地上が一雨毎に色を深める深秋を迎えても、ペルポイに四季の移ろいはない。大地に穿たれた巨大な空間には、夏に訪れた時と変わらぬ匂いが漂い、変わらぬ空気が流れ、変わらぬ光が降り注いでいる。 「ペルポイは何時も賑やかね」 下方から響く喧騒に誘われるよう、ナナが階段の柵から身を乗り出す。数秒間町を見下ろしてから、訝しそうな顔で二人の仲間を振り返った。 「ねえ、この鎖、何かしら」 「鎖?」 ドーム状に刳り貫かれた町には、緩やかな曲線を描く壁に沿って階段が設置されている。落下防止のあちこちに括りつけられた鎖が天井まで伸びて、まるで蜘蛛の巣の如く岩の空を覆っているのだ。 天井の中央部分から巨大な三日月がぶら下がり、それを取り巻くように揺れる鎖に数多の星が飾られている。偽りの夜空を支える土台として張り巡らされた鎖のようだ。 「多分祭りの飾りつけだ。ほら、あそこを見てごらん」 コナンが示す広場には巨大な山車が並んでいた。全体的にくすんだ色調の町中にあって、華やかに飾られたそれらは一際よく目立つ。まるでそこにだけ春の女神が気紛れな恩恵を投げかけ、季節外れの花が咲いたかのようだ。 「祭りかぁ!」 二人に並んで町を見下ろし、アレンはぱあっと顔を輝かせた。祭りは楽しい。祭りは賑やかだ。祭りは美味いものがたくさん食える。 「僕達がここに来たのはラゴスを探すためだ。祭り見物ではない」 「ちょっとくらい参加したっていいだろ」 コナンの牽制をものともせず、アレンはうきうきと手摺から身を乗り出した。既に彼の脳内は祭り一色、当初の目的は茫漠たる霞の中だ。 ローレシアにも春と秋の二回、国を挙げての巨大な祭りがある。国中が浮き立つこの時ばかりは父やお目付け役の監視も自然緩くなるので、アレンは容易く城を脱出し、明け方まで遊び回ることが出来た。杯のぶつかり合う音、終わりを知らない音楽、人々の笑い声……思い出しただけで気持ちが弾んでくる。 「でもこの中から一人を見つけるなんて出来るかな。凄い人」 アレン同様祭りに興奮しながらも、こちらは役目を忘れていないナナが舌を出す。整然と区画された大路で蠢く人の数は、小国の城下町にも匹敵する程だ。 「闇雲に探すわけではないから大丈夫だろう。まずはアンナのところへ行こう」 「うん」 「あ、待てよ」 未練がましく広場を一瞥してから、アレンは二人を追う。階段を下りながら、眼前に揺れるマントに兼ねてからの疑問を今更ながらぶつけてみた。 「なあ、何でラゴスを探すのにアンナんとこへ行くんだよ?」 「以前アンナがラゴスの名を口にしていたことがあったんだ。恐らく彼について何か知っているだろう」 返ってくるコナンの声はやや渋い。 「僕達にはやるべきことが山のようにある。盗人探しなどに無駄な時間を掛けてはいられない」 この町で目的を達したのち、彼らは聖なる織機入手のため遙か南のザハンへ赴く。ザハンから再びペルポイを経由してテパに舞い戻るまで、どう短く見積もっても一ヶ月はかかる旅程だ。ラゴス捜索に梃子摺っている暇などない。 「でもあのアンナがラゴスと知り合いだなんてしっくりこないな」 首を傾げるナナにはアレンも同感だ。テパの村から雨露の糸を持ち出したコソ泥と、大人しい歌姫のイメージはどうにもそぐわない。 「しっくりこないというのなら、僕とアレンが共に旅をしている事実も同様だろう」 「……どういう意味だよ」 「世界は不思議と驚きに満ちているということさ」 コナンは振り返り、嫌味臭く両眉を持ち上げて見せた。 長い階段を下りると商店街の大路に出る。広く幅を取ったメインストリートは住宅街へ続き、その外れにアンナの暮らす家はあった。 「あ、ねえ、あそこ」 ナナが声を上げると同時、末裔達は誰からともなく足を止める。商店街に向かい合う広場から、彼らにとって馴染み深い歌声が聞こえてきたのだ。 噴水の淵に腰かけて、可憐な歌声を響かせるのはペルポイの歌姫だった。久々に聞く彼女の声に衰えはなく、それどころか益々張りと力を増したようだ。紛うことなく、彼女は当代一の歌姫である。 「おーい、アン……」 声をかけようとしたところで右腕に制される。きょとんとしたアレンの傍らを摺り抜けるように、颯爽と進み出たのはコナンだ。 「僕はこのペルポイの魅力を三つ知っている」 勿体振った言い回しをしながら、コナンがアンナに歩み寄っていく。何処からともなく生じた光の粒子が、彼の周辺をきらきらと彩り始めた。 「一つは天気の心配をしなくて良いこと、一つはワインが美味いこと、一つは君の歌声が聞こえてくることだ」 「……コナン?」 振り向いたアンナの頬が見る見る紅潮していく。何も映さぬはずの瞳がしっかりとコナンを捕らえていた。 「コナンね? テパから戻ってきたの?」 「またここに用事が出来てね。まずは君に挨拶せねばと思ったんだ」 花が綻ぶようにアンナは破顔し、虚ろな視線を周囲に彷徨わせた。 「アレンとナナは何処? 一緒にいるの?」 「勿論一緒よ。久しぶりね、元気だった?」 ナナがアンナの手を取ってぶんぶんと上下する。赤い瞳が、やや距離を置いたところに立ち並ぶ山車をちらりと眺めた。 「ねえねえ、近々お祭りがあるって本当?」 「ええ、年に一度の大きなお祭りよ。町を飾って、仮装して……その夜だけ、普段とは違う町中で、普段とは違う自分になって楽しむの」 その夜ペルポイの人々は腹がくちるまで食べ、酩酊するまで飲み、声が枯れるまで歌い、足が痺れるまで踊る。日常から切り離された幻想的な空間の中、義務と睡眠を忘れて一時の享楽に身を委ねるのだ。 「お祭りにはわたしの山車も出るのよ。良かったら見に来てね」 「アンナの山車? すごーい、絶対に見に行く! どんな山車なの?」 「今回のお祭りで一番大きな山車なのよ。百合の花をたくさん飾る予定なの」 「アンナも仮装もするの?」 「ええ、今年は春の女神の仮装なの。お母さんが衣装を見立ててくれたのよ」 「いいなあ、羨ましい」 きゃっきゃっとはしゃぐ少女達の雑談は当分終わりそうもない。待っていたら日が暮れるとばかり、アレンがやや強引に本題を切り出した。 「なあアンナ。俺ら、ラゴスって奴を探してるんだ。お前とラゴスって知り合いなのか?」 「ラゴス? ……ええ、ラゴスはわたしのお友達よ」 唐突な問いに戸惑ってか、アレンは瞳をぱちくりさせる。 「そいつが何処にいるか分かるか?」 「ラゴスなら今……」 「アンナあああ!」 けたたましい声が響いた次の瞬間、何かがどんとアレンを押し退けた。不意を突かれたアレンはたたらを踏み、結局バランスを取り戻せないまま縁石に躓いて頭から噴水に突っ込む。 「待たせたなぁアンナ、腹減っただろう?」 アレンを突き飛ばしたのも気付かぬ風情で、一人の男がアンナに駆け寄った。 年の頃は二十歳前後、末裔達よりも二、三上といったところか。やや眦の下がった瞳は淡い空色、襟足で括った髪は濃い栗色。尖った顎と高い鷲鼻が印象的な顔立ちに、へらへらと満ち足りた笑いを浮かべている。 「アンナの好物をたくさん買ってきてやったんだぞ」 男は片手に抱えた紙袋から取り出したものを、次々とアンナの膝に積み重ねていく。 「りんご、オレンジ、シュークリーム、マドレーヌ、ミルクプリン。どうだ、俺様はアンナの好きなものをちゃんと分かってるだろ?」 「まあこんなにたくさん? ありがとう」 立ち込める甘い香にアンナが微笑んだ。 「お礼に、今度はわたしがラゴスに何か作ってくるわね」 「それじゃあ俺様はアンナのドーナッツが食いたいぜ。アンナのドーナッツほどふわふわしたドーナッツはこの世にねぇ……」 「てめえ、いきなり何しやがる!」 ざばりと水飛沫を上げてアレンが水面から浮上した。途端男は緩みまくった顔を引き締め、嫌悪も顕にアレンをじろじろと眺める。 「噴水で泳ぐなんざ躾のなってねぇガキだ。水遊びなら池か川にしときな」 「お前が突き飛ばしたんだよっ、謝れよっ」 アレンは噴水の縁をまたぎ越して男に対峙した。男はひょろりと細身だが、背丈はアレンと並ぶほどに高い。 「ああん? お前が俺様の道を塞いでたんだろ? 何で俺様が頭下げなきゃならない……」 「まあ、そんな言い方ってないわ。アレンに謝らなくちゃだめよ」 「俺様が悪かった」 アンナが眉を潜めただけで、男はあっさり謝罪の言葉を口にした。アンナの穏やかな説教は、彼にとって怒号以上の影響力を持つようだ。 「何時も話してるでしょう、アレンとコナンとナナよ。ラゴス、あなたに用事があるって尋ねてきたの」 ではアンナが見上げるこの男こそ末裔達の探し人というわけだ。あまりに呆気ない展開に三人は思わず顔を見合わせる。 「俺様に用事だと?」 ラゴスが警戒して体を強張らせるのが分かったが、アレンは構わず、その鼻先に掌を突き出した。 「お前の盗んだもん、返せよ」 「何?」 「テパの雨露の糸。心当たりあるでしょ?」 「テパ……ああ、あれか」 ラゴスはふんぞり返って腕を組み、頤をくいと持ち上げた。膨らんだ鼻腔がぴくぴくと得意げに蠢く。 「まずは自己紹介をしておこう。俺様は天下無敵のコソ泥ラゴス様。天から舞い降り地から湧き出、ものがなくなって人が驚く顔をこっそり眺めるのが生甲斐だ」 微妙な主義を得意気に披露し、ラゴスはにやりと唇を歪めた。 「俺様の辞書に、返すとか謝るとか反省するとかいう文字はない! 従って……」 「何だよ?」 不穏なものを覚えて、アレンがそれとなく身構える。息詰まるような沈黙が満ちた一瞬後、ラゴスが唐突にくるりと踵を返した。 「逃げるんだよォォォーーー!」 「あっ!」 考えるより先に体が動くアレンが、反射的に後を追って駆け出す。一拍置いて二人を追走するのはコナンだ。 「何……? どうしたの? 何が起きているの?」 「大丈夫よ、何でもない。後でまた来るから!」 状況が飲み込めずに戸惑うアンナを宥めると、ナナもまたペルポイの人ごみに飛び込んだ。 |