花咲き乱れるムーンブルクの庭園を、王と王妃が肩を並べて歩いていく。王の背にはまだ幼い王女が負われていて、うつらうつらと浅い眠りについていた。 久々の休日を家族だけで過ごし、心行くまで遊んだ午後の帰り道。今は失われた遠い日の光景だ。 「久し振りにお父様に遊んで頂いて、ナナは大はしゃぎだったわ」 「先週も先々週もナナとの約束を破ってしまっていたからね。今日は一緒に過ごすことが出来て良かったよ」 背中の温もりを心地良く感じながら王は微笑んだ。押しかけるように輿入れてきた妻と三つになったばかりの娘は、彼の人生を彩る光だ。 「でも今日だって、あなたは公務でお疲れだったはずだわ。昨日も夜遅くまでの会議で、帰っていらしたのは明け方だったし」 王妃が労わりを込めて王の腕に触れた。 「お疲れの時は無理なさらないで。ナナにはよく言って聞かせるから」 「何時まで一緒にいられるか分からないのに、そんなことは出来ないよ」 王妃が悲しげに眉を曇らせるのを見て、王は言葉が足りなかったことに気づいた。十五年長く生きている分、順当に行けば死は彼女より遙かに早く彼を迎えに来るはずだ。 「そんな顔をしないで。私はあなたよりもずっと年上だが、何も今日明日中に死んでしまうわけではない。だが人の命に限りがある以上、別れは何時か必ずやってくるのだよ」 透き通ったガラス屋根の向こうに、つばめの番が仲良く飛んでいく。夫の袖口を無意識に握り締めながら、王妃は子供のように口を尖らせた。 「……人間は損だわ。人生に限りがあることを知っているから、別れに怯えながら生きなくちゃならないんだもの」 「だが同時に幸福だ。人生に限りがあることを知っているから、別れが来ても悔いぬように生きることが出来るだろう?」 「……」 「だから私は時間の許す限り、あなたとナナと共に過ごしたい。私という存在をあなた達に刻みつけておきたいんだ」 「わたしはもう十分刻みこまれているわ」 王妃はふいと顔を背けた。 「初めてお会いした時に、不意打ちで一太刀浴びせられたもの。あなたなしではいられなくなる程の致命傷でした」 ローレシアの姫らしい例えだ。王が思わず苦笑した時、はしゃぎ疲れて眠っていた愛娘が目を覚ました。ふええ、と幼い唇から寝惚けた泣き声があがる。 「おお」 「あらあら」 あどけなさの残る王妃の顔が、一瞬にして母親のそれに切り替わる。娘を受け取り抱く仕草は優しくも力強い。 「よしよし、起きちゃったのね」 むずかる王女をあやそうと、花や木に戯れていた精霊達が集い始めた。彼らは愛し子の感情に敏感で、乱れを察知すれば即座に反応を示す。子を気遣う親のように、何時でもその心の平穏を望んでいるのだ。 「もうすぐおやつの時間よ。お部屋に帰ったらお母様と一緒にケーキを食べましょうね」 おやつの一言でぴたりと泣き止んだ娘に、王は吹き出しそうなるのを堪えた。 「私は仲間外れかな」 「あら大変、お父様が寂しがっていらっしゃる。お父様も仲間に入れてあげる?」 「……おとうしゃまもいれてあげる」 「でもケーキが二つしかないかもしれないわ。そうしたらナナのケーキ、お父様に分けてあげる?」 王女は親指をしゃぶりながら考え込み、ややあって結論を出す。 「いちごいっこあげる」 寝ぼけ眼の王女が頷くと、王妃の足元を歩いていた子犬が自らの存在を主張するように声高に吼えた。彼女もまた、掛け替えのない家族の一員だ。 薔薇のアーチの下に立って、ナナは遠くなる家族の後姿を見送った。懐かしいムーンブルク城や愛する両親の背中が、セピア色の光に滲んで消えていく。 光に完全に溶け込む寸前、父と母がこちらを振り返って笑った。ナナは頷き、持ち得る全ての愛情を込めて微笑み返す。 「心配しないで。あたし、忘れないから」 そっと手を当てた胸の中は、温かいものに溢れている。 「お父様とお母様が刻んでくれた色んなこと、絶対に忘れないから……」 意識を取り戻した時、ナナはアレンに背負われていた。 アレンの歩みに合わせて静かに体が上下する。まだ幼かった頃の幸せな夢に別れを告げて、ナナは重たい目蓋を持ち上げた。二度ゆるゆると瞬きしたところで、傍らにいたコナンが顔を覗き込んでくる。 「気が付いたかい? 気分は?」 「うん……平気」 ナナは僅かに首を動かして頷く。 夜が完全に明けた時刻だ。切り立った断崖の向こうにある太陽が、金色の陽光で世界を染めている。夜闇から地上を奪還した喜びに溢れた、清々しくも鮮烈な輝きだ。 三人に数歩距離を置いたところには、心持ち俯くようにして歩くドン・モハメの姿があった。その気難しい横顔を見ると同時、ナナははっと頭を持ち上げた。 「……テパ……テパは?」 アレンが歩みを止めて、くるりと体の向きを変えた。 狭い渓谷の向こうに、今日の朝日を浴びるテパの村があった。低地は浅く水に浸かっているものの、建物が流されたり倒壊したりといった被害はないようだ。ここ数日の陽気が続けば、この程度の水溜りなどすぐに干上がることだろう。 首を巡らせて振り返ると、河口付近に巨大な岩壁が聳えていた。イオナズンで粉砕した岩が川を完全に塞ぎ、狂った濁流から小さな村を守ってくれたのだ。 ほっと息をついてから、ナナは誰に言うでもなく囁いた。 「テパはムーンブルクみたいにならないで済んだのね」 「そう、君がテパを守ったんだ。……尤も、今回テパが危機に瀕した原因は邪教徒でなく、君を背負っているソレにあるわけだが」 「だ、だから悪かったって言ってるだろ」 噛みつくアレンに何時もの勢いはない。彼なりに責任を感じているようで、その眉はしょんぼりと八の字を象る。 「……俺のせいで無理させちまったよな。ごめんな」 「ううん、これであたしも……」 少しは罪滅ぼしになっただろうかと考え、ナナはすぐに苦い思いで首を振る。ムーンブルクの滅亡は、ナナが王族として一生背負っていかねばならぬ罪だ。これから先どんな偉業を成し遂げたとしても、肩に食い込むそれを下ろすことは叶わない。 アレンが村に向かって歩き出し、コナンがそれに並んだ。浅い川を渡る水音が、左右に聳える絶壁に反響する。 「……あのね。聞いて欲しいことがあるんだけどいいかな」 水を吸ったかのように重たい体をアレンの背に預けたまま、ナナはぽつんと呟いた。 「聞いて欲しいこと?」 「ムーンペタで、アレンとコナンに助けて貰った次の日。……あたしね……あたし、死のうと思ったの」 墓の中まで持っていくはずだったあの日の秘密を、ナナは訥々と告白した。 「ひとりぽっちになっちゃったとか、もうみんなには会えないんだとか考えてるうちに凄く苦しくなったの。だからそのまま眠れば死ねるんだと思ったのに、次の日朝が来たら普通に目が覚めちゃった」 アレンもコナンも何も言わないが、ナナはそれでも構わなかった。今はただ黙って話を聞いて欲しかった。 「一人で宿の屋上に行ったの。高さはあったし下は石畳だったから、そこから落ちたら多分死んでたと思う。あたしは手摺を乗り越えて、屋根の縁ぎりぎりに立って……でも結局飛び降りることが出来なかった」 一歩踏み出せば死ぬ場所に立って、ナナは生まれ育った城の方角を眺め続けた。静かに明け行く空、頬を撫ぜる柔らかい風、耳朶を打つ小鳥の歌声。世界は何時もと変わりない朝を迎えるというのに、ムーンブルクは永遠に失われてしまった。あの時の指先まで凍りつくような絶望からどうやって這い上がったのか、ナナは今でも時々不思議に思う。 「……何故?」 「どうしてかな……よく分かんない。大事なもの全部壊されて、この世に未練なんてなかったのに、どうしてあたし、死ななかったんだろう」 「バッカだな、死にたくなかったから死ななかったに決まってんだろ」 アレンは前傾し、やや乱暴にナナを背負い直した。 「親父目の前でぶっ殺されて、みんなめちゃくちゃにされて、仕返しもしねーで死ねるか?」 「……うん」 ナナは小さく笑った。 「うん、きっとアレンの言う通りね。だってあたし、死ぬために飛び降りることは出来なかったけど、生きるために飛び降りることは出来たんだもん」 「君は僕達と会い、旅をしなくてはならなかった」 コナンがゆっくりと頷いた。 「これから仇を討たなくてはならない。ムーンブルクを復興させなくてはならない。そしてたくさん幸せにならなくてはならない。だから君は死ななかったんだよ」 コナンにぽんぽんと背中を叩かれた瞬間、ナナの瞳から大粒の涙がぽろりと零れ落ちた。 ビー玉のような涙が三つ落ちてからようやく感情が追いついてくる。ひくんと喉が上下して嗚咽が漏れた。 「うっ……」 故郷を失って以来、どんな辛くても涙が出てこなかった。泣こうとすると胸が塞がり、息も満足に出来なくなった。 ハーゴンへの憎悪や国を失った悲愁同様、ナナの心を蝕んでいたのは無力だった自分への絶望だ。彼女は無意識に弱さを憎み、その象徴と感じた涙を嫌った。泣きたいと訴える魂の声を封じていたのは、他ならぬ彼女自身だったのだ。 失われていた自信は今日、テパを守ったことでささやかながらも蘇った。力の確信は弱さを曝け出せる強さとなって、彼女のうちを静かに満たしていく。 アレンの背に額を押しつけ、コナンの温もりを背に感じながら、ナナは子供のように泣きじゃくった。次から次へと溢れ出す涙は、心に淀んでいたものをきれいに洗い流してくれる。 たくさんの想いを込めた透明な雫は、きらきらと輝きながら風に散っていった。 それから三日後。 商人の出航に合わせて末裔達はテパを発つことにした。柔らかな秋風が草花を揺らす中、挨拶のためにドン・モハメの家を訪れる。 ドン・モハメは苦虫を噛み潰したような顔で三人を迎えた。揺椅子をきいきいと鳴らしながら順繰りに末裔達を見渡す。 「色々とお世話になりました。僕達はこれから一旦ペルポイに戻り、その後神殿に向かう予定です」 コナンの挨拶にも、ドン・モハメはこれといった反応を見せない。 「それではお元気で」 アレンは軽く目礼し、ナナは深々と頭を下げる。そのまま居間を出て行こうとする三人の背を、愛想のかけらもない老人の声が呼び止めた。 「月のかけらだけでは、神殿への道は開けても巫女としての役割は果たせんぞ」 「え?」 「ルビスの聖堂に続く道は溶岩に守られ、巫女とそれが認めた者のみが通ることを許される。溶岩を従える時、巫女は神衣を纏ったと言われている」 ドン・モハメの視線を追って、三人は壁に目をやった。殺風景な室内を唯一彩るタペストリーは、魔女の家で見たそれよりも数倍大きく、数段凝った作りだ。 羽衣のようなものを纏った金髪の乙女が、溶岩の只中に佇んでいる。荒れ狂うマグマは乙女の慈しみによって清水へと変化し、星屑の如く煌きながら白い踝を濡らしている。 「水の羽衣はテパに伝わる神衣。テパ族口伝の技法で織り成す特別な衣だ」 「モハメ……」 「水の羽衣が欲しいのなら、もう一働きしてもらわねばならんぞ」 口を開きかけたナナを制するよう、ドン・モハメがぎしりと揺椅子を鳴らした。膝に抱かれた犬が小さく耳を持ち上げる。 「水の羽衣は聖なる織機と雨つゆの糸を用いて紡ぐ。だが織機の技師は既に血筋を途絶えさせ、最後の一台もこの村からは失われて久しい」 「何だよ、じゃあもうだめ……」 余計な口を挟みかけたアレンは、コナンに思い切り向う脛を蹴られて涙目になった。 「この村からは、ということは何処かにはあるのですね」 「まだテパ族が海で暮らしていた頃、太陽の民と懇意になった歴史がある。テパ族は太陽と海の友情の証として聖なる織機を贈ったそうだ」 「太陽の民……?」 「現在のザハンだ」 それは精霊神ルビスの従者が見守る島……紋章の一つが眠ると告げられた島国の名だ。もとよりザハンに向かう予定があった彼らにとって、余計な寄り道にならないのは僥倖である。 「雨つゆの糸もまた、水と風の竜を崇めていた民より譲られた品だった。彼らは既に滅び、新たに糸を手に入れることは叶わぬ。譲られた糸は残り少ないが、一着くらいならどうにかなるだろう」 そこでドン・モハメがゆっくりと眉を持ち上げる。彼が初めて渋面以外の表情を見せた瞬間だった。 「尤もその糸も今はこの村にない。半年程前、外からやってきた男に盗まれてしまった」 次から次へと転がり出てくる問題に、末裔達は思わず顔を見合わせた。水の羽衣の入手は容易いことではなさそうだ。 「ラゴスという盗人を捕まえてくれ。糸を取り戻し、牢屋に放り込んでくれる」 「ラゴス?」 「知ってるの、コナン?」 「……どちらにせよ、次の目的地はペルポイだ」 確かな心当たりがあるという風にコナンが頷いた。コナンがどれ程の情報を持っているのかは定かでないが、犯罪者の集う地下都市ならば盗賊が身を潜めている可能性は高い。 「必要なものが分かったのならさっさと行け。お前達がぐずぐずしている間に、わしは水の羽衣の織り方を忘れてしまうかもしれんぞ」 アレンは軽く舌を出し、コナンは小さく笑って扉から出て行く。二人に続いて歩み出したナナは、戸口のところで振り返った。 「新しいムーンブルクに何時かいらしてくださいね」 そう老人に語るナナの声には、一片の躊躇いも戸惑いもない。 「世界で一番優しい国にしてみせます。わたしじゃ頼りないと思われるでしょうけど、わたしは一人じゃありません。わたしには見守ってくれるたくさんの命と、力を貸してくれる仲間がいるんです」 ナナは扉を開けて外に出た。淡い秋の日差し、柔らかな微風、晴れた日の空の色はムーンブルクのそれと同じ色。 道の半ばで待っているアレンとコナンに向かって、ナナは駆け出した。 |