就寝前のひとときを室内庭園で両親と過ごすのは、物心ついた時からのナナの日課だった。愛犬を膝に抱き、薫り高い茶を楽しみながら家族と語らう時間は、一日の中で最も穏やかに流れていく。花の香と月明かりが優しく包み込んでくれるその空間を、ナナはこの上なく愛していた。 その夜母は所用で席を外しており、ナナは乳母に叱責された出来事を愚痴混じりに父に報告していた。慰めてもらうつもりが逆に説教され、仏頂面で啜った紅茶は何時もより渋い。無造作にミルクを足すと今度は温くなって、我儘娘の頬は益々膨れ上がった。 何時もと変わらぬ父の苦笑、心地よい静寂、頬を撫ぜる夜風。平和で穏やかな日常の中、その男は何の前触れもなく、不吉な影法師のように滑り込んできたのだ。 男は床に引き摺る長衣を纏い、奇妙な頭巾で耳から顎にかけてを覆っていた。法衣の胸元を飾る聖印はルビス教のそれではなく、明らかに異教の神官であることが伺える。 死人のように青ざめた顔の中、瞳ばかりが生き生きと輝く。その双眸は血潮の如く赤く、ナナは彼が自分と同じ雨の血筋の人間であることを悟った。 「何者だ?」 それまでゆったりと寛いでいた国王が、緊張に満ちた声で誰何した。兵士と結界によって厚く守られた王家専用の庭園、誰もがおいそれと侵入出来る場所ではない。 「我が名はハーゴン」 男は慇懃に一礼した。薄い唇から放たれた声は氷片を孕んでいるかのようだ。 「ハーゴン?」 ムーンブルク王は益々表情を厳しくし、一人娘を背に庇いながら椅子から立ち上がった。 「ハーゴン……サマルトリアの王弟か? 死んだはずの男が何故ここに……」 「陛下の仰られる通り、サマルトリアの王弟は十年前に死んだ。今ここにいるのは大神官ハーゴン。破壊神シドーの寵愛を受けし者」 落ち窪んだ頬に、歪んだ愉悦が濃い影を落とす。 「ムーンブルク国王陛下、並びに姫君。御身に流れる月の血を頂きにきた」 ふうっと空気が揺れ、花壇の一部が轟音と共に弾け飛んだ。 「……」 侵入者が放ったのはバギクロス……ナナが取得しているバギより数段高い魔力と技術を必要とするわざだ。魔術大国ムーンブルクでも扱える人間の数はそう多くない。 「陛下!」 異変を察した近衛兵達が、具足の音高く駆けつけてきた。ある者は剣を閃かせ、ある者は魔術を掌に宿し、既に万全の臨戦態勢を整えている。不審者がこれ以上怪しい動きを見せようものなら、すぐさま容赦のない攻撃が開始されるだろう。 「たった一人の神官に大仰なことだ」 ハーゴンは周囲を取り巻く近衛兵を一瞥して、くくっと喉を鳴らして笑った。 ナナは拳に冷たい汗を握った。矛先を肌に押しつけられた状況にもかかわらず、ハーゴンがいささかの動揺も見せないのは何故なのか。彼がこれからどんなに早く詠唱を紡ごうと、兵士達が魔術を発動させる方が確実に早いはずだ。 ハーゴンはゆらりと顔を上げ、吐息のように、死の言葉を囁いた。 「ザラキ」 それは詠唱を必要とせず、発動詞のみで完成する魔術だった。得体の知れぬ力に包まれた兵士達が、断末魔も上げずに砕け散っていくのを、ナナは呆然と眺めるしか出来ない。 「……ザラキだと……?」 父王は嫌悪も顕に術の名を呟いた。 「貴様、そのような禁術を得て何を目論んでいる?」 「ルビス教徒にとって禁術でも、破壊神シドーを崇める者にとってこれは聖なる神の魔術だ」 兵士であったものが粉雪の如く舞い散る中、ハーゴンはすうっと目を細くした。 「ムーンブルクの国王よ。この国の民を破壊神シドーに貰い受けるぞ」 ハーゴンが片手を夜空に翳した途端、ごうっとムーンブルクが揺れた。 地鳴りと共にあちこちに生じた亀裂が、浅い眠りにあったムーンブルクの人々を食らい始めた。 砂の舌が体を捕らえ、石の牙が骨を咀嚼する。砂の口唇が血液を啜り、土の喉が肉を嚥下する。終わりのない飢餓感を満たそうと、狂った大地が貪欲に命を奪っていく。 事態が飲み込めずに混乱する人々の隙を突いて、魔物の群れが流れ込んだ。傷を負い、武器を持つこともままならぬ彼らに、魔物に対抗出来る手段など何一つない。この世で最も美しいと謳われたムーンブルクの城下町は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。 臣民の悲鳴と魔物の咆哮を遠くに聞きながら、王は油断なく王杖を構えた。ムーンブルク全土から立ち上った面妖な力が、ハーゴンの掌に吸い寄せられるのを瞬きもせずに凝視する。 ハーゴンの掌にゆらゆらと不思議な影が浮かんだ。それは不規則な収縮を繰り返しながら濃度を強め、形を整え、一体のオブジェを形成する。 一見竜のようでありながら、それよりも遙かに醜く悪意に満ちた生き物が、しゃれこうべに尾を巻きつけた悪趣味極まりない意匠である。大きく開かれた口蓋はぬめぬめと照り光り、巨大な牙の鋭さをより浮き立たせていた。 「美しいだろう?」 ハーゴンは得意気に頤を持ち上げた。 「神々の戦いで肉体を奪われた破壊神シドーの、新しい依代。今この神体に月の血を捧げよう」 「メラゾーマ!」 王の火炎がハーゴンを直撃した。一瞬眉根を寄せたものの、ハーゴンの唇にはすぐさま余裕の笑みが浮かぶ。火の粉を撒き散らしながら悠然と歩き出す姿は、さながら地獄から蘇った亡者だ。 「ベホマ」 火傷を一瞬にして癒すと、ハーゴンは疾風のように動いた。 鋭い音を響かせながら、王の杖とハーゴンの錫が激突する。二度、三度と打ち合う度、二人の魔力が光となって周囲に散じた。 「バギクロス!」 「マヒャド」 魂すら凍らせる烈風が室内庭園に吹き荒れた。大気中の水分が凍結し、濃い霧の如くナナを取り囲む。視界を奪われて立ちすくむナナの腕の中で、不意に愛犬が低い唸り声を上げた。 「……あ……」 白一色だった世界に音もなく影が滑り込んでくる。のろのろと上げた視線の先にはハーゴンの穏やかな微笑みがあった。 「月の血を頂くぞ」 腕から飛び出した犬がハーゴンの裾に噛みついた。牙を立て四肢を踏ん張り、主から不審者を遠ざけようと奮戦する。力なきものの必死の抵抗を見下ろし、ハーゴンは憐憫と侮蔑と、あからさまな殺意を込めて笑った。 「やめて……!」 小さな肉体が氷の中に閉じ込められる。悲しげに目を見開く氷像は無造作に蹴り飛ばされ、壁にぶつかって粉々に砕けた。 小さな友の死を悼む間もなく、ナナは背を突き飛ばされて花畑に倒れた。母の好きなすずらんの匂いが鼻先を掠めたその時、奇妙な音が頭上を過ぎる。それは時折記憶の底から蘇り、生涯に渡ってナナを悩ませるだろう絶望的な死の響きだった。 「え……」 身を捻るように振り返ったナナは、目の前の光景に絶句した。 父王の左胸をハーゴンの右腕が深々と貫いていた。背中から突き出したオブジェの瞳が月の色に輝き、口角が耳元まで吊り上がる。作り物であるはずのそれが、血を滴らせながら確かに笑ったのだ。 「お父……」 「メラゾーマ」 爆裂音と共に、王の体を中心として巨大な火柱が立った。 オレンジ色に揺らめく炎の中で、愛する父が溶けていく。黒い影となった手が消え、肩が崩れ、首が落ちた。圧倒的な熱量に焼かれたその体は、一握りの灰と化してさらさらと宙に散じた。 「お父様……?」 ナナはのろのろと身を乗り出して、ほんの少し前まで父のいたところを見つめた。 「お父様、何処……?」 心臓は早鐘を打ち、全身に冷たい汗が滴る。肉体は酷く興奮しているくせに、頭は動きを止めて現状が飲み込めない。度を越えた痛みに耐えかねた心が、現状認識を拒否しているのだろう。 泣き叫ぶことも逃げることも出来ないナナの傍らに誰かが屈んだ。促されるまま立ち上がったところを抱えられ、ナナは荒れ果てた庭園から連れ出される。 「……」 ナナを横抱きにして回廊を駆けるのは小柄な少年だ。空を宿す瞳が真っ直ぐに前を向き、逆立つ黒髪が風に靡いている。まるで見覚えのない少年の横顔が、何故だかとても懐かしく感じられた。 西翼の宝物庫で少年は静かにナナを下ろした。ナナは冷たくなった手で顔を覆って目覚めの時を待つ。これは夢だ。悪い夢だ。こんなことが現実に起こっていいはずがない。 しかしどんなに待ってもナナの悪夢は終わらなかった。 「……何が起きてるの」 ナナは声にならない声で少年に尋ねた。 「お父様は? お母様は? 城のみんなは? どうしてこんな」 「ごめん」 少年は掠れる声で呻き、ナナの前に膝をついた。二本の腕がぎゅっと彼女を抱きしめる。 「君達にまで、こんな想いをさせたくなかった」 少年の温もりは父にも似て絶対的な安堵感に満ちている。震えながらしがみつくしか出来ない哀れな王女に、再び吹雪の声が吹きつけた。 「月は落ちたぞ、姫」 「……!」 ゆらりと大気が揺らいでハーゴンが現れた。こつこつと歩み寄ってくる男の視線は、ナナただ一人に向けられている。彼には少年が見えていないようだった。 「わざわざ殺す必要はないのかもしれん。姫には生かして利用する価値が十分にある」 じりじりとナナが後じさる分、ハーゴンは正確にその距離を縮めた。 「だが、私は姫が憎くて堪らぬのだ」 「にくい?」 ナナはただただ途方に暮れ、鸚鵡のようにその言葉を繰り返した。 「……どうして? あたしが何をしたっていうの?」 「ロトの王族に生まれ、雨の血筋を受け継ぎ、精霊の愛し子としての祝福を受け……私と姫は実に良く似た存在だ」 優しく微笑んだハーゴンは、次の瞬間、手にした錫で力いっぱいナナを打ち据えた。小柄なナナは容易に吹き飛ばされ、背後の棚に嫌という程体を打ちつける。高価な壷や彫像が、幾つも落ちて床に砕けた。 「何故だ? ここまで似た存在でありながら、何故お前ばかりが愛され、私はたった一つと望んだものすら奪われるのだ? 私とお前の、一体何が違うというのだ?」 「……」 「私には決して手に入らぬものに囲まれたお前が憎い。お前が生きているだけで、私の心は嫉妬で張り裂けそうになるのだよ」 ナナは痛む体を起こし、血の滲んだ唇を拳で拭った。圧倒的な恐怖に凍りついていた全身の血が、それを上回る怒りでようやく沸騰を始める。 「バギ!」 ナナの哀れな攻撃は、法衣の裾を僅かに吹き上げただけだった。彼が纏う魔力防御膜は、ナナの魔術など容易く弾いてしまう程強力だ。 「教科書通りに組み立てた術など、戦場では無力なものだ」 ハーゴンがゆっくりと左手を虚空に翳した。細くきれいな指の合間に、兵士達を砕いたのと同じ力が渦を巻く。ナナはせめてもの抵抗として、視線を逸らすことなくそれを睨みつけた。 「ザラキ」 術が発動したその瞬間、立ちはだかった少年に死の力が激突した。 弾けた力は細かく砕け、飛沫となって頭上に降り注ぐ。少年はナナに覆いかぶさりながら、小鳥を守る親鳥のように、葡萄酒色のマントを大きく広げた。 「ごめん、今の俺じゃこの術を完全には防ぎきれないみたいだ。でも俺とこの子が必ず君を助けるよ」 マントから滲み出す力が体に触れる度、息も出来ない激痛がナナを襲う。肉体を無理矢理形を歪められるような、言葉では言い表せない痛みだった。 「この子……?」 「君のことを守りたいんだって」 薄れ行く意識の中で聞いた少年の声が現実のものだったのかどうか、ナナは今でも判別がつかない。 「君は生き延びる。そして生きている限り明日がくる。だから……どんなことになっても、絶対諦めないでくれ。君を救おうとする人が、必ずやってくるから」 それはまるで祈りのように、魂に染み入る言葉だった。 「ムーンペタに宿る王家の加護がきっと君を守ってくれる。どんな時でも君は一人じゃない」 それからどれ程の時が流れたのか。意識を取り戻した時、ナナは雨に濡れた路地裏に蹲っていた。 ゆっくりと起した体はそれまでと勝手が違い、四つ這いでしか歩けない。心細さのあまり声を出せば、きゅうんと奇妙な音が喉を奮わせるのだ。 ナナは宛てもなくそこらを彷徨い、やがて水溜りに映った姿に現状を知る。 白く濁った水面に映ったのは可愛がっていた犬の姿だった。先祖の加護と愛犬の魂がザラキに抗った結果、肉体がこのような形に変化したのだろう。仮初の体に宿る魂が声をあげても、それに応えてくれるものはなかった。 滅びの日の情景は全て蘇った。胸を抉る痛みに歯を食い縛りながら、ナナは村に通じる渓流を睨みつける。 「あの岩を崩せば……」 川を挟む渓谷には庇のように突き出した巨大な岩のでっぱりがある。あれを崩して河口を塞げば、濁流を塞き止めることが出来るだろう。 「イオナズン!」 勢い良く放った白光の玉が岩に炸裂した。だが不完全な魔術はコントロールが甘く、力が拡散して上手く焦点が絞れない。ならば質より数とばかり、ナナは間髪入れずイオナズンを放ち続けた。そうして無為な行為を繰り返すうちにも、濁流はどんどんと河口に近づきつつある。 ナナは短く息を吐いた。満月の塔の件もあって、体力は既に限界に近い。 限界を超えて魔力変換を行えば、生命維持に必要な力までもが失われて肉体機能が破壊される危険性がある。そうして廃人になった魔術師の惨めな姿を、ナナは幾度か目にしたことがあった。 だが今はそうなることが少しも怖くない。ムーンブルクと礎を同じくするあの村だけは何としても守りたかった。 「ナナ!」 制止しようとするコナンの手を振り切って、ナナは激しく首を振った。 「あたしは強くなったのよ! 誰も助けられなかった……何も出来なかったあの日のあたしとは違う!」 ナナは炎の色をした瞳で前方を見据えた。 「……テパは絶対あたしが守って見せる」 純度の高い魔力が掌に宿り、少しずつその量を増す。命を吸い取られる衝撃に肉体が悲鳴を上げ、意識が混濁する。ナナは唇を噛み、その痛みで必死に自我を守った。 詠唱に応えて、数多の精霊がナナの周囲に集い始める。地、風、水、闇、光……ありったけの精霊を次々に従えると、ナナは最後に火の力と向き直った。 ためらいがちに抱き締めた火の精霊は、久しく忘れていた温もりを伝えてきた。優しい揺らめきに触れるうち、火に対する嫌悪がゆっくりと溶けていく。 精霊は主の要求に忠実に従おうとする種族だ。あの日父を焼き殺したのはハーゴンであり、火の精霊ではない。精霊達が生み出す大いなる力は、術者の心構えによって死にも生にも繋がるのだ。 「今までごめんね」 ナナはこの世に生を受けた瞬間から、常に共にあった友人達に詫びた。 「これからもあたしの傍にいてくれる?」 返答として火の力がナナを包み込む。純粋な精霊の歓喜が怒涛のようにナナの中に流れ込んできた。 六種の精霊の助けを得て、やがて完全なる爆裂の力が掌に満ちた。 震える腕を差し上げて狙いを定める。ナナはからからに渇いた声で、残された全ての力を解き放った。 「イオナズン!」 |