「やったのか?」 地面に片膝をついたままコナンが尋ねてくる。仕立てのよい服のそこここから血を滲ませているが、不思議と顔だけにはこれっぽっちの傷もついていない。単なる偶然か気合の技か、判別のつかぬ現象である。 「いや、多分逃げた」 アトラスのいた地点を中心として大量の血飛沫が広がっている。かなりの深手を負わせたはずだが、相手が邪神となれば致命傷までには至るまい。今回は痛みわけといったところか。 「……つっ」 コナンの腕の中でナナが小さく身じろぎをした。状況を把握しきれずにぼんやりと彷徨った瞳が、何の前触れもなく強い光を取り戻す。 「アレン、後ろ!」 振り返るより早く、アレンは反射的に体を斜めに傾けた。 殺気が通り過ぎた一瞬後、アレンの上腕部から血が勢い良く吹き上げた。完全に避けたつもりだったが、鋭利な爪の先端が触れていたようだ。 「大丈夫?」 「どってことねぇよ!」 その言葉通り、傷自体はそれ程深いわけでない。しかし掠め過ぎただけで装甲ごと肉を抉る爪の鋭さを思えば頂にぴりぴりとした緊張が走る。下手をすれば一噛みで腕ごと持って行かれそうだ。 「一難去ってまた一難か」 砂埃を上げて襲いかかってくるキラータイガーに向けて、コナンは剣を構えた。 流麗な一撃が空振ったのは想定の範囲内。慌てず騒がず、真上に跳躍した魔物の腹目がけてコナンはすっと指を翳す。形の良い爪の先端に眩い朱金の輝きが宿った。 「ベギラマ!」 炎の塊は獣毛を焦がし、皮膚を破り、内臓を焼いた。耳を塞ぎたくような絶叫を上げながら、キラータイガーが空中でもんどりうつ。凶暴な魔物はそのまま背中から地面に叩きつけられるかと思われた。 だが寸でのところでバランスを取り戻すと、キラータイガーは猫を髣髴とさせる動きで砂地に降り立った。闘志衰えぬ双眸で末裔達をねめつけ、次なる獲物を定めて高々と跳躍する。 「うわっ」 巨大な前足に押し倒される格好で、アレンはどうっと仰向けに転がった。 生臭い息が頬を掠め、凶暴なあぎとが眼前に迫った。鋭利な牙から身を守るものは何もない。握ったままの剣は魔物の後ろ足に押さえ込まれてびくとも動かないのだ。 「くっ」 もがくアレンの喉元に牙が触れたその時、不意に大気がしんと沈黙した。 何処からともなく湧き出した黒い光が魔物を包み込んだ。キラータイガーはかっと目を見開き、熱湯を浴びせられたかのようにアレンの上から跳び退る。不吉な黒い輝きを体に纏ったまま、魔物は苦悶の形相で七転八倒を始めたのだ。 「何だ?」 「ザラキ……?」 アレンの呆気に取られた呟きにナナの緊迫した囁きが重なる。不安と絶望に彩られたナナの声は、何事かと振り返らせる力を持っていた。 ナナは瞬きも忘れた瞳でじっとコナンを見上げている。ドレスを握り締めた拳が、押さえ切れぬ動揺を込めて細かく震えていた。 「……どうしてコナンがザラキを使えるの?」 コナンは何時ものように涼しげな顔で腕を組む。けれどその瞳の奥に、諦観に似た決意のがあるのをアレンは見た。 「僕の中にはゾーマがいる。叔父上と同じように古の魔王が宿っている」 「そんなのあたし達だって一緒でしょ?」 ハーゴンの話によれば、それはロトの血脈全てに言えることだ。アレンにだってナナにだって、ゾーマの意識は眠っている。 「君達とは違う。僕のゾーマは完全に覚醒していて、こうしている間にも語りかけてきている。どうも僕は、叔父上以上にゾーマに気に入られているらしい」 「だって……どうして? 何時からそんなことになってるの?」 ハーゴンに故郷を破壊された彼女にとって、かけがえのない仲間であるコナンがその象徴ともいうべきザラキを使った事実は衝撃だ。何時もの強気は消え失せ、途方に暮れた迷子のような顔をしている。 「気付かなかっただけで、多分生まれた時からゾーマは僕に語りかけていたんだと思う。美しくないことに、偏頭痛と思い込んでいたものがそうではなかったというわけだ」 「追い出しちまえよ、そんな奴」 「これはロトの血と同じなんだよ、アレン。ゾーマは僕を形成する一部分で、髪や爪のように切り離せるものではない。尤も宿主は僕なのだから、居候に大きな顔をさせるつもりはないがね」 コナンは思い切り皮肉っぽく肩を竦めて見せた。 「僕はせいぜいこの力を利用しようと思っている。詠唱の要らないザラキは役に立つ……現に今はアレンを助けることが出来た。ベギラマでは間に合わなかった」 「だめよっ」 ナナは激しくかぶりを振った。 「そんなことをしてたら何時かシドーに魅了されちゃう。心も体も染められてハーゴンみたいに……」 「僕はそう簡単には負けないよ。君達だって、僕が飲まれそうになったら助けてくれるだろう?」 コナンは一度ゆっくりと瞬きをした。 「僕は叔父上のようにはならない」 アレンはこの時、トーナメント初日のコナンの言葉をようやく正確に理解した。 その冷めた表情や口振り程、コナンに余裕などないのかもしれない。何時負けるとも知れない不安は藪に潜む獣の如く、隙あらば心を食い荒らそうと目を光らせているのだ。だからこそコナンは、あんならしくもない台詞を口にしたのだろう。 「お前……」 アレンは開きかけた口を閉じた。心の中身が巧く言葉にならない。 一際大きな咆哮が響き渡り、三人ははっと我に帰った。 全身の筋肉を波打たせながら、キラータイガーが起き上がった。その体が大きく震えた瞬間、纏わりついていた死の力が水滴の如く弾け飛ぶ。 「効かなかったか」 忌々しげに舌打ちし、コナンが次の術に備えて身構える。 アレンもナナも同様に臨戦態勢を取ったが、ザラキの衝撃は拭い切れぬままだ。目の前の強敵を見据えながら、戦闘に専念出来ないことにひどい苛立ちを感じる。様々な感情を乗せた風が、広いコロシアムを吹き荒れる。 低く唸りをあげながら、キラータイガーは末裔達の顔を順繰りに睨みつけていく。その肉体が月色の輝きを帯びたのには、何の前触れもなかった。 光は虚空で拳大の玉と変じ、三人の体に吸い込まれた。一瞬白銀色に輝いた掌をまじまじと見つめた後、アレンは顔を上げてキラータイガーを見た。 「……お前が月の紋章の守護者?」 キラータイガーは銀色の髭を上下させ、低く落ち着いた男声でそれに答えた。 「二人の守護者に続いて私もお前達に紋章を与えよう。お前達は強い。邪神を追い払ったその力なら、精霊神ルビスを復活させることも可能だ」 アレンは唖然とし、それからむっと唇を尖らせた。先程抉られた腕の傷がずきずきと痛む。 「だったら最初からくれればいいだろ。いってぇなあ、見ろよコレ」 「悪く思うな、私もお前達と戦ってみたかったのだ」 そこでうめき声がして、三人と一匹は一斉に声の方向に目をやった。意識を取り戻したデルコンダル王が、全身の疼痛に歯を食い縛りながら上半身を起すところだ。苦痛に満ちた渋面が、キラータイガーを認めた途端驚愕に染まる。 「私が人里に降りたのは、お前に頼みごとがあったからだ」 キラータイガーが親しげにデルコンダル王に語りかける。誠意に満ちた声の響きに感化されたか、王も居住まいを正してそれに向かい合った。 「そなたは一体何者だ?」 「古くからこの島国に住まう精霊だ。お前が人の王ならば、私はさしずめ山の王と言ったところだ」 キラータイガーは王と適度な距離を置いて座り、尾を揺らしながら言葉を続けた。 「お前がこの国の命を愛するように、私もまた山に住む命を愛している。山は私の王国であり、私の全て。そこに人が土足で入り込んでくるのなら私はこれからも容赦しない。人には人の、野のものには野のものの生きる場所があろう」 厳つい魔物の思わぬ申し出に、王は野太い眉頭を寄せた。 「だが我らは山の木々や石で家を建て、肉で腹を満たさねばならぬ。生きるための行動を批難される謂れはない」 「この国にはもう十分な建造物があり、広い牧草地に数多の家畜がいる。一体これ以上何を求めるのだ? 過ぎた欲望は災疫を招くぞ」 「……」 「山はこの国に暖かい家と澄んだ水、数多の食料を与えて続けてきた。山がこの国を育てたのだ。図体ばかりでかくなった子には、そろそろ乳離れして欲しい」 キラータイガーの台詞に王は唇を歪ませ、それから肩を小さく揺らして笑った。腹の痛みさえなければ呵々大笑といったところだろう。 「すぐには無理だ。山で獣を狩り、木を切って生計を立てている者も数多いる。その者達から生活の糧を奪うことは出来ぬ」 「……」 考えあぐねるよう長い髭を上下させるキラータイガーに、王はにやりと唇を歪ませて見せた。 「だが努力始めよう。デルコンダルは、何時までも母の懐にしがみついているような惰弱な子ではない」 「……私達は共存出来る存在だと信じている」 デルコンダル王は眉を持ち上げて同意し、それから首を傾げて尋ねた。 「そなた程の力ある存在なら、山で余を食い殺すことも可能であっただろう。何故そうしなかった?」 「私はお前と殺し合いではなく、話し合いをしたかったのだ」 淡々とした口調でそう答えると、キラータイガーはゆるりとコナンに顔を向けた。人には及ばぬ叡智を湛えた瞳が真っ直ぐに少年を捉える。 「死の魔術は邪神の加護。本来なら人が扱ってよいものではない」 「……重々承知しております」 「決して飲まれぬよう、常に光を身のうちに持て。先祖がお前を導き、友がお前を守ってくれるだろう」 コナンは何時ものように余裕たっぷり微笑んで優雅に頭を下げる。それに頷き、キラータイガーはくるりと踵を返した。 「何処行くんだよ?」 「山に帰る。人里は私の存在すべき場所ではない」 静かに歩み去っていくキラータイガーの姿は徐々に薄らぎ、やがて大気に完全に溶け込んで消える。桃色の風はコロシアムを一周し、それから西の山脈地帯に向けて吹き抜けていった。 「……全く、とんでもないトーナメントだったな」 土と血に塗れたマントを摘み上げたコナンが顔を顰めた。半日かけて素材と色と美しさを選び抜いた衣装だというのに見る影もない。せっかく見立ててやったナナのドレスも台無しだ。 ナナは何か言いたげにじっとコナンの横顔を見つめたが、結局その唇が開くことはなかった。一度俯くと、胸に蟠った感情を押し出すようにふうと息をつく。続いて放たれた能天気な台詞は、何処か虚勢じみた代物だった。 「あーあ、疲れちゃった。それにしてもコルセットってホント窮屈。前はそんな風に思わなかったのに何でだろ?」 「太ったんじゃねぇの?」 アレンに悪気はない。悪気はないがデリカシーもない。 鬼のような形相をしたナナがバギを連発し、それに追われるアレンが逃げていく。残されたコナンは王と顔を見合わせ、やれやれと大仰に肩を竦めた。 大騒動から一週間後、三人はデルコンダルを出航した。三つの紋章を集めた彼らが次に目指すのは、遙か南の孤島ザハン……ルビスとその従者が見守る島だ。 船の手伝いを終えて甲板に出たアレンは、日を浴びて輝く白金の彫像と、それを忌々しそうに見上げるコナンの姿に気付いた。 アレンとコナンとナナが奇妙なポーズを取らされたその彫像こそ、英雄と認められた末裔達に与えられた褒美である。彫像作りはデルコンダル王の長年の趣味で、これも王自ら彫刻刀を振るった品であるらしい。 「確かに銀色に輝く、この世に二つとないものだ。……決して美しくはないが」 彫像を見上げたまま、コナンは振り返りもせずにそう言った。 「それにしても悪趣味な像だ。流石に覆面マント下穿き長靴趣味の御仁の血を引かれるだけのことはある」 ぎらぎら反射する光に射抜かれて、コナンの青い瞳が顰められる。 「売ることも出来ない、だからと行って持ち歩くには邪魔すぎる。ザハンに行く途中で沈めることにしよう」 「そっかな、俺は結構かっこいいと思うけどな」 「君と芸術について語り合う日は永遠に来ないようだ」 コナンは困ったものだと嫌味臭く首を振る。何時もならかちかちと歯を鳴らして噛みつくところだが、今日のアレンはそうしなかった。じっと佇んだままのアレンを不審に思ってか、コナンがようやく振り返って首を傾げる。 「……何か用でも? そんなところに突っ立って鬱陶しい」 「あのさ、お前前に言ったじゃん。お前がもし、お前でなくなった時は俺らで虹の橋を架けろって」 「言ったが何か」 「もしお前がハーゴンみたいにおかしくなったら、俺とナナは世界樹の時みたいにお前を元に戻す方法を探す。世界中探し回って絶対にどうにかしてやる」 アレンはふん、と鼻から息を吐き出した。少年じみた頑なさがその顔を覆う。 「ちゃんと覚えとけよ。絶対忘れんなよ」 コナンは瞠目した後、きゅっと口の端を持ち上げて微笑む。それはコナンにしか出来ないコナンの微笑みだった。 「けどなぁ、俺、んな面倒なことホントは嫌なんだからなっ。絶対に飲み込まれんなよっ」 「勿論だとも。何が悲しくて僕の美しき魂をゾーマにくれてやる必要があるんだ。まあ見ていたまえ、僕の方がゾーマを飲み込んでみせるから」 コナンがふてぶてしく頷く。その表情が出る限り大丈夫だろうとアレンは思った。 |