戦士の宴と月の囁き<4>


 遙か空の高見まで吹き上げられた石礫が、豪雨の如く末裔達に降り注ぐ。
 翳した左腕で目を庇いながら、アレンは絶望に奥歯を噛み締めた。石造物をも砕く程の衝撃波を食らって、生身の人間が生きていられるはずはない。さだめし多くの人々が犠牲になったことだろう。
 ここ数日間、アレンに熱烈な声援を送ってくれた人々の顔が浮かぶ。一際大きな拍手で勝利を寿いでくれた老人、即興の口上を述べてくれた吟遊詩人、花を投げてくれた少女……親しみを込めて四十五番を連呼してくれた異国の民。決して死んで欲しくない、死なせたくない人々だった。
(……畜生)
 悲しみに胸が潰されて痛い。怒りに喉奥が塞がれて息苦しい。十七年生きてきて、これほど残虐で容赦のない暴力を目の当たりにしたのは初めてだ。
 海から強風が吹きつけ、重たい砂塵を浚っていく。破壊されたコロシアムの輪郭が徐々にぼんやりと浮かび上がってきた。
「……?」
 砂の緞帳に透ける人影に気づいて、末裔達はそれぞれ眉根を寄せた。あの爆裂の中心地にいて、生き永らえる人間など存在するだろうか。
 緊張に満ちた沈黙が続くことしばし、何の前触れもなくナナの押し殺した悲鳴が上がった。
「国王陛下……!」
 鈍く輝くガイアの鎧を纏った国王が、人々を守るように仁王立ちになっている。信じがたいことに、王は単身あの衝撃波を受け止めたのだ。
 王はにやりと笑った。その腹部から夥しい量の血液が滴り落ち、コロシアムの砂地を鮮やかに染める。
「人間風情が俺の力を……?」
 唖然とするアトラスの脇をアレンが走り抜ける。  観客席から落っこちてきた王を、アレンは大地と激突する寸前にどうにか受け止めた。ぐったりとした巨体を壁に寄りかからせ、不自然に青白いその顔を覗き込む。王の額に滲んだ脂汗は頬を滑り、逞しい頤の先端で幾つも玉を結んだ。
 デルコンダル王は苦しげに閉じていた目を開け、駆けつけた末裔達を見ておどけたように両眉を持ち上げた。傷は内臓まで達しているようで、ごぼりと鈍い音を立てて口元から血が吹き零れる。
「……あの不遜な子供はそなたの血縁か?」
「違うよ。あいつが勝手に俺の顔真似してるだけだ」
 傍らに膝をついたナナが慎重に治療を開始した。あまりに深い傷は一瞬で回復させると、肉体への負担がかかり過ぎて後々不具合を起こすことが多い。
「供の一人も連れずにいらっしゃったのですか」
 デルコンダル王は近衛兵どころか、雑兵の一人も連れていなかった。これでは深手を負った王を安全圏に避難させることもままならない。
「そなたらとて兵の一人も連れず旅をしているではないか」
 半ば呆れたようなコナンにも、デルコンダル王は少しも悪びれた様子を見せなかった。
「兵は民を守るためのもの。王は民のために戦うもの。他の国のことは知らぬが、少なくともデルコンダルでの役割はそうだ」
 王は荒く息を弾ませつつ、射抜くような眼光をアトラスに向けた。瀕死の重傷を負って尚、王の闘志はいささかの衰えも見せぬ。
「お前は一体何者だ」
「俺はアトラス。こっちの世界じゃ有名人らしいから、お前も知ってるんじゃねぇの?」
 人間如きに力を食い止められたのがさぞかし悔しかったのだろう、アトラスの表情は機嫌を損ねた子供のそれだ。
「アトラス……破滅の神アトラスか。邪神がデルコンダルに何の用だ」
「お前の国と民をシドー様にお捧げしようと思ってね」
「我が臣民を邪神の供物にしようと言うのか」
「違うって。人間の考えることは物騒だな」
 からからと哄笑した後、アトラスは剣を肩の上で弾ませた。その仕草、その表情、どれもが頬をつねり上げてやりたいような小憎らしさである。
「本来神が欲されるのは血や肉じゃない……人の心だ。今はルビスのものである心を、そっくりそのままシドー様に捧げてもらうだけのことさ」
「邪教の信徒となれと?」
「シドー様が光臨されればルビス信者の方が邪教徒だぜ」
「成程。確かにその通りだ」
 嘲笑めいたアトラスの言葉にも、王は鷹揚に頷いた。
「だが世界や神が変わろうと、今お前が余の民を傷つけようとした事実に変わりはない。そのような輩の要求を飲むことは出来ぬ」
「しょうがねぇだろ、これが俺達のやり方だ。ルビスが愛で人を縛るように、シドー様は恐怖で人を縛る。力を見せつけておけば、俺らに逆らおうと思う奴もいなくなるだろうよ」
 王は震える膝に力を入れて立ち上がろうとした。未だ癒えぬ腹部の傷が捻れ、再び微量ながらも血が吹き出す。ナナとコナンが止めようするのを、王は静かに、だが決して逆らえぬ威厳を持って制した。
「戦いが長引けば長引く程、多くの民がコロシアムから脱出することが出来る」
 圧倒的な力量の差を悟った王は、最早勝つことなど望んでいないようだ。自らの信念を貫くため、意識が途切れるその瞬間まで人々の盾となる心積もりなのだろう。
「言ったであろう。民は余の心臓であると。民さえ無事であるならばデルコンダルは幾度でも蘇る。余の民は強い。邪神の卑劣な脅しなどには決して屈さぬ」
 王は誰の手も借りずに立ち上がり、一歩前に進み出た。
「そなた達もやがては一国の王となる。覚えておくがよい……我ら王族は民に息吹を与えられる存在であるのだと」
 吹き抜けた風に王のマントが大きく煽られる。煉瓦色のそれから見え隠れする鎧を認めた瞬間、アトラスの双眸に剣呑な輝きが宿った。
「……ガイアの鎧か、成る程ね。それなら俺の力を受け止めたことにも納得だ」
 古き神々の戦を思い出したのか、アトラスの顔が不快そうに歪んだ。創造神側の大地の女神と、破壊神側の大地の男神。同属性でありながら相反する二神の戦いでは互いの信念、忠誠心、そして矜持が譲ることなく激突したのだろう。
「あのアマは最期までしぶとくてな。戦には勝ったものの俺の軍隊もボロボロで、それ以上進軍出来るような有様じゃなかった。バズズには嫌味言われるしベリアルには笑われるしで、散々な目に遭ったもんだぜ」
 アトラスが破壊の剣を持ち上げ、耳の横に構える。低い唸りを上げながら、刀身が不吉な明滅を始めた。
「その鎧は気にくわねぇ。あのアマの力がぷんぷんしやがる」
 アレンが猛然と大地を蹴るのに合わせて、コナンとナナが素早く詠唱を紡ぐ。
「ベギラマ!」
「バギ!」
 コナンの指先から躍り出た炎は、ナナの風の協力を得て何倍にも膨れ上がった。七匹の竜と化した炎は轟音を奏でつつ、あらゆる方向からアトラスに食らいつこうと牙を向く。
 炎の狭間に飛び込んだアトラスは、コナンとナナが目論んだ通りの場所に着地する。間髪入れずそこに飛び込んだアレンは、体勢が崩れたままのアトラスの上腕部を浅く削いだ。
 鋭い舌打ちと共に振り下ろされた剣を、アレンは渾身の力で弾き返す。この世ならぬ力を秘めた二つの刀身が、太陽よりも眩い火花を散らした。
「邪魔するな。創造神に組した奴の力は排除する。シドー様にはきれいな世界に降臨していただきたいからな」
「シドーシドーって、それしか言うことねーのかよ」
「何とでも言え。俺はシドー様のために存在するんだ」
 アレンと十分な間合いを取り、アトラスは飄々と肩を竦めて見せた。意識的におどけた仕草ではあったが、その眼差しは真剣だ。
「冥界に封印されている間、俺は……俺達は自分の不甲斐なさを悔やみ続けたよ。俺達がもっと強ければ、創造神を負かす力があれば、こんなことにならずに済んだんだって」
 デルコンダル王が国を命がけで守ろうとするように、アトラスもまたシドー復活に全てを投げ打つ所存なのだ。主義主張は異なるものの、彼らはある意味とても良く似た存在だった。
「俺は絶対にシドー様をお助けする。その為だったら消滅したって後悔しねぇ」
 国のため、主のため、命を賭けて戦う男達の何と気骨に満ちたことか。彼らの気概は、今のアレンには決して持ちえぬ絶対的な強さの源だった。ぎらりと閃く視線に射抜かれるような錯覚を覚え、アレンは反射的に半歩後退する。
 動揺が隙を生み出した。腹部に思い切り膝を叩きつけられ、アレンは強烈な吐き気を覚えながらよろける。厚手の鎧を通してさえ、内臓に直接ダメージを与えるアトラスの蹴りだった。
 がくりと膝をついたアレンを一足飛びに飛び越えて、アトラスが王の傍に降り立つ。王を守ろうと飛び出したナナを横殴りに張り飛ばすと、全く何の感情も込めず、ガイアの鎧の胸元に大剣を叩き込んだ。
「スクルト!」
 滑り込むコナンの魔術に一瞬遅れて、大地が砕けるような轟音が上がった。


 砕けたガイアの鎧が四方に広がり、光の礫となって末裔達を傷つけていく。貫くような眩しさと痛みでまともに目も開けられない。
「!」
 立ち上がった瞬間、太腿に強烈な痛みを覚えてアレンは再び膝をついた。装甲を貫通した礫は勢い止まらず、アレンの肉と骨までをも深く抉ったのだ。
 光が和らぎ始めると、アレンは霞む目を擦りながら必死に辺りを見回した。鎧を装着しているアレンはまだいい。ろくな防具も纏っていないコナンとナナ、そしてアトラスの直撃を受けたデルコンダル王はどうなってしまったのか。
 焦燥の中何度も目を瞬かせると、ゆっくりと風景が戻り始めた。
 やや距離を置いた地点で、片膝をついたコナンが全身の痛みに顔を歪めていた。その片腕に抱えられたナナは気絶してしまっているのか、顔を伏せたまま動かない。
 至近距離から礫を浴びたアトラスは、全身からしとどと血を滴らせて立っている。一歩踏み出そうとしてよろめいたものの、軽い舌打ちと共に踏ん張ってどうにか転倒を免れた。彼にとってもこの事態は予想外だったようだ。
 アトラスの足元に転がった王は、長い手足を投げ出したままぴくりとも動かなかった。一瞬不吉な予感がアレンの脳裏を過ぎったが、目を凝らせば胸部が荒く上下しているのが確認出来る。コナンのスクルトとガイアの最後の加護が王を守ってくれたのだ。
「消滅してまで忌々しい女だな」
 憎々しげに吐き捨てながらも、アトラスは唇に満足そうな微笑を浮かべた。千年の昔、屈辱を与えてくれた女にようやく完全な勝利を収めたのだ。弱々しく明滅する最後の破片を踏み潰し、女神の力を滅する。
 喜びのあまり気が緩んだのか、アトラスは背後にのっそりと迫る影に気づいていないようだった。
 先の一撃で砕かれた壁から、音もなく巨大な生き物が這い出してくる。檻に閉じ込められていたキラータイガーだ。
逞しい四肢が瓦礫を捉え、飾り毛のついた尾が空を打った。飴色の双眸が炯々と輝き、真っ赤な舌がぺろりと口吻を舐めた。ぐぐっと沈んだその肉体が、次の瞬間風に煽られる羽毛の如く軽々と跳躍する。
 真上から落ちた影に気づいて、アトラスははっと天を振り仰いだ。
 驚愕を張りつかせた顔が抉られ、ぱあっと血液が舞った。獣のような絶叫を上げながら、アトラスが顔面を押さえて仰け反る。
 好機を逃すまいと立ち上がったアレンは、太腿の激痛に耐え切れずつんのめる。そこにタイミングを見計らっていたかのように、コナンの魔術が発動した。
「ベホイミ!」
 一瞬にして機能を取り戻した健脚が大地を蹴る。アレンは一陣の黒い風となって、邪神の傍らを吹き抜けた。