万年雪を頂く山々の合間を縫うように、一本の川が北に向かって延びている。山頂から流れ出る雪解け水が、悠久の時を経て大地に刻んだテパの大河だ。 多種族との交わりを嫌った人々が住まうのは、自然に守られた神秘の秘境である。海を渡り、川を上り、霧の漂う森を越えた先にその村はある。血と文化を守り伝えるには最適の場所と言えるだろう。 ナナは舳先に腰かけて、川面を滑る秋風に長い髪を靡かせていた。揺れに備えて柵を握る手は氷のように冷たいが、この場から動く気にはなれない。凍てつくような冷風が心地良く感じられるのが不思議だった。 「風邪を引くよ」 何の前触れもなく、肩にふわりと暖かいものが降りてきた。持ち主の性格を示すように、オレンジ色のマントからは焚き染めた香の匂いがする。 「あ、ありがとう」 コナンはナナの傍らに腰を下ろし、まだ見ぬ村を水飛沫の向こうに見据えるかのように目を細めた。 「もうすぐテパだね。ロトの血筋と並んで君のルーツとなる場所だ」 「テパはムーンブルクに似てるのかな」 「元は一つの民族だったんだ。風習にしろ文化にしろ、何処かムーンブルクに通じるものがあるだろう」 楽しみなような不安なような、複雑な気分だ。失われた故郷の面影を宿す村は、胸に秘めたままの思い出を次々と呼び覚ますかもしれない。優しい過去の追憶に絡め取られれば、二度と浮上出来なくなるような気がして怖かった。 ナナは川面に視線を落とした。波がうねる都度細かい泡が生じ、一瞬の生を終えて消えていく。慌しい誕生と死をしばらく眺めた後、ナナはのろのろと顔を上げてコナンを見た。 「この前、ごめんね」 「この前?」 「ペルポイでコナンがザラキを使った時のこと」 「……ああ」 頭では十分に理解しているつもりだ。コナンに宿るゾーマの意識……シドーの加護は強力な武器であり、彼は生きるためにそれを利用しているに過ぎない。戦場に身を置くものとしての、好悪を完全に切り捨てた判断だった。 だが感情がそれを納得しない。大切な仲間が故郷の仇と同じ術を行使する現実は、ナナに耐えがたい苦痛を齎す。実際ペルポイの戦いでコナンがザラキを発動させた時、ナナの感情はどうにも抑えられぬ程惑乱した。彼女から全てを奪った邪神の力が、コナンまでをも連れて去ってしまそうな恐怖に駆られたのである。 「でもやっぱり嫌なの。コナンがザラキを使うのは見たくない」 言いながら、まるで子供の駄々だと唇を噛む。だがそれは嘘偽りないナナの本心でもあった。 「僕と叔父上の区別がつかなくなりそうかい?」 「そんなんじゃないわよ、分かってるくせに」 弾ける苛立ちが声に滲んだ。ナナはすっかり不貞腐れて、両腕で抱えた膝に顎を押しつけた。 「だがナナ、どんな魔術を使おうとも僕は僕だ。僕の美しさや高潔さは永遠だし、生まれながらのナイトであることも、レディ達の憧れであることも不変だ」 得体の知れぬ煌きを四方に振り撒きながら、何時ものナルシストっぷりを遺憾なく発揮し始める。げんなりと疲れた溜息をついたナナに、コナンはふっと前髪を払いながらつけ加えた。 「そして勿論、君の味方であることにも変わりはない」 「……うん」 切ないのか嬉しいのかナナ自身にもよく分からない。名状しがたい感情に胸がしくしくと痛んだ。 岩と木に守られた自然の聖域に、その村はひっそり息づいていた。千年の文化を伝える村に流れる空気は、外界のそれと違ってとても穏やかだ。 行き交う人々が身に纏うのは、他所では見られぬような民族衣装である。袖口や裳裾に鮮やかな文様が織り込まれた衣服、それと揃いの頭巾、貝殻を模した首飾りと月光を髣髴とさせるピアス。一つ一つが見事に溶け合って、彼らだけの雰囲気を醸し出している。 「ここの奴らって、お前と同じ髪の色してんのな」 総じて小柄なテパの民をぐるりと見渡した後、アレンはナナの巻き毛に視線を落とした。 紫がかった銀髪はムーンブルク人の特徴とされているが、実際のところ国内でもその髪色を持つ者は稀だ。菫の髪は幸福を呼ぶと言われており、儀式や祭りのシンボルとして重宝される。ナナが生まれた時には、ムーンブルクの安寧と繁栄が約束されたとして盛大な祭りが開かれたものだった。 だがこの村ではそれが当たり前の髪色らしい。男は肩に届く髪を一つに括り、女は腰まで伸びた頭巾の隙間から流している。 「あたしの髪はお父様と一緒なの。テパの色なのね」 ナナは髪を一房指に巻きつけ、きゅっと引っ張った。 「テパのレディ達は神秘的で実に美しい。後からそれを称えるポエムをゆっくりと綴ることにしよう」 至極ご満悦な様子でうんうんと頷いてから、コナンはアレンとナナに視線を向けた。 「テパの長老があの家にいらっしゃるそうだ。一族を取り仕切る方なら神殿のことにも詳しいだろう」 コナンが指差した先には緩やかな勾配があり、一段高く盛り上がった丘に小さな家が建っている。この地方独特の濃い葡萄色をした瓦が、穏やかな日差しを浴びて一段と赤みを増していた。 「何でお前がそんなこと知ってんだよ」 「麗しきテパのレディ達が教えてくれた」 見れば数人のテパの娘達が、きゃあきゃあ囁き交わしながらこちらを伺っている。村に入ってからまだ数分も立っていないのに、コナンが何時彼女らと会話して情報を得たのかは謎だ。 「じゃあ行ってみっか」 意気揚々と歩き出したアレンに、コナンとナナが続く。 秋の日差しがぽかぽかと照りつけ、村はまどろむような心地よい陽気に満ちている。低く巡らされた石垣に沿って右に曲がると、様々な種の花が雑居する小さな広場に出た。陽光をたっぷり吸い込んだ敷石には一匹の犬が寝そべっていて、三人を見るとぱたぱた尻尾だけを動かした。 「……やっぱりここは、ムーンブルクに似てる」 胸に鈍い痛みを覚えながら、ナナは口中で呟く。 例えば波模様を模した橋の欄干とか、例えば軒先に垂れ下がるガラス玉の暖簾とか、例えば水泡のように浮かぶ魔術の灯りとか……挙げていけばきりがない。城下町で見られたそれらは異国の文化と交じり合い、若干趣きを変えていたものの、基本的な造形はここにあるものと一緒だ。二つの文化の基が同一である端的な証といえるだろう。 やがて三人は白花の垣根に囲まれた平屋についた。村を一望出来る位置に作られた庭には揺椅子が置かれ、それに小柄な老人が腰かけている。老人は固く目を瞑り、腹の上に両手を組んで眠っているようだ。 「あの爺さんかな?」 アレンが二人を振り返ると同時に、眠っていると思った老人がむくりと体を起こした。 「……誰だ?」 頭巾から覗く髪は艶を失って真っ白だ。だが日に焼けた肌はつやつやと生気が漲り、真一文字に結んだ唇には意思の強さがあった。一族を束ねるに価する生命力に溢れた老人である。 「テパ族の長老、ドン・モハメ様とお見受けしますが」 コナンが進み出て一礼した。ドン・モハメは胡散臭そうに眉を寄せ、愛想のかけらも感じられない言葉を返す。 「余所者だな? 旅の人間がこんな面白味のない村に何をしに来たのやら」 「ルビス様の聖堂に通じる神殿についてお聞きしたいことがあります」 ドン・モハメの厳つい顔に稲妻のような緊張が走った。老人は揺椅子から身を乗り出し、網膜に焼きつけんばかりに三人の顔を凝視する。 「お前達は……」 「僕はサマルトリアのコナン。これはローレシアのアレン。そして彼女はムーンブルクのナナと申します」 「ムーンブルク?」 老人は眉頭をぴくりと動かした。 「姓を持たぬということは……お前達は王家の人間か」 ドン・モハメの関心はそれきりナナに集中したようだ。頭の天辺から足先までをじろじろと無遠慮に眺めた後、苦味を帯びた声で吐き捨てる。 「ムーンブルク王家に生き残りがいたとはな。国を守れなかった王族がよくも生き恥を晒していられるものだ」 「……」 ナナはその場に立ち尽くした。全身に冷たい汗が吹き出し、こめかみの辺りでどくどくと脈が波打つ。普段片手で扱っている魔道師の杖がずんと重みを増して、ナナは危うくそれを取り落としそうになった。 「その娘に話すことはない。席を外してもらおうか」 「ちょっと待てよ爺さん! いきなり何だって……」 アレンが牙を剥きかけるのを、ナナはようようのことで制した。固く強張った口の端を懸命に持ち上げて二人に囁く。 「あたし、向こうに行ってるね」 「ナナ」 コナンの声を振り切ってナナは足早にその場を去った。菫色の巻き毛が坂道の向こうに逃げていくのを見送って、コナンが老人を振り返る。 「幾ら何でも酷くありませんか。ナナが一体あなたに何をしたというんですか」 「何もしなかったのだよ、あの娘とその一族はな」 老人はしんどそうに背凭れに体を預け、揺り椅子を鳴らした。きい、きい、と、耳障りな音を立てながら、終わりのない苦痛を吐き出すかのように長々と溜息をつく。 「わしには娘夫婦がいた」 老人は不意に抑揚のない声でそう告げた。 「ムーンブルクに住んでいた娘夫婦は未だに骨一片見つからん。民を守る義務を果たさなかった王族がのこのこ目の前に現れれば、文句の一つも言いたくなるのは遺族の自然な感情だと思うがな」 「……」 コナンは沈黙せざるを得なかった。 ドン・モハメの言葉通り、民を守るのは王族の役目だ。義務を果たせなかった王族は民衆に罵声を浴びせられ、石を投げつけられても耐えねばならぬと教えられている。 ナナがどんな想いでこの旅に望んでいるのか、アレンとコナンはよく理解している。だが仲間として彼女を庇ったところで見苦しい言い訳にしかならない。ムーンブルク王家が邪教の蹂躙を許したのは揺るがしようのない事実なのだ。 押し黙った二人の少年を眺めて、ドン・モハメは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。 「それでロトの末裔が我らの神殿に何の用だというのかね」 ナナは石垣に腰を下ろし、茜色に暮れていく空をぼんやりと眺めていた。 ふと気配を感じて足元に目をやれば、一匹の犬がちょこんと座ってナナを見上げている。栗色の犬の四肢は先端だけが真っ白で、それが靴下を履いているみたいでとても愛嬌がある。ナナは微笑んで犬を抱き上げた。 柔らかな体を抱き締めると、凍りついていた心がようやく温もりを取り戻していった。 「あたしね、あなたに似た子とずっと仲良しだったのよ」 ぺろぺろと頬を舐めてくる犬に、ナナは囁いた。 「栗毛のわがままだけどかわいい女の子。あたしはその子と一緒に寝てよくばあやに怒られたの。ばあやは専用の寝床を作ってくれたけど、あの子は甘えん坊だったから夜になるとあたしのベッドに入りたがって……」 足音に気付いて振り返るとアレンとコナンの姿があった。唇をへの字に結んでいるアレンは怒っているわけではない。何と声をかけて良いのか分からないのだ。 「大丈夫かい?」 「……うん、あたしは平気よ」 顔を覗き込んでくるコナンに、ナナは強張った微笑みを向けた。 「どうだった? 神殿のことは聞けた?」 「テパ族の神殿は海のど真ん中にあるんだとよ」 「大体の位置も把握出来た。但し……その前に満月の塔で一仕事ある」 「満月の塔?」 「あれだよ」 鸚鵡返しで尋ねるナナに、アレンが顎で南を指し示した。星が瞬き始めた空を背景に四角錐形の塔が聳えている。 「あの塔には神殿に入るためのテパの神器、月のかけらが納められているらしい。巫女達は月のかけらで海を割り、海底を歩いて神殿に赴いたそうだ」 「じゃあ明日はあの塔に行くのね」 ナナの腕からぴょんと犬が飛び出した。転がるように走り去っていく後姿を見送りながら、ナナはローブについた草を払って立ち上がる。 「あの塔には月のかけらを守るための罠が仕掛けられているそうだ。だがその解除方法はここに叩き込んで来たから心配ない」 コナンはこめかみの辺りをとんとんと指で叩く。 「神殿のこと、教えて貰えて良かった。その……あたしのせいでだめになるんじゃないかなと思ってたから」 「僕達は紋章の持ち主だ。精霊神ルビス様の復活はテパの民が望むところでもあるんだろう」 満月の塔を眺める三人の瞳に、最後の日の光が踊って消えた。 |