地下の都と伝説の歌<3>


 以来コナンは時間の許す限りアンナの家に通い、彼女の歌声に耳を傾けている。吟遊詩人ガライの遺した歌から、ギガデイン作成のヒントを探ろうと目論んだ。
 コナンが古の歌を頭に叩き込んでいる間、ナナは文献や魔術書を求めて歩き回る のに忙しい。それぞれの役目を終えて宿に戻った二人は、次は額を突き合わせて詠唱の組み立てに勤しむ。ちなみにその間完全放置されているアレンは、寂しく宿の犬に遊んで貰っているようだ。
「わたしの歌が勇者様のお手伝いになるなんて夢みたい」
 竪琴を爪弾く手を休めてアンナが弾んだ声をあげた。はにかんだ微笑が、年の割りに幼い顔立ちをふわりと覆う。
「僕こそこうして君の歌を独り占め出来て光栄だ。勇者の血筋に生まれてきた甲斐があったというものだよ」
「わたしの歌で良ければ幾らでも聞かせてあげるわ」
「それは嬉しいな。……だが本音を言えば」
 コナンはさりげなくアンナの手を取り、手首を親指の腹で撫ぜた。
「ガライの歌でなく、君自身の歌を僕だけの為に歌ってもらいたいものだ」
「……」
 恥ずかしいことこの上ない二人のやりとりに、我慢ならんと弦を震わせるのはテーブルの上の竪琴だ。
「やいやいパイナップル頭! どさくさに紛れてアンナを口説いてんじゃねーぞ!」
「それは誤解です。僕はアンナの歌に感動し、気持ちを正直に述べているだけのこと。疚しい気持ちなどありませんからご安心ください、お父上」
「てめぇにお父上呼ばわりされる覚えはねー!」
「うるっさいわねえ」
 隣室で薬草の調合をしていた魔女が顰め面を覗かせた。彼女はこの町唯一の薬師であると同時に医師であるらしい。まるで魔術のように数々の病を癒すことから、尊敬の意を以って魔女と呼ばれているのだ。
「アンナ、そろそろ広場に行く時間よ。ぎゃあぎゃあうるさいからソレも連れてってよ」
「ソレ呼ばわりすんな! 俺はアンナにちょっかい出そうとするこいつを……」
「はい、お母さん」
 アンナは素直に頷いて立ち上がる。町の広場に赴き、流離う人々に歌を聞かせるのは彼女の大切な日課なのだ。
「お父さん、一緒についてきて。お父さんが聞いてくれている時の方が上手に歌えるの」
「お……おう、仕方ねぇな。全く、アンナは何時まで経ってもお父さんっ子だな!」
「それじゃあコナン、少し外すけどごゆっくり」
「気をつけて」
 当初は広場までアンナを送っていたコナンだが、そのうち彼女がそう扱われることに寂しさを感じているのを知って止めた。彼女は盲目であり、それ故必要以上に庇護されることにひどく敏感だ。
 尤もレディのエスコートはコナンにとって極々日常的なことである。襲われる心配のない、否、襲われても心配のないナナでさえ彼は一人で歩かせることを良しとしない。何故なら彼は生まれながらのナイトであるからだ。
 アンナがゆっくりとした足取りで出て行くのを見送ってから、魔女は何時ものようにコナンに微笑みかけた。
「それじゃそろそろお茶にしましょうか」
「そうですね」
 コナンは立ち上がり、勝手知ったる台所に立って支度を始める。この家に訪れるようになって、彼は自分がとても上手く茶を淹れられることに気づいた。新しい特技の発見は喜ばしいことだ。
 尤もこんな風にのんびりした時間を過ごせるのもあと数日だ。末裔達は五日後の早朝、買いつけ商人の船に乗ってテパに旅立つことになっている。
「ありがとう」
 ほかほかと湯気を立てるカップに目を細めて、魔女は組み合わせた両手に細い顎を乗せた。
「先祖の因縁に縛られて生きるのは辛くない?」
「誰にだって背負うものはあるでしょう。どうしようもならないことに泣き言を言うのは美しくありませんよ」
 コナンは魔女に向かい合う位置に腰を下ろし、ティーカップを引き寄せた。
「君はとてつもなく重いものに縛られているって顔しているわ。アレンもナナもそれぞれの運命を背負っているけど、君のは一段と闇が濃いようね」
「何故そんなことが分かるのですか?」
「あたしはむかしむかーし、ロトと世界中を旅してたくさんの人生を見てきたから。……なんて言ったら君は信じる?」
「……五百年の時を生きているとおっしゃるのですか?」
「そうよ。訳ありで長生きなの」
 コナンは鋭く魔女の表情を探った。美しい女の面は恰も大理石の仮面のよう、にこやかな笑みを映しながらも決して本心を覗かせない。彼女の言葉は途方もない冗談のように聞こえ、また揺るぎない真実のようにも思えた。
 尤もコナンの受け取り方など彼女にはどうでもよいことのようだ。澄ました表情で一口茶を飲み、そして続けた。
「それに打ち勝つには反する力を持つことね。死には生。闇には光。奪う力には与える力。そうすれば君が負けることはないと思うわ」
「反対のもの?」
「君になら分かるはずよ。……かつてザラキを宿した者もそうして、闇に飲まれそうな心を押し止めていた」
 否応なしに命を奪うザラキに反するのはどのような力か……漠然とは分かったが、それは彼がこの世で尤も嫌う衝動によるものだ。
「……僕の美徳に反します。あれは単なる自己満足に過ぎない」
 コナンの表情が目に見えて強張るのに、魔女は苦い微笑みを浮かべた。
「命に代えて守りたいと思う大事なものはないの?」
「そんな方法で守ろうとは思わないだけです。死んだ方はいい、大事なものを守ったことに満足して天の園へ行くのですから。ですが残された方の苦しみは、地獄の炎で魂を焼かれるかのようですよ」
「……そうね」
「命を救って心を殺す。自己犠牲とはそういうものだと僕は思っています」
「それでも咄嗟に行動してしまうのが人間なのよ」
 魔女はスプーンでゆっくりとハーブティを掻き回した。薄荷の香りが湯気と共に上り立つ。
「ただ大事な人を助けたいだけで、行動の先に待ち受けている死は結果に過ぎないわ。その想いも君は自己満足だと切り捨ててしまうの?」
 難しい顔をして押し黙ったコナンを、魔女は慈愛に似た眼差しで眺めた。
「生きているから幸せになれるとは限らないし、楽しいことがあるとも限らない。それでも大切な人に生きて欲しいと願うのは、多分その人にとって、世界は生きるに値するものだったからでしょうね」
「……」
 コナンはふと眉を寄せた。恋人と引き裂かれ、不義の子を身ごもり、罪の意識に日々苛まれても母は幸せだったのだろうか。彼女が生きたサマルトリアとはそれ程までに素晴らしい国だったのだろうか。
 神聖サマルトリア。偉大なるロトの国。生を受け、死を見つめ、喜びと悲しみと……あらゆる想いを学んだ今は遠いふるさと。
「君は人を傷つけるのが怖いのね」
「あなたは僕を買いかぶっていらっしゃる。僕はそういう死に方をしたくないだけですよ」
 魔女はくすくすと笑った後、真顔で囁いた。
「だったら君は生きるために行動しなさい。生きて生きて、君の死で人を悲しませることがないようにしなさい。残される人の想いを知っている君なら大丈夫。それが君を生かしてくれるはずだから」


「どうかした?」
 コナンははっと我に返った。目の前に座ったアンナの瞳がぼうっとコナンを見上げている。
「……済まない。ぼんやりしていたようだ」
「疲れているのかもしれないわ。詠唱を作ったり旅の準備をしたり忙しいんでしょう?」
「出航が近いからね」
 体調を気遣うように、アンナがそろそろと手を伸ばしてくる。頬に触れた少女の指先は少し冷たい。
「みんながいなくなったら寂しいわ。わたし、あまり親しいお友達がいないから、あなた達と仲良くして貰えて本当に嬉しかった」
「君を放っておくとは、ペルポイの男は節穴揃いと見える」
「わたしの目が見えないせいかしら、なかなか打ち解けてもらえなくて」
 微笑もうとする唇の端に寂しさが滲んだ。
「わたしの目に遠慮しないで、対等に向き合ってくれるのはあなた達と後もう一人。その人も外の世界の人で、時々広場に来て楽しい話をしてくれるのよ」
 ゆるりと少女の視線が持ち上がる。この世の何をも映さぬ瞳は、それ故に穢れのない輝きを宿していた。
「その人……ラゴスも世界中を旅しているんですって。何処かであなた達と会うかもしれないわ」
「そうだね」
 男になど興味ないのであっさり話を流したが、それはアンナの望んでいた態度ではなかったようだ。
 他の男の名に何らかの反応を望むのは、繊細な恋心が芽生えつつある証だ。これまで知らなかった苛立ちにアンナが小さく溜息をついた時、柱時計が時を告げた。
「さて、僕はそろそろ戻るよ」
「あ、待って。わたしも広場に行く時間なの。途中まで一緒に行っていいかしら?」
「勿論だとも」
 コナンとアンナは連れ立って家を出た。二人きりにせんと息巻く竪琴はアンナの腕に抱きかかえられている。
「この道もすっかり通い慣れてしまった。もう何年も前からペルポイに住んでいるような気がするよ」
「この野郎、調子いいことばっか抜かしやがって」
「ペルポイは、コナンが住んでいる地上の町とは全然違うんでしょう?」
「最初は上と勝手が違って戸惑うこともあったが、地下都市には地下都市の美しさがあることに気づいたよ。君の故郷は素晴らしいね」
「てめぇみたいな奴をな、口から先に生まれたっつーんだよっ」
「ペルポイを気に入ってくれた?」
「勿論。何よりここでは君に出会うことが出来た」
「て、てめぇ、涼しい顔して何恥ずかしいこと言ってやがる! つうか俺をきれいさっぱり無視してんじゃねー!」
 コナンどころかアンナにも無視され続け、竪琴が涙声で絶叫する。
「……だったら、何時かまた戻ってきてくれる?」
 ふとアンナが歩みを止めた。祈るように両手を組み合わせた結果、弦を押さえつけられる形になった竪琴がしんと静かになる。
「もしもこの旅の途中……ううん、旅が終わってからでも、コナンが良ければ、このペルポイにきて欲しいの」
「……」
 サマルトリアに戻らずに異国の地で暮らす。ロトの血も王位継承権も捨てて一人の男として生きる。それは嘗て強く望んでいた人生だった。
「わたしね……」
 不意に辺りの温度が急激に下がった。日常の風景が遠ざかるのを感じながら、コナンはさりげなくアンナの肩を抱き寄せて振り返る。
 雑踏の中でコナンと同じ顔した少年が微笑んでいた。白鳥の群れに紛れた黒鳥のように異質な存在でありながら、町行く人々は誰も少年に注意を払わない。彼が放つ邪気は全てコナンだけに向けられていた。
「……バズズか」
 バズズは眉頭を持ち上げ、胸に手を当てて慇懃に一礼した。
「先日はアトラスとベリアルが失礼した。あの二人はどうも喧嘩っ早くて僕も手を焼いている」
「それは奇遇だ。僕にも同じような仲間がいて同じような苦労をしている」
 瞳の色だけ違う面が、そっくり同じ表情を刻んだ。
「話がしたい。時間を割いてもらえるだろうか」
「ここでは落ち着かないので外れに」
「……コナン?」
 身を屈め、コナンは不安そうに睫毛を震わせるアンナの耳元に囁いた。
「済まない、急用が出来たから今日はこの辺で。また明日、必ず君の歌を聞きに行くよ」
 コナンは顔を上げ、バズズに向かって頷く。二人は連れ立ってペルポイの大路を歩き始めた。