地下の都と伝説の歌<1>


 不吉な予感を孕んだ生温い風が、甲板にいたアレンの項を撫ぜた。
 弾かれるように見上げた空は渦巻く暗雲に覆われつつある。ごろごろ不機嫌そうに唸る雲間から水滴が滴り始め、それは瞬く間に目を開けていられない程のどしゃぶりに変じた。
 船員達がずぶ濡れになりながら帆を畳む頃になると、南からの強風が海上に吹き荒れていた。穏やかだった海は荒々しい牙を向き、波や渦を巻き起こしては船を海底に引き摺り込もうとする。圧倒的な自然の猛威に人々は成す術もなく翻弄され、ただ沈まぬことを祈るばかり。解体しなかったのが奇跡のような大嵐だった。
 短い嵐が過ぎると、眩しい陽光が労わるように船体を包み込んだ。急激に上昇していく気温の中、船乗り達は汗だくになりながら船の補修を開始する。
 アレンはマストに攀じ登り、帆の張り直しに悪戦苦闘している。強風でロープが何本か切断されたらしく、彼の馬鹿力を以ってしても思うように作業が捗らないのだ。
「おいボウズ! ちょっと降りて来いや!」
 遥か下方から胴馬声が上がった。額を拭いながら甲板を見ると、赤銅色の肌をした男が丸太のような腕を組んでこちらを見上げている。良くて山賊、悪くて海賊にしか見えないこの男こそ船長だ。
 尤もその風体から受ける印象は外れていない。彼は元々デルコンダル海域を荒し回っていた海賊で、嵐で遭難しかかったところをヘルマンの貿易船に拾われたのだ。以来全うな船乗りとして働いていた彼は、ヘルマンが末裔達の協力者を募った時、迷いもなくそれに応じた。三人を海の脅威から守ることが、ヘルマンに対する何よりの恩返しになると考えたのである。
「今行く!」
 アレンは命綱を緩めながらするするとマストを降りた。甲板に降り立つのを待ちあぐねていたかのように、船長がどかどかと歩み寄ってくる。
「応急処置じゃ無理だ。何処かの港できっちり修理しねぇとザハンまでもたねぇぞ」
「どっかの港っつたって、この辺に町なんかあったっけ?」
 アレンは日々睨めっこしている海図を思い浮かべた。南を目指した船は大きく西に流され、今は名もない海域の只中に浮かんでいるようだ。
「デルコンダルに戻んのか?」
「いいや、このすぐ近くにペルポイっつー町がある。そこに行きゃあ船の修理も出来るし飯の調達も出来る。いいか?」
「そりゃ構わねぇけど……ペルポイなんて何処にあるんだ? 地図には乗ってねぇよな?」
 アレンが首を捻りながら尋ねると、船長はその反応が楽しいという風に人の悪そうな笑みを浮かべた。
「そりゃそうさ。秘密の都だからな」
「秘密?」
「行ってみてのお楽しみだ」
 そんなやり取りののち、一向は急遽予定を変更してペルポイ半島への針路を取る。風の助けを借りながら騙し騙し船を走らせると、やがて水平線の向こうに茫漠たる陸影が浮かび上がった。


 そこは一見、荒々しく切り立った岩山が聳えているだけの岩島だった。
 だが注意深く近寄ってみると、分厚い岩壁が何枚も入り組んで複雑な迷路を成しているのが分かった。器用な操舵で海の道を潜り抜けていくと、やがて広く開けた港へと辿り着く。
 そこにあるものを上手に利用した自然の港だ。思い思いに停泊した船から橋渡しの板が伸び、船乗り達が岩棚や砂地に忙しく行き来している。荒々しい足音や野太い哄笑が反響して耳を聾する程賑やかだが、町というには奇妙な風景だった。
「ここがペルポイ?」
 予想外の風景にナナが首を傾げる。きょときょと周囲を見回す末裔達の横を擦り抜け様、船長が顎をしゃくって彼らを呼んだ。
「こっちだこっち。ついてきな」
 大人しく従って歩くと、巨大な岩山を背後に従えた建造物に辿りついた。
 扉の向こうに広がるのは薄暗く閉じられた空間だった。ステンドグラスを通して差し込むささやかな光の中に、柔和な微笑みを湛えた精霊神ルビス像が浮かび上がる。女神の背後に守られた観音開きの扉は、微弱な魔力を放っているようだ。
 ルビス像の傍らに立つ神父が静かに一向を振り返る。神に使える者にしては冷徹な顔つきだった。
「このペルポイには慈悲深き精霊神の心が宿っている。哀れな罪人を守り匿い、慈しむのが町の役割」
 神父は一人一人の表情を入念に探っていく。油断のならぬ視線が末裔達に差し掛かった瞬間、湖面のように静かだった面に初めて感情らしきものが浮かんだ。
「この三人には黄金の鍵を手にする資格がないようだが」
「んな冷たいこといわねぇで入れてやってくれよ」
 巨体を縮めるようにして船長が情けを乞うても、神父の頑なな態度に変化はない。
「お前もよく分かっているだろう。ペルポイは罪人が住まうことを許される都。この三人からは罪の匂いがしない……」
「……」
 コナンは微かな怒りを覚えつつ、額にかかる前髪を掻き上げた。初対面のこの男に、己が抱えた罪をどれだけ見通せるというのか。
「お前達は罪を犯す必要のない環境で生きてきた人間だろう。ここでなくとも、お前達を受け入れてくれる場所は数多あるはず。早々に立ち去られよ」
「確かに僕達は恵まれた環境に生まれ、衣食住に不自由することなく育ってきました。敷かれたレールの上を大人しく走ってさえいれば、これからの人生も補償された身の上です。僕自身は進んで罪を犯したことはないし、これからも犯すことはないでしょう」
 背後でアレンとナナがうんざりと退くのが感じられた。コナンの苛立ちを敏感に感じ取り、触らぬ神に祟りなしとばかりに距離を置いたのだろう。賢明な判断だ。
「ですがそう思い込むことこそ、最も傲慢で最も罪深いのかもしれませんよ。自覚なき罪人ほど始末に負えない者もいない」
 言葉使いこそ丁寧だが声の響きは挑戦的だ。腕を組み、心持ち頤を上げて相手を見据える姿は、喧嘩を売っているとしか思えない。
 鼻白む神父にコナンは素早く歩み寄る。止めとばかりに発した囁きは小さくて、神父の耳にしか届かなかった。
「生まれてきたこと自体が罪の証である人間もいますからね。……僕のように」
「……」
 頑なな視線がぶつかり合ったのは一瞬で、案外素直に神父は勝ちを譲った。
 軽く眉を持ち上げて表情を崩すと、神父は首元の細い鎖に手を掛けた。法衣の中から手繰り寄せられたのはルビスの聖印ではなく、とろりした光沢を放つ小さな鍵。美しい黄金のそれは、扉から感じられるのと同じ魔力を帯びている。
「罪深き子らよ。お前達に黄金の鍵の許しを与えよう」
 開錠された扉がゆっくりと左右に開いていく。狭い石室に揺らめく松明の炎が、地下へと続く階段を照らし上げた。
「ようこそ、罪人の都へ」


「うわあ、見て見てすごーい!」
「面白れー」
 アレンとナナは手摺から身を乗り出して大はしゃぎだ。今にも転げ落ちそうな二人に保護者的注意を向けながら、コナンもまた二人に並んで眼下を一望する。一拍の沈黙を置いて、ほう、と感嘆混じりの溜息が漏れた。
「これは素晴らしい地下都市だ」
 大地の精霊の力を借りてドーム状に刳り貫かれた空間には、巨大な都が鎮座していた。その広さも建物の数も賑わいも、ロト三国の王都に匹敵するだろう規模である。
 町を囲む壁に沿って長い階段が螺旋を描いている。手摺越しに見下ろせば、この世に二つとないだろう都が端まで見渡せるのだ。それは他に類を見ない絶景だった。
 街中に降り立てば、太陽代わりの魔術の光が頭上から燦々と降り注ぐ。夜になると光は弱められ、外と変わらぬ闇が町を包み込むらしい。
「船の修理にゃ十日くらいかかる。その間ボウズ達はこの町で遊んでな。じゃあな」
 そう告げると、船長は部下達を引き連れてとっとと町中に踏み入っていく。筋骨隆々たる船乗り達の姿が人ごみに紛れた頃、ナナがようやく基本的な疑問に首を傾げた。
「何だってこの都、地下になんかあるのかしら?」
「さあね」
 コナンは軽く肩を竦めた。
「何にせよ興味深い都だ。少し散策してみることにしよう」
 商店街には屋台のような簡素な作りの店が軒を並べていた。雨や風の心配がないので、この程度の建物で十分なのだろう。
 露天には様々な商品があった。日々の生活用品から新鮮な魚や野菜は勿論、珍しい異国のアクセサリーや宝石細工の刀剣などが無造作に並べられている。隠された町であるにもかかわらず、物品の豊富さは地上のそれより上だ。
 アレンとナナは食べ物の店を見つけては買い食いに忙しい。イカの焼いたのやらりんごに飴を絡めたのやらを手当たり次第に頬張る二人を尻目に、コナンは一人情報収集に勤しんだ。
「なるほど……ここは罪人の隠れ家か」
 陸に上がれなくなった船乗りや国を負われた犯罪者などが隠れ住んだのが始まりらしい。そのうち噂を聞きつけた商人や旅人などが流れ込み、長い年月をかけて一つの町となったのだ。船長や神父の言葉の意味をようやく正しく理解して、コナンはふむふむと頷いた。
「罪人の町となれば闇ルートで様々な物品が流れ込んでくるはずだ。この町で何か掘り出しものが見つかるかもしれ……」
「ふぉれぶひひゃひひはい」
「あひゃひほ」
「喋るか食べるかどっちかにしたまえ!」
 青筋立てて怒鳴りつけると、二人は食べることに専念しだした。コナンはいらいらと爪先を踏み鳴らしつつ説教を開始する。
「大体歩き食いとは美しくない。食事とは本来、腰を落ち着けて心静かに楽しむものだ。歩き食いでは食材と調味料の美しいハーモニーも分からないだろう」
「文句ばっか言ってねぇでお前も食ってみろよ」
 断る間もなくアレンが口中に串焼きを突っ込んでくる。吐き出すのも勿体無くて美しくないので、コナンは仕方なく口の中のものを咀嚼し、ごくんと飲み込んだ。
「美味いだろ?」
「……鶏肉とソイソースの香ばしき二重奏だった」
 不本意ながらも頷いて、コナンは刺繍を施したハンカチで口を拭う。焼き菓子を頬張りながら二人を眺めていたナナが、ふと弾かれたように顔を上げたのはその時だ。
「どうし……」
 ナナの仕草を不審に思う間もなく、アレンとコナンの耳にせせらぎのような歌声が流れ込んできた。
 商店街に面した広場で、銀色の竪琴を携えた少女が歌っていた。白い肌をした華奢な少女で、淡い色の金髪を二本の三つ編みにして背に流している。水色の瞳はここからは見えない空に憧れるかの如く、一心に土の天井を見上げていた。
 少女の放つ歌声は、緩やかに大気に溶け込み町の隅々にまで行き渡った。細く可憐な声質でありながら、どっしりと腹に響く力強さも兼ね備えている。王宮が抱える歌姫でもこれ程の声量と音域の持ち主はいない。
「これはこれは。地下迷宮に迷い込んだ可憐なナイチンゲールだ」
「すごーい、ステキな歌声。あたしも練習したらあんな風になれるかなぁ」
「絶対無理だから練習すんなよ」
 にべもないアレンの言葉に、ナナは頬を膨らませた。
「何よぉ、そんなこと分からないじゃない」
「お前なぁ、いい加減に自分が音痴なこと認めろよっ。この前お前の鼻歌で船乗りが海におっこちたこと忘れたのかよ!」
 最近ようやく音痴を自覚しつつあるナナは、アレンの容赦ない攻撃にたじたじと後じさった。
「お、音感はちょっと悪いかもしれないけど、努力すれば出来ないことはないってお父様が言ってたもん……。ね、コナン、そうよね?」
「……ナナ。僕は生まれながらのナイトだ。アレンの味方をするくらいだったら無条件で君の味方するのが僕の生き方であり、事実これまでそうしてきた」
 コナンは苦しい思いで目を伏せた。
「だから今日も君にうんと頷きたい。頷きたいがこのことに関してはどうしても首が縦に動かない。ああ、僕の心はこと美に関して、どうしてその場凌ぎの嘘がつけないほど清らかであろうとするのか……」
 巻き起こった風の余波を頬に受けて、歌姫が不思議そうに首を傾げた。