テパ村の南に巨大な湖が広がっている。 湖の中央に、湖底が隆起して出来た小高い島がある。白き砂山に聳え立つのが満月の塔だ。 ロトの末裔達は満月の塔へと急いだ。渓谷に流れる狭い川を渡っていると、左右の絶壁に押し潰されてしまいそうな圧迫感を覚える。天を仰げば巨大な岩が露台のように突き出し、星の仄かな光を意地悪く遮っていた。 島に佇む塔は四角錐形で、三人が見たこともないよう物質で出来ていた。青白く光る塔の外壁は、触るとガラスに似た感触がする。 塔の内部は白一色で、窓から差し込む星明りをぼんやりと滲ませていた。壁、天井、床に至るまで、繋ぎ目や節らしきものが見当たらない。 「素晴らしい。まるで巨大なオベリスクだ」 感嘆するコナンとは対照的に、渋面を呈するのがアレンである。 「この塔、何で水浸しなんだ?」 踝まで浸かる水が床一面に満ち、松明の炎を映しながら揺れている。水からはほんのりと海の香が漂った。 「この塔はテパ族の歴史を刻んでいるそうだ。そして彼らが成してきた道筋が、僕達を月のかけらへと導いてくれる」 「……どういう意味?」 ナナが首を傾げると、コナンは意味もなく遠い目で天井を見上げた。 「我らは海の民。波間に生まれ、飛沫と戯れ、泡沫に消え行くのがさだめ。我らは水の子。その流れに逆らうことなかれ」 言いながらコナンは懐から薬草を取り出した。無造作に放り投げた薬草は水面に落ち、ゆっくりと一方向に向かって流れ出す。 「水の流れに沿って歩けば、正しい道を通ることが出来るらしい」 導かれるまま進むと、やがて巨大な扉に行く手を塞がれた。金色の縁取りがある戸板には星を散らす夜空、白波を蹴立てる海、灯を掲げた船団が描かれている。今正に精霊神ルビスが降臨し、テパ族を陸地へ導かんとする光景だった。 その扉に向かい合う形で、三対の精霊神ルビス像が佇んでいる。美しき女神達は柔和な微笑みを浮かべつつ、それぞれの手に満月、半月、三日月の灯篭を掲げ持っていた。 「精霊神に出会いし夜は満月。欠けることのない光が我らを地上に導く」 コナンは得意気に二人を振り返った。 「恐らくこの扉を開く鍵は月にある。三日月でもなく半月でもなく、満月を夜空に浮かべることにより……」 「でもさあ」 アレンがすいとコナンの傍らを擦り抜け、無造作に扉を押した。音もなく開いていく戸板の向こうに、水面から伸びた階段が現れる。 「もう開いちゃってるから、お前の謎解き意味なくね?」 「……そうだね」 灯篭に火を灯し、その輝きを夜空に投げかける。月の形が正しければ開錠され、正しくなければ何らかの罠が作動する仕組みと推測出来た。 「記憶を活用出来ないとは……脳細胞の無駄遣いは不経済で美しくない……」 「ね、そんなことより早く行かないと。扉が開いてるってことは、やっぱりモハメさんはここに連れて来られてるんだわ」 焦燥を滲ませながら、ナナは二人に先立って階段を駆け上がった。 途中アレンが余計な好奇心を見せたばかりに幾つかの罠が作動した。天井から金ダライが落ちてきたり、殺傷力皆無の爆発が起きたり、罠なんだか嫌がらせなんだか分からないものを潜り抜けつつ、三人はドン・モハメの姿を求めて塔内を奔走する。 テパの歴史を踏まえながら地上六階まで上り、それと同じだけの階層を下る。最後の階段を下りると、それまでは様相の違う部屋に出た。 他所では素っ気なかった壁に一面彫刻が施されている。人と海と月を描いたそれは凝った技法が用いられているわけでもなく、美しく彩色されているわけでもない。だがささやかなおうとつが生み出す黒い影が、壁本来の白と対比する様は目に染み入る程鮮烈だ。 がらんとした部屋の中央には、透き通った水の球体が何の支えもないのに浮いている。その内部に宿る輝きこそ、テパの秘宝に違いあるまい。 「モハメさん」 そこから僅かに距離を置いたところに、邪教徒に囲まれたドン・モハメの姿があった。幾度となく暴行を受けたらしく、満足に立ち上がることすら出来ないようだった。 「そこまでにしてもらおうか」 かつん、と高く踵を鳴らしてコナンが一歩進み出た。風もないのにそよぎ始めるマントの不思議は、アレンもナナも特に知りたいと思わない。 「精霊神ルビスの御手より賜った聖なる神器。破壊神シドーに傾倒する姦物の手に落ちるには、月のかけらは美し過ぎる」 ざわりと気色ばんだ邪教徒達は、一拍奇妙な沈黙を置いた後、しゅうとその殺気を鎮めた。仮面を寄せ合って仲間と囁き合う者、くすくす含み笑いをする者、疲れた溜息をつく者、末裔達に対する反応は様々だ。 「俺ら、何で笑われてんだろ」 「黒いからじゃない?」 先の爆発で吹きつけてきた煤のせいで、三人は頭のてっぺんから足の先まで、墨に浸したように真っ黒だ。 「そっかぁ、そうだよな。お前ら、目だけぎょろぎょろしてて変だもん」 「言っとくけどアレンも同じだからね」 「とにかく」 コナンが盛んに咳払いを繰り返す。あまりに美しくない現状に萎える気持ちを、必死に奮い立たせているようだ。 「早々にこの場から立ち去りたまえ。大人しく従えば良し、さもなくば……」 その返答として、邪教徒達が各々の武器を構え直す。塔内の空気が急速に緊張を帯びるのに合わせ、末裔達もまた臨戦態勢に入った。 「アレン、あの水の玉には絶対に触るな。あれに触れることが出来るのはテパの血を引く者のみ。資格なき者が触れた時、大変な災いが起きると聞いている」 「災い? タライが落ちてくるくらいなら別にいいじゃん」 「ちっとも良くない。タライが頭に落ちるなど、僕の人生の中でも一、二を争う屈辱的な出来事だった。大体君が僕の話も聞かず勝手に行動するから罠が作動したのであり、僕はつくづく君と旅をしなくてはならない運命を……」 「分かったって、うるせぇなあ」 アレンがうんざりと耳の穴を穿ったその時、邪教徒達が一斉に杖を振り下した。巻き起こるベギラマの炎を、ロトの末裔達は素早く散って避けた。 「バギ!」 風の嵐が室内に満ちた。切り裂かれた邪教徒の法衣にベギラマが引火し、花びらの如く宙を舞う。 火の花吹雪を目眩ましにアレンが敵陣に突っ込んだ。ロトの剣が踊る度、まるでお芝居のように邪教徒達がばたばたと倒れ伏す。炎の中で冴え渡るアレンの剣技は、何時にも増して鮮やかだ。 「ルカナン!」 敵の術が発動した一瞬後、杖が強かアレンを打った。 アレンは景気良く吹っ飛び、長々と床を滑って壁に激突する。間髪入れず立ち上がった時には鼻血を滴らせていたものの、再び平然と敵に切りかかる様子からしてさしたるダメージではなかったらしい。ルカナン如きでローレシア人はへこたれない。 「モハメさん、こっちに!」 ナナはドン・モハメを避難させようとしたが、節々を痛めた老人は容易に立ち上がることが出来ないでいた。すぐさまベホイミの詠唱を始めたナナ目がけて、邪教徒のベギラマが襲いかかる。 「!」 ナナはドン・モハメを突き飛ばしながら床に倒れた。無防備に背を晒すナナの上に、白い法衣が翻る。大きく跳躍した邪教徒が、殺気を纏ったナイフをナナに突き立てようとした。 「ナナ!」 アレンが振り返り様にロトの剣を投げつける。恐るべき膂力で投擲された剣は邪教徒の肉体を貫き、勢い余って水の玉に深々と突き刺さった。 「あ」 瞬間、場の空気が凍りつく。そこにいた全ての者が動きを止めて水の玉を凝視した。 水球は拳大に縮み、ぶるぶると震えた後破裂音と共に弾けた。水の戒めから解放された月のかけらが、雫を撒き散らしながら天井近くまで跳ね上がる。鼻先を掠めるように落ちてきたそれを、ナナは反射的に両手で受け止めた。 ナナの小さな掌にすっぽり収まる円盤である。ラピスラズリに似た濃紺の石の中に、金色に輝く月と銀色に煌く星が封印されている。失われて久しい夜空を髣髴とさせる、美しくも神秘的なテパの秘宝だった。 「きれい……」 現状も忘れてうっとりと呟いたその時、轟音と共に塔が揺れた。ナナは床に座り込んだまま、反射的に月のかけらを胸元に抱き寄せる。 「な、何?」 天井の一部が剥落し、耳を聾する大音響と共に床を覆った。運悪く下敷きになった邪教徒の手が、作り物のように青ざめて瓦礫の下から伸びている。 「月のかけらを抱きし海を、決して穢すことなかれ。海の怒りは我らの滅亡、月の嘆きは我らの終焉」 「え?」 「水球に触れ、そこから月のかけらを取り出すことが許されるのはテパ族のみ。月のかけらが奪われた時には、略奪者は勿論テパ族にも災いが降りかかる」 ドン・モハメは場違いなくらい落ち着き払った声でそう言って、一人一人の顔を順繰りに見回した。 「水球がテパ族以外の人間に破壊された。この塔は崩壊する」 そうこうしている間にも、壁や天井から剥がれ落ちた石塊が彼らの周囲に山を成していく。 「アレン……あれ程、あれ程気をつけろと言ったのに君という奴は……」 「ご、ごめん。俺が悪かった。だからそんな怖い顔しないでください」 殺気立つコナンを尻目に、アレンは死体から剣を引き抜く。やぶれかぶれに襲いかかってきた地獄の使いを切り捨てると、飛び散った血液が床や天井を朱に染めた。 「爺さんほら、逃げるぞ!」 剣を収めたアレンがドン・モハメに駆け寄った。ナナのベホイミで大方の傷は癒えたといえ、単独でここから脱出出来る程の体力は残っていまい。 「わしに構うな。お前達の手助けなど要らん」 「ろくに走れもしねーくせに何言ってんだよ!」 むっつりと渋面を崩さぬ老人を強引に背負うと、アレンは上階に続く階段を駆け上がる。追い縋ろうとする邪教徒達を屠りながら、コナンとナナもそれに続いた。 二階まで駆け上がると、運良く壁の一部が崩れ落ちた場所に出た。 眼下に広がる地表はそれ程遠くない。下は柔らかい砂地だし、ここからなら飛び降りても無傷で済むだろう。 「んじゃ俺から行くぞ」 ドン・モハメを背負ったアレンが躊躇なく飛び出す。その体が危うげなく着地したのを見届けてから、コナンがナナを促した。 「僕が殿を務める。君から先に行きたまえ」 「ありがとう」 進み出ようとしたその時、塔が今までになく大きく揺れた。ナナは数歩後ろによろめき、バランスを保ちきれず尻餅をつく。投げ出された爪先を掠めるように降り注いだ瓦礫が、ナナ一人を内部に閉じ込めたまま、外界へ通じる道を完全に塞いでしまった。 「あ……」 瓦礫の山は厚く堆く、非力なナナがどうこう出来るものではなかった。バギを用いれば破壊も可能だが、不安定な塔に刺激を加えれば不測の事態を招きかねない。 「ナナ、大丈夫かい? 怪我は?」 岩越しに伝わってくるコナンの声が、とても遠く感じられる。 「大丈夫。でもどうしよう」 「地上五階に壁のない場所がある。北と東、二箇所あるうちの東側に向かうんだ。……時間がない、早く!」 コナンの声に背を押されるようにナナは駆け出した。 階段を三つ上って辿り着いたフロアは、コナンの言った通り北と東の壁が抜けていた。吹き抜ける風にローブと髪をはためかせながら、ナナは壁際に立って下を覗き込む。 「……高いなあ……」 二階と五階ではこんなにも風景が変わるものなのか。白き地表はあまりに遠く、見つめているだけでくらくらと眩暈を覚える程だ。 「ナナ! 受け止めてやるからさっさと来い!」 遙か彼方でアレンがぶんぶんと腕を振り回すのが見えた。二人は素早く東側に回ってくれたようだ。 「……ここから飛び降りるってこと?」 命綱もなしに身を躍らせることを思えば、さしもの強気娘も膝が震えた。不安定な足元が急に心許なくなって、ナナはそろそろと壁に手を添えた。 「心配すんなって!」 自信満々と言った風情でアレンが声を張り上げる。 「お前みたいな軽くてちっちゃいの、片腕でも楽勝だから!」 「ちっちゃいの、は余計だってば!」 こめかみに青筋を立てたものの、それで何となく緊張が解れた。 湖を囲む山脈を縁取るように、金色の光が淡く滲んでいる。紺碧の夜空は少しずつその色を薄め、透き通った明け方の光を帯びつつあった。今日の夜明けはもうすぐそこまで来ている。 嘗てこんな風に朝を迎えた日のことが、ナナの脳裏を掠めた。 「あたし、こんなとこで死ねない。やらなくちゃいけないことがたくさんあるんだもん」 ナナの脳裏に美しかったムーンブルクの風景と優しかった人々の顔が浮かんだ。月と海に守られたあの王国をもう一度蘇らせたいと切実に思う。そしてその為には、何としてもこの旅を生きて終わらせなくてはならない。 「アレン、お願いね!」 「おう、任せろ!」 頼もしい応えに頷き、精霊神ルビスの加護を願う。そしてナナは、全ての迷いを振り切って床を蹴った。 体が何処にも触れていない恐怖を、ナナは生まれて初めて体感した。それは五感を喪失させ、感情を掻き乱し、意識までをも吹き飛ばしかねない暴力的な力だ。真っ白になった頭の中、ただ心臓の音だけが大きく響き渡る。 「きゃっ」 地上に激突する寸前、落下は唐突に終わった。 しっかり体を支えてくれる二本の腕にどれだけ安堵感を覚えたろう。何時の間にか瞑っていた目を恐る恐る開けると、見慣れた顔がすぐ傍にあった。 「お前結構重いな、片手でやんなくて良かった」 落下する人間を受け止める衝撃は計りしれない。下で構えてくれたのがアレンでなければ、ナナが生きて地上に戻ることは出来なかったろう。 「重くない。あと、ありがとう」 その時、ゆっくりと傾きつつあった塔が急速に倒壊を速めた。ある一定の傾度に達したその時、自らの重みに耐え兼ねて真っ二つに割れる。 「塔から離れろ!」 コナンの号令一下、一行は全速力で安全圏を目指す。彼らが逃げるのを見計らっていたかのように、塔は島を揺るがす衝撃を伴って横倒しになった。 塔は湖面を激しく打った。圧倒的な力が伝播し、巨大なうねりとなって水面を持ち上げる。暴走するエネルギーは湖の中だけには収まらず、村に続く川に流れ込もうとした。 「テパの村が……」 「月のかけらを抱きし海を、決して穢すことなかれ。海の怒りは我らの滅亡、月の嘆きは我らの終焉……これが宝を守れなかったテパ族への罰だ」 「な、何落ちついてんだよ爺さん!」 「騒いでどうかなるとでも?」 水は狭い川へ流れ込んだ瞬間、岩肌を抉る鉄砲水となるだろう。とてもではないがテパの素朴な家々が耐え切れる水圧ではない。 「あ……」 村の滅亡を目の前にして、ナナの脳裏にあの日の出来事が鮮やかに蘇った。 |