聖なる国と勇者の泉<2>


 アレンははっと足を止め、木陰に身を潜めた。
 金色の光に縁取られた窓辺で、一人の少女がぼんやりと庭を眺めていた。窓枠に頬杖をつき、物憂げに溜息をつく様は随分と大人びて見えるが、頬や唇のまろやかな線から察するに十を超えた程度だろう。亜麻色の巻き毛と水色の瞳を持つなかなかの美少女である。
 見つかったら面倒だと、後退した足が枯れ枝を踏んだ。乾いた音が誤魔化しようのないほど大きく響き、アレンは思わず首を竦める。
「誰?」
 少女は顔を上げ、アレンの潜む木に真っ直ぐに視線を向けてきた。
「誰かそこにいらっしゃいますの? 泥棒? 強盗? それともワタクシの類まれなる美しさに目をつけた悪い魔法使い? 何にせよ速やかに姿をお見せあそばしませ、さもないと大声を出しますわよ!」
「ちょ、ちょっと待て!」
 ここで人を呼ばれたら一巻の終わりだ。アレンは慌てて木の陰から飛び出した。
「俺はさ、その、全然怪しくねぇから大丈夫!」
 説得力皆無の台詞を吐きつつ、敵意がないことを示すため、アレンは両手を軽く広げて見せる。
 少女は目を眇め、庭先に潜んでいたこの上なく怪しい少年をじろじろと眺める。緊張に強張っていた頬が緩んだのは数秒後のことだ。
「あなたは、ロトの末裔の方?」
「……何で分かる?」
「あなたのその目は、正統な勇者の末裔の証ですもの」
 アレンの鋭い舌打ちにも気付かぬ素振りで、少女はうっとりと睫を上下させた。
 不死鳥から力を授かった勇者ロトは、同じく竜に愛されたもう一人の勇者と共に、空に穿たれた穴を塞いだと言われている。
 戦いののち勇者達は伝説に消え、彼らの行く末を知る者はいない。だが神々に愛でられた血脈は、人の世の中で密やかに呼吸し続けていた。
 そして今から百年前、ロトの勇者と王女ローラの婚姻によって、二つの加護は一つの血筋の中に溶けた。以来ロト三国の王家には時折、力の名残りを宿した者が生まれてくるのだ。
「……そんな大層なもんじゃねぇよ、こんな目」
「まあ、そんなことありませんわ。不死鳥の青と竜の赤……この色の瞳を持つ方々は、ロトの末裔において特別な存在ですわ」
 そうして少女は畏敬を込めて、吐息の如く囁いた。
「現存の末裔で不死鳥の力を受け継ぐ方は、お兄様とローレシアの王子様のお二人のはず。あなたはローレシアのアレン様ですのね」
 奇跡の証は末裔達の双眸に現れる。現王健在にもかかわらず二年後の王位継承がローレシアで決定されている理由も、アレンが青い瞳の持ち主であるからだ。
 伝説に謳われる力は絶対的なカリスマとなる。神の愛児を王位に据えることによって、ローレシアという巨大な国を固く結びつけようとの目論みがあるのだ。
 尤もそんな言い伝えもアレンにとっては傍迷惑な代物でしかない。目が青いというだけで未来が早々に決定されてしまうのには耐えられなかった。
「えーと、そんでお前は誰なんだ?」
 嫉妬と憧憬の入り混じった視線を浴びせられ、アレンは居心地の悪い思いをしながら不器用に話題を変える。アレンという存在を摺り抜けて、血に潜むものを崇められるのは正直不愉快だ。
「まあ、申し遅れました。ワタクシはニーナと申します。ここサマルトリアの王女ですわ」
 少女は気取った風に深々とこうべを垂れる。癖のある亜麻色の髪が、淡い蝋燭の光を受けて天使の輪を頂いた。


 サマルトリア王は亡き王妃との間に二人の子を儲けている。アレンと同日に十六歳を迎えた第一王子コナン、そして六つ年下の第一王女ニーナだ。
 サマルトリアのプリンセスはませた仕草で首を傾げ、改めてアレンを観察した。
「それにしてもワタクシのような年端のいかないレディをこんな夜更けに尋ねてこられるなんて……もしかして、アレン様は幼女趣味ですの?」
「ばっ……違うよ!」
「ホホホ、ウィットに富んだサマルトリア風のジョークですわ」
 ニーナは小さな手を口の端に当てて体を仰け反らせた。本人は優美に笑っているつもりらしい。
「ところでアレン様。ローレシアを飛び出されたとのお噂は伺っておりますが、城の庭で何をなさっておられましたの?」
「お前の兄ちゃんに用があるんだよ」
 渡りの船とはこのことだ。彼女を通せば兄王子に会うのも容易だろうと、アレンは意気込んで身を乗り出した。
「部屋が何処にあるか教えて欲しいんだけどな」
「お兄様は城にはいらっしゃいません」
 ニーナは芝居がかった風にぱちぱちと瞬きした。
「昨日、ムーンブルクを滅ぼした悪を討ち果たさんと美しく旅立っていかれましたわ。平和を取り戻せとの啓示があったと仰っていました」
「……啓示って何だ?」
「さあ? 詳しくは説明してくださいませんでした。お父様ならご存知でしょうけど、ワタクシには何も」
「お前の親父は兄ちゃんが旅に出るのを許したんだ。理解あんねー、俺なんて反対されまくって家出してきたのに」
「アレン様はローレシア王家唯一の跡取りでいらっしゃるのですから仕方ありませんわ。サマルトリアの場合、万が一お兄様に何かあってもワタクシがおりますから」
 幼い唇から放たれた台詞は、恐ろしく割り切ったものだった。
「我が国では何よりも神のご意思を尊重するのですわ、アレン様。サマルトリア王家は精霊神ルビスと英霊ロトにお仕えするのが役目。旅立ちを命ぜられたとあれば、国王だろうが王子だろうが出奔いたします。神のためなら例え火の中水の中、空だって飛んで見せますわ」
 ニーナは鼻息を荒くして拳を振り回す。サマルトリア人の信仰心は気合の入り方が違った。
「要するにお前の兄ちゃんも俺と同じ目的で城を出たってことか」
 ものの見事に入れ違ったというわけだ。アレンは腕を組んで唸った。
「そーなると今何処にいるんだろ。お前、行き先聞いてる?」
「行き先って……ロトの王族が旅に出て、最初に目指すところは決まっておりますわ。アレン様も行かれたのでしょう?」
「行くって何処に?」
「ご冗談ばかり。勇者の泉に決まっているじゃありませんの」
「勇者の泉? 何それ?」
 アレンが本気で首を傾げるのを見て、ニーナはまだ薄い眉をきりりと持ち上げた。
「んまぁ、アレン様ったら何もご存知でありませんのね!」
 憤然と睨み上げられ、アレンは母親に叱責されるような錯覚に首を竦めた。どっちが年上だか分かりゃしない。
「勇者の泉は禊の場ですわ! 王家の男子は門出の際、泉で身を清めて祈りを捧げるのですわ! そうして英霊ロトの守護を願うのですわ! ロトの王族の常識ですわ! そんなこともご存知ないなんて先が思いやられますわー!」
「うう……」
 畳みかけるように言われてアレンはようやく思い出す。
 サマルトリアの真東、ローレシアからは北東の方角に小さな泉がある。勇者の泉と呼ばれるそれは、精霊ルビスの涙から出来た神秘の泉だと古くから伝えられている。
 門出の際に泉で身を清め、ルビスとロトの加護を願うのはローレシア王家も共通のしきたりだ。それにもかかわらずアレンの頭からすっぽりとそのことが抜けていたのは、彼がこの手の奇跡や神秘を全く信じていないからに他ならない。
「アレン様も行かれるべきですわ!」
 ニーナは口角泡を飛ばして力説を始めた。子猫のような双眸に神への情熱がめらめらと燃え上がる。
「そうでないときっと良くないことが起こりますわ! 旅の途中で魔物に不意打ちされますわ! 手足ばらばらに引き千切られますわ! 内臓を貪られますわ! 骨までしゃぶり尽くされますわ! そうなってから後悔なさっても遅いですわ!」
「……」
「ですから勇者の泉にいらっしゃってくださいませ、アレン様」
「……うん」
 頷くまで懇々と説得されそうな気配を感じて、アレンは不承不承頷いた。思い込みの激しそうなこの少女は、アレンが泉に行かないと察するや、国王たる父親を呼んで説得させかねない勢いなのだ。
「安心致しましたわ。あ、ローレシアの剣士として剣に懸けて誓ってくださいませね」
 しっかりと釘を刺して、ニーナはにっこりと微笑む。アレンは完全敗北を悟って溜息をついた。