 辛抱たまらずといった風情で王が哄笑する。 一瞬唖然とし、それから幼子さながらに頬を膨らませたアレンの髪を、王の大きな掌がくしゃくしゃと掻き混ぜる。その温もりも大きさも若いアレンには持ち得ぬものだ。 「余がデルコンダルのために生きようと思うのは、デルコンダルを愛しているからだ」 国をけなされて立腹するくらいなのだから、アレンとてローレシアを嫌ってはいないのだ。ただ国に対する愛情を自覚し、それを育むには心が成長する時間が必要なのだろう。 「人にはそれぞれ生き方がある。今のそなたが自分のために戦おうと思うのなら、躊躇うことなくそれを追求するがよい。王となり国の為に尽くすのは、お前の魂がその生き方に納得した時で構わぬのだ」 アレンは頬を膨らませることも唇を尖らせることもなく、素直にそれに頷いた。王の言葉はまるで水のように、何の抵抗もなくアレンの心に流れ込んでくる。 「明日の戦い、期待しているぞ。余は強い者が好きだ……強靭な肉体と健全な魂の持ち主である強者がな」 決勝戦の日、デルコンダルの上空は分厚い雲に覆われていた。今にも泣き出しそうな空の下、最終日を告げる花火が三発、勢い良く上がる。 柔らかい砂を敷き詰めたコロシアムの中央に立って、アレンは神経を集中させるためにゆっくりと息を吐いた。 この試合に勝利すれば、コロシアムの一角に設けられた鉄格子が開き、そこに閉じ込められているキラータイガーが飛び出してくる仕組みだ。日の差し込まぬ檻の中はまるで見通しが効かぬが、生き物の蠢く気配は感じられた。 アレンの正面には対戦相手が控えている。小柄な肉体を鎧で覆い、兜の面貌を深く下ろしたそいつは、まるでチェスの駒のように微動だにしない。 注意深く相手の気配を探っていたアレンは、ふと奇妙な既視感を覚えて眉を潜めた。 (……こいつ……) アレンが剣を抜くと、それに合わせるように相手も臨戦態勢に入った。二人の剣士が放つ緊張は空気に乗って伝播し、興奮に彩られたざわめきをぴたりと鎮める。水を打ったように静まり返ったコロシアムの中、審判が高々と旗を振り上げた。 「始め!」 試合開始の合図と共に相手が突っ込んできた。恐るべき俊足に瞠目しつつ、アレンは体を捻るようにして剣先をかわす。空気を裂いていく銀光を尻目に捉えながら、手にした剣を斜めに振り下ろした。 剣闘士の動きは驚くほど俊敏だった。あっという間に間合いを取った肉体が、着地するや否や風のように向かってくる。その動き、その仕草、吐息から滲み出す剣呑な殺気。彼の存在そのものをアレンの魂が記憶していた。 響き渡る剣戟。飛び散る火花。 二つの刃が激突し、殺意を孕んで絡み合った。十字になった刃の向こうに相手の姿を改めて捉えた時、アレンは剣士の正体を確信した。 (このガキ……) 相手はその膂力を誇示するかの如く、ぐいぐいと剣を押しつけてくる。 対抗意識丸出しにしてそれに応えようとしたアレンの脳裏に、ふとコナンの言葉が過ぎったのはその時だ。熱くなってはだめだ……冷静さを保て。この先の成長を望むのなら、決して自分を見失ってはならぬのだ。 鍔迫り合いに持ち込むふりを見せて、アレンはふっと力を抜いた。虚を突かれた剣士が支えを失い、倒れこんでくるのに合わせて低く膝を折る。斜めにした刃に相手のそれを滑らせた後、アレンは力任せに剣先を真上に跳ね上げた。 兜の顎を掠めた剣が、勢いよく青空に向かって直立する。 弾き飛ばされた兜は高々を宙に舞い上がり、踏み荒らされた砂地に落ちて鈍い音を立てた。からからと乾いた音を立てながら、闘技場の端にまで転がっていく。 二十三番は心持ち俯かせていた顔を持ち上げ、にやりと笑った。悪戯小僧そのものの快活な笑顔を見てアレンは奥歯を噛み締める。 「やっぱてめぇか、アトラス!」 「あーあ、もうちょっと遊んでたかったのになぁ」 十歳程度の少年に成長したアトラスは、そう言ってぺろりと舌を出した。無邪気な少年を装っているが、存在そのものが含有する悪意は隠し切れない。 「こんなとこで何してやがる」 「見りゃ分かるだろ、トーナメントに出場してんだよ。人間の考えることって面白れーよな」 アトラスは目にも止まらぬ速さで剣を水平に薙いだ。剣は一筋の銀光となってアレンの兜を掠め、そのまま勢い余って遠く背後の壁に深々と突き刺さる。真っ二つに割れた兜がアレンの足元に落ち、断末魔の如く鈍い光を放った。 敵対する二人の面立ちが鏡に映したようにそっくりなのを見て、観客からは戸惑いに満ちたどよめきが上がった。二人の間には単純な血の繋がりでなく、不吉な力の働きがありありと感じられるのだ。 「トーナメントでお前を殺して、ついでだからこの国からルビス信仰を追い払っていこうかなと思ってさ」 にやにやと周囲を見回していたアトラスが、ふと不快げに眉を潜めた。芳しい花の香に異臭を感じ取ったような、そんな表情の変化だ。 「……感じの悪ぃ国だな……何だこの気配は」 「感じが悪いと思うならさっさと立ち去ったらどうだ」 何時の間にやってきたのか、数歩置いた地点にコナンとナナの姿があった。 視線はアトラスに向けたまま、アレンはコナンが放り投げたロトの剣を受け取る。閃く剣先を邪神に向けつつ、背後に回った二人の気配に問うた。 「お前ら、んな格好で動けんのかよ」 「僕は支障ないがナナは無理があるだろうね。こんな格好している時くらい、大人しくお姫様していればいいと思うんだが」 「しっつれいね。あたしは何時だってお姫様よ」 王女らしく、大仰に飾り立てられたナナが舌を出した。 金糸の刺繍が施されたドレスはどっしりと重厚な造りで、当然ながら戦闘向きには出来ていない。大きく膨らんだスカートも幾つも重なった襞飾りも、あくまで愛らしく微笑む姫君のためにデザインされたものだ。 拷問具のようなコルセットの中で、ナナは肺を喘がせる。 「もうちょっと緩く締めて貰うんだった」 高いヒールのついた靴をぽいぽいと脱ぎ捨てると、ナナは柔らかい砂地に両足を踏ん張った。何時でも魔術を発動出来るように心持ち身構える。 そっくり同じ顔をした二人の少年、突如乱入してきたロトの王子と姫、四人を中心として湧き上がる以上な雰囲気。それらに本能的な恐れを感じたか、観客たちが一人、また一人と席を立ち始める。その中の誰かが短い悲鳴を上げて走り出したのを皮切りに、緊張に耐えられなくなった観客達が我先にと逃げ出した。 広くはない出口に人々が殺到し、力の弱いものが押し出されて悲鳴を上げた。混乱は更なる混乱を呼び、兵士たちの宥める声も届かない。 「……ぎゃあぎゃあうるせぇな」 「!」 舌打ちするアトラスの横顔に凄まじく剣呑なものを感じて、アレンが大地を蹴った。だがアレンが敵の懐に飛び込むより、ばちばちと耳障りな音を上げて破壊の剣が現れる方が遥かに早い。 「静かにしろよ」 剣が一閃される。破壊を齎す剣が圧倒的な力を巻き起こし、凄まじい衝撃波がコロシアムの一角に弾けた。 |