テパの秘宝と満月の塔<2>


 三人は村の隅にあった古い馬小屋を借りて、そこを一夜の宿とすることにした。
 馬屋としての役割を終えて久しいそこはやや埃っぽかったが、獣臭さは完全に抜けていて過ごし易い。人の良い馬小屋の持ち主は母屋の風呂を貸してくれた他、質素だが十分な量の食事まで振舞ってくれた。
 明日の打ち合わせを終えた後、コナンとナナは何時ものようにギガデインの生成に忙しい。夜に弱いアレンは既に毛布に包まって夢の中だ。
「ギラとかバギは文献に詠唱の参考構成がたくさんあるけど、ギガデインは情報がないから難しいね」
 ナナは魔術書をぱらぱら捲りながら小さな溜息をつく。
「勇者のみに許された特別な魔術というからね。他の詠唱を作るようにはいかないさ」
 小さく首を竦めて、コナンが書物に視線を落とす。文字列を追う目の動きが止まったのはそれから数秒経たずしてのことだ。
「発想を変えてみようか」
「……どういうこと?」
「ロトのギガデインを再現しようと思うから上手くいかないのかもしれない。今持っている情報を元に新しいギガデイン……僕達のギガデインを作るんだよ」
 ナナはきょとんと瞬きをした後、意味を飲み込んでぱっと表情を輝かせた。伝説の魔術を自己流に組み立て直そうとは、大胆且つ刺激的な挑戦だ。
「面白そう。色々工夫したらロトのギガデインより強く出来るかな」
「まあその前に基礎を完成させなくてはね」
 コーヒーカップに伸びたコナンの手が、誤って書物の山を突き崩した。どさどさと散らばる本に混じって、コナンが日頃ポエムだの日記だのを書き散らしている雑記帳が床に落ちる。
「コナン、雑記帳が……」
 拾おうと身を乗り出した拍子に、紙面に踊る文字列が視界に飛び込んできた。
 雑記帳はすぐさまコナンに回収されたが、短い一文は衝撃と共にナナの脳裏に焼きついている。一文字一文字をゆっくりと読み上げると、あってはならぬ魔術の名が形成された。
「メガンテ……?」
 ナナは口中が急速に干上がっていくのを感じた。
「それって全生命力を魔力変換する魔術でしょ? どうしてそんなもの生成してるの? メガンテなんてどうする気なの?」
「……」
 コナンは雑記帳を即席の卓に置いた。黒インクで綴られた自己犠牲魔術の詠唱は、美しく韻を踏んでいてあたかも一遍の詩のようだ。
「ザラキに飲まれないようにするには、対極に位置する術を身につけろと助言されてね。命を奪う力には生を守る心……自己犠牲のメガンテが相応しいと思ったんだ」
 コナンが淡々と語る様に、ナナは生唾を飲み込んだ。
「だめよコナン、そんな魔術作ったら絶対にだめ。だっていざとなったら使っちゃうかもしれない……」
「これは僕が生きるためのメガンテなんだ」
 コナンは飄々と片目を瞑って見せた。その表情には一片の迷いもなく、彼の中で全ての決着がついていることを伺わせた。
「闇に飲まれないよう死に惹きつけられないよう、この術は僕を止めてくれる。大丈夫、僕は精霊神ルビス様……いや、そうだな」
 そこで言葉を一旦止めてから、コナンは小さく微笑んだ。
「君に誓ってこの術を使わない。約束する」
「でも」
「約束を破るのは美しくない。そして君も知っている通り、僕は美しくないことが嫌いだ」
 これはコナンの決意であり生き方なのだ。彼が運命を受け入れてそれと戦おうとしている以上、ナナにその邪魔をする権利はない。
「あたしね……」
 言いかけて言葉が見つからず、口を噤む。結局気の利いたことは何も言えなかった。


 ナナは一人でこっそりと馬小屋を抜け出した。軋む扉を後ろ手で閉めると、きっと顔を上げて夜道に踏み出す。
 コナン同様、ナナにも向かい合わねばならぬ現実がある。ムーンブルクと祖を同じくするこの村で、彼女にはなすべきことがあった。
 テパの村には街灯がない。ムーンブルクに浮かんでいたそれと良く似た魔術の灯りが、ふわふわとシャボン玉のように漂いながら夜道を照らしていた。
「あ」
 緩やかな下り坂に差しかかった時、ナナは闇の中にぴかぴか光るものを発見した。円らな瞳に神秘的な輝きを宿すのは、夕方出会った栗毛犬だ。
「あなたも夜の散歩?」
 犬はくるりと踵を返すと、尾を左右に揺らしながら歩き出す。数歩進んで、ついて来いとばかりにナナを振り返った。
 ナナは誘われるまま道なき道を歩き出した。ベルガモットの群れを飛び越え、小さな溜め池を迂回し、収穫間近の畑を横切る。崩れかけた石垣から飛び降りたその瞬間、眼前に広がった光景に思わず息を飲んだ。
 きいきいと揺椅子を揺らしながら、ドン・モハメが庭で夜風を楽しんでいた。とととと歩み寄った犬が膝に前足をかけると、皴めいた老人の目蓋がゆっくりと持ち上がる。
 ドン・モハメとまともに視線がかち合う。蛇に睨まれた蛙の如く立ち竦んだナナに、老人の掠れ声が尋ねた。
「……何の用だ」
 ナナは背を伸ばして姿勢を正した。
 老人の娘夫婦がムーンブルクの民であったことはコナンから聞いた。ナナはドン・モハメと直接話をすべきだと思い、ようやく決意を固めて出てきたのだ。犬に導かれたのは偶然だったが、もしかすると亡き両親が挫けそうなナナの背を押してくれたのかもしれない。彼女はムーンブルク王家最後の生き残り、民に対して責任を負わねばならぬ立場にある。
「ムーンブルクの女王として、あなたにお詫びをしなくてはならないと思いやって参りました」
「国もいないのに女王を名乗るか」
 老人の皮肉な微笑みをナナは真っ向から受け止めた。
「わたしを守ってくれた人達はそれを望んでいると思いますから」
「勝手な思い込みだ。死人の気持ちなど分かるわけがない」
「けれどそう思わないと、わたしの生きていく意味がなくなります」
 ナナは唇を噛み締めたが、俯きはしなかった。
「わたしを守ってくれた人々は、わたしが生き延びることを望んでそうしてくれたのだと思います。だからわたしは生きて……生きていく意味を探さなくてはならないんです」
 老人はナナの内面を探るように目を眇めた。
「それが仇討ちと国の復興というわけか。では聞くが、蘇らせたムーンブルクをお前は守ることが出来るのか?」
「……」
 ナナが押し黙ったのを見て、ドン・モハメはそれ見たことかと鼻を鳴らした。
「お前はこれまでに何かを守り抜いたことがあるのかね? お前はこれからどのようにして力と意思を宿していくのかね? ただの小娘に過ぎぬお前の言葉を信じろという方が無理だと思わんかね?」
 ムーンペタ大聖堂でベリアルに投げかけられた問いを、ナナは改めてドン・モハメに突きつけられた。
 滅びの日のナナは無力で、全てが崩壊していく中呆然と佇むしか出来なかった。だからハーゴンを倒せるくらい、大事なものを守れるくらいに強くなりたくて、ナナはこの旅の間必死に強くなろうと努力している。
 だが面と向かって力の有無を問われれば、ナナはそれに即答出来なかった。王家を建て直し、国を復興させ……そしてまた災厄に見舞われた時、国を守りきることが出来るのだろうか。再びめちゃくちゃに荒らされて、たくさんの人々を不幸に追いやってしまうのではないだろうか。際限なく湧き上がる不安に、彼女のささやかな自尊心は呆気なく侵食されていった。
「小娘が。一人前なのは口だけか」
「……」
「さっさと立ち去れ。お前の顔など見たくもない」
 凍りついた唇で言葉を紡ごうとしたその時、視界の隅に白いものが翻った。
 夜闇から滲み出すように、法衣を纏った数人の男が姿を現した。彼らの佇まいや雰囲気は常人のそれとは程遠く、ナナの項にぴりぴりとした緊張が走る。
「……地獄の使い」
 それはハーゴンに忠誠を誓った邪教徒であり、人間だったものが闇に魂を染めた成れの果てだ。
 ナナは杖を構えようとして、手に何も持っていないことに気付いた。近場だからと武器を置いてきたうかつさに歯噛みしつつ、ドン・モハメと邪教徒の間に滑り込む。
「月のかけらを渡せ」
 邪教徒は仮面の向こうからくぐもった声でそう言った。
「神殿への道を開け」
「塔の罠を解除しろ」
 呪詛のように呟きながら彼らはじりじりと間合いを詰めてくる。ナナは指先に風の精霊を呼んだ。
「バギ!」
 少女と侮って不用意に近づいた邪教徒は、真空の刃に引き裂かれて一瞬で絶命した。仲間の死に殺気立つ人々を睨みつけながら、ナナは語気鋭く囁く。
「モハメさん、早く家の中へ!」
 振り下ろされた杖を避け、ナナは前屈みになった敵の顔面にバギを叩き込んだ。仮面が砕けて現れたのは、もしかするとナナより幼い少年の顔だ。ナナは一瞬動揺したが、すぐに心を凍らせて再び風の刃を放つ。ずたずたに引き裂かれた法衣が、流れ出る血液で忽ち赤く染まった。
「ベギラマ!」
 灼熱の炎を辛うじて避けた一瞬後、上腕部に鋭い痛みが走った。ローブが引き裂かれ、剥き出しになった肌に一筋の刀傷が刻まれている。
 痛い。傷口が燃えて、その熱が全身に広がるかのようだ。
「……お嫁入り前なのに」
 ナナは呼吸で痛みを逃がしながら舌打ちした。後衛で傷を受けることの少ないナナは、こういった痛みに慣れていない。普段さりげない形でアレンやコナンに守られているのだと悟ったその時、傷に勝る痛みが心を貫いた。
 四方八方からベギラマが吹き荒れ、ナナは身を投げ出すようにして逆巻く炎から回避する。痛む腕を庇いつつ立ち上がったナナの目に、邪教徒に拘束されたドン・モハメの姿が映った。
「モハメさん!」
 人質の首筋にナイフが突きつけられてナナは動けなくなった。
 ドン・モハメが目的なのだから、邪教徒が彼を殺すことはないだろう。だが耳や鼻を削ぐ程度の、致命傷に至らぬ傷を負わせる可能性は否定出来ない。
 歯噛みするナナの後頭部に重たい痛みが走る。視界から色が飛び散ったのを最後に、全ての思考が途絶えた。


 意識を取り戻した時、ナナはコナンに抱きかかえられていた。
 砂袋のように重たい目蓋を持ち上げると、漆黒の夜空を背景にしてアレンとコナンの顔があった。起き上がろうと力を入れた途端、体中に激痛が走る。
「まだ動いてはだめだ」
 囁くコナンの顔に憂いが宿る。
「……全く幾ら丈夫で凶暴とはいえ、一応レディのはしくれであるナナに何て酷いことを……」
 かちんとくるものの、噛みつく気力も体力も残っていない。ナナは大人しく目を閉じて、コナンのベホイミが傷を癒してくれるのを待った。
 コナンに背中を支えて貰いながら、ナナはのろのろと上半身を起こした。霞む風景の中、赤いものや黒いものが累々と横たわっている。それらがアレンの剣によって切り裂かれ、コナンの魔術によって焼かれた邪教徒の死体だと理解するまでに数十秒の時を要した。
 ふと視線を落とすと、白いローブが血に染まってあちこち破けていた。昏倒した後に酷い暴行を受け、危ういところを二人に助けられたらしい。
「助けてくれたのね。ありがとう……」
 礼を述べた後、改めて周囲を見回して唇を噛んだ。
「モハメさんは?」
「爺さん何処にもいねぇよ。何があった?」
 屍は襲撃してきた邪教徒よりも明らかに数が少ない。昏倒したナナを尻目に、邪教徒達はドン・モハメを月の塔へ連れ去ったのだろう。
「……邪教徒に攫われたわ」
 たった一人の老人すら守れなかった。こんなにも無力な自分がどうして国を守ることが出来るだろう。爪が肉に食い込む程強く、ナナは拳を握った。
「邪教徒が?」
「罠がどうのって言ってたから、多分満月の塔に行ったんだと思う。あいつ等、月のかけらを狙ってるんだわ」
 悔恨を滲ませるナナの言葉に、アレンが小さく首を傾げた。
「邪教徒が月のかけらで何すんだ?」
「単純に考えて神殿……ひいてはルビスの聖堂に用があるんだろう。どうせろくでもないことを企んでいるに違いない」
 コナンが南の方角に目をやり、二人も誘われるようにそれに倣った。夜明けが近いのか、塔を囲む星の輝きは心なし弱々しい。
「僕達も行こう。月のかけらを奪われるわけにはいかない」
 コナンはそこでナナの顔を覗き込んだ。
「ナナ、君は……」
「あたしも行く」
 待機を宣告するのだろうコナンを遮ってナナは立ち上がった。後頭部に弱冠熱が残っているものの、足がふらつくようなことはない。
「君は頭を打っているんだ。少し様子を見ないと……」
「ナナが大人しくしてるわけねーじゃん」
 アレンは後頭部に両手を当てて、にやりと笑った。
「置いてたって俺らの後、ついてくるつもりだろ?」
 答える代わりに、ナナは軽く口の端を持ち上げる。よしんばベッドに縛りつけられれば、それを背負ってでも塔へと向かうつもりだ。
「……ニーナも相当なお転婆だが君には敵わないだろうな」
 コナンが立ち上がって小さく肩を竦めた。