サマルトリアの城下町で一晩たっぷり睡眠を取った後、アレンは勇者の泉を目指して元気に出発した。 ニーナの話によると、サマルトリアから東に一週間ほど進めば鬱蒼とした森に辿り着くという。木々の合間を突き抜けた奥深く、小さな原っぱに佇む岩山に、神秘の泉が滾々と湧き出しているとのことだった。 途中何度か魔物に幾手を阻まれつつも、アレンの旅はすこぶる順調だった。ローレシアを出た頃は疲労の蓄積で動きも鈍かったが、無理のない旅のペースを掴んだ今、そんな問題も解決している。 加えて確実に強くなっているという自負が気持ちに余裕を持たせた。実際アレンの剣捌きは日々力強さと速度を増し、ほとんどの魔物は一撃の下に絶命するのだ。 だがそんな自信が、時として命取りになることもある。 サマルトリアを出発して六日後の昼過ぎ、アレンは突き出した木の根に腰かけて、短い休憩を取っていた。くしゃくしゃになった地図を広げ、彼にしては慎重に指を滑らせていく。 「今は多分この辺だから……この調子だと日が暮れる前に勇者の泉に着けるかな」 水筒の水を口に含むと、生温い水が乾いた喉に心地よく染みた。 「そこでコナンとかいう奴をとっ捕まえて、次はローラの門か。関所を通ればムーンブルク領土だな」 アレンは折り畳んだ地図と水筒を荷物に押し込めた。一気に勇者の泉を目指そうと、気合を入れて立ち上がる。 意気揚々と歩き出した足が、柔らかい草を踏みしめた状態で止まった。 「……」 青い瞳が俄かに緊張を帯びた。アレンは前傾して背中の剣に手をかけ、稲妻の如き眼差しを四方に走らせる。鋭い視線に燻されるかのように茂みから現れたのは、巨大な蟻を思わせるアイアンアントだ。 犬ほどもある蟻の魔物は、硬い外骨格が曲者だ。初めて遭遇した時は、アレンの馬鹿力を以てしても外皮を砕くのに四苦八苦したものである。 しかしサルなアレンもやがて学習する。まともに打てば刃が弾かれる魔物でも、装甲の節目を狙えば案外もろいのだ。アイアンアントは胴に三箇所、足に二箇所の繋ぎ目を持っている。そこに剣を叩き込めば切断は容易い。 「ありんこが一匹、二匹、三匹と」 アレンは剣を構え、かさかさと音を立てる魔物達を見据えた。 「相手してやる。かかってきな」 アレンの挑発を理解したのか、一匹のアイアンアントがノミのように跳躍した。 アレンは易々と攻撃をかわし、宙に浮いた魔物目がけて剣を振り下ろす。よく手入れされた刃は外皮と外皮の節目を捉え、柔らかい肉の部分を一気に切断した。 両断されたアイアンアントは地面に落ち、ぴくぴくと痙攣した後動かなくなる。 残されたアイアンアント達がしゃりしゃりと牙を鳴らし始めた。鑢を擦り合わせるような奇妙な音は、彼らが援軍を呼ぶ声だ。 新たにやってきたアイアンアントが、牙を擦り合わせて仲間を呼んだ。 「ありんこが一匹二匹増えたところで……」 重ねて登場したアイアンアントが、牙を擦り合わせて仲間を呼んだ。 「この俺がどうかなるとでも……」 更に現れたアイアンアントが、牙を擦り合わせて仲間を呼んだ。 「……」 しつこく増えたアイアンアントが、牙を擦り合せて仲間を呼んだ。 「……すみませんでした」 さっさと逃げりゃ良かったと歯噛みしてももう遅い。 アレンを中心として、五十を超えるアイアンアントがびっしりと放射状に広がっている。それらはみな一様に触覚を上下させ、節足を蠢かし、黄色く濁った複眼でアレンの隙を伺っているのだ。 「来ちまったもんはしょうがねぇか……行くぞ!」 アレンは大上段に剣を構えた。手近なアイアンアントの首を切り落とし、返す刀で別の個体の足を薙ぐ。跳躍した魔物の腹部を切り裂き、地面に落ちたところを三匹纏めて串刺しにする。叩き、切り、潰し、とにかく手当たり次第に敵を屠った。 無残に切断、或いは潰された仲間の屍を乗り越えて、無数のアイアンアントがアレンとの距離を縮め始める。 殺しても殺しても魔物の数は減らなかった。何せアレンが一匹屠る間に、新しい固体が三匹増える計算なのだ。何匹ものアイアンアントが同時に仲間を呼んで数を増やしていくのだから到底始末が追いつかない。 敵の増員は際限ないのに比べ、アレンの体力には限りがあった。三十匹目を殺した辺りから息が切れ始め、四十匹目を切断した頃から腕が痺れ始める。目に染みた汗を拭った際、アレンの足元がふらりとよろめいた。 その一瞬の隙を突いて、アイアンアントがアレンのブーツに飛びついた。分厚い皮と丈夫な布地を易々と貫通して、牙がアレンの肌に突き刺さる。きん、と脳天まで響く不快な痛みがアレンの全身に伝わった。 「いてっ」 叩き落そうと振り上げた腕に別のアイアンアントが噛みつく。力任せに振り払ったそれが地面に落ちるより早く、新たな魔物が喰らいついて同じ個所を抉る。血管が破られたのか、ぼたぼたと血が地面に滴り落ちた。鉄臭い血臭に反応して、アイアンアント達が嬉しげにきいきいと鳴き交わす。 魔物達が一気にアレンに群がり始めた。地面に落ちた獲物を貪る蟻さながら、我先にとアレンを埋め尽くしていく。 小さく尖った牙が容赦なくアレンの皮膚を裂き、肉を齧り、血を啜った。生きながら食われる激痛は声にならない。 「こ……の……」 大量の出血のせいか、次第に視界が暗くなってきた。 このまま魔物に喰らい尽くされるのだろう。骨一本、髪の毛一筋残さずにこの世から消えるのだろう。残された剣や荷物は風雨に晒され、長い年月をかけて土に帰っていくのだろう。 ローレシアの王子は力を過信して単身出奔し、そうして二度と帰らなかった。そんな不名誉な最期が遠い未来まで語られていくのだ。 アレンは血の味のする唇を噛み締めた。 薄墨を溶かしたようだった視界に、不意にさあっと光が差し込んだ。 光に驚いたアイアンアント達が、ざわざわと引き潮の如くアレンから離れていく。尤もその不思議な現象に驚愕しているのは魔物ばかりではない。 「な……」 大気から湧き出した光の粒が、彗星のように尾を引いてアレンの体に纏わりついた。 「何だこれ?」 光に覆われた箇所から痛みが消えた。肉が盛り上がり、薄皮が再生し、体中に刻まれた無数の傷がまるで幻のように消えていく。 呆気に取られるアレンの横顔を、次は鮮やかな紅の光が照らし出す。 何処からか飛来した火玉が次々とアレンの周囲に落下した。燃え上がる炎の向こうで、苦しげにもがく魔物の姿があたかも影絵のように浮かび上がる。生き物を焼く独特の臭気が、つんと鼻の粘膜に突き刺さった。 その刺激でアレンは我に返った。素早く片膝を立て、両手に構えた剣を横一文字に滑らせる。五匹分の体液と外皮がぱあっと宙に舞ったのを合図として、その場から魔物の気配が完全に消え失せた。 「……」 動くものがいないのを確認して、アレンははあと息を吐く。その瞬間全身の力が抜けて、思わずその場にへたり込んだ。 「……俺、生きてんだよな……?」 十六年間生きてきて、これほどまでに死を間近に感じたことはなかった。鋭い牙の感触を思い出せば、冷たい恐怖がじわじわと血管の中を駆け巡る。恐らく一生忘れられない記憶となるだろう。 「いやはや、話には聞いていたがローレシアの剣技は実に美しい。洗練された太刀筋はまさに芸術だ。アイアンアントを五匹纏めて屠るとは恐れ入ったよ」 聞き覚えのない声がして、アレンは反射的にそちらを向いた。 岩に腰かけ、手袋を嵌めた手でばっふんばっふんと拍手するのはまるで見知らぬ少年である。 亜麻色の肌と白皙の肌を持つ、すらりとした姿態の若者だ。ガラス細工のように美しく繊細だが、体温を感じさせない目鼻立ちは好き嫌いが分かれるだろう。眦の切れ上がったきれいな瞳は、その色と輝きがアレンと良く似ている。 少年はひょいと岩山から飛び降り、へたり込んだままのアレンに歩み寄った。アレンの顔を覗き込み、目の色を確認してよしよしと頷く。 「思った通りだ。君がローレシアのアレンだね」 「お前は……」 少年は一歩退いた。胸に手を当て、ばさあ、とマントを翻して深々と頭を下げる。 「僕はサマルトリアのコナン。君と同じくロトの末裔だ。曾お祖父様の縁で君とは又従兄弟になるのかな。どうぞよろしく」 アレンは差し出された手を取った。コナンがぐいと引くのに合わせて立ち上がる。 「さっきの、お前の魔術?」 「君の傷を治したのはホイミ、魔物を焼いたのはギラ。どちらも初級の魔術だが今のところなかなか重宝している。そのうちより美しく壮大な、僕に相応しい魔術を会得するから大いに期待していてくれたまえ」 そう得意気に言って、コナンはふっと亜麻色の髪を掻き上げた。 アレンはしげしげとコナンの手に視線を落とした。皮の手袋を嵌めた何の変哲もないこの掌から、先ほどの不思議な現象が生み出されたのだ。 胡散臭いとしか思わなかった魔術師への認識を改めざるを得なかった。ホイミの優しい光が、ギラの煌く火玉がなければ、今頃魔物に貪り尽くされていたに違いない。 「……お陰で助かった。ありがと」 「どういたしまして」 コナンは芝居がかった風に顎をしゃくった。演出過多なところが妹とそっくりだ。 「ところでアレン、こんなところにいるということは、君も勇者の泉を目指しているんだね?」 「ニーナに勧められてっつーか押しつけられてっつーか……お前が勇者の泉に行ったって聞いたから追い駆けてきたんだよ」 「妹に会ったのか。……ということは君、サマルトリアに?」 「お前に会いにな。城出てるなんて知らなかったし」 コナンは形の良い眉をひょいと持ち上げた。 「それは失敬。君を来るのを待っていた方が正解だったかな。だが彼の言葉を聞いた以上、サマルトリアに留まる必要性も感じなくてね」 「彼?」 眉を顰めるアレンに対し、コナンは小さく首を捻った。 「君のところにも来ただろう? 彼に言われたからこそ、僕に会いにサマルトリアに向かったんだろう?」 「……ああ」 アレンは地下水路で会った少年の存在をようやく思い出した。とんとんと側頭部を叩きながら眉間に皺を刻む。 「あの変な奴、お前のとこにも来たんだ。あいつ一体、何なんだろうな」 「何なんだろうなって……まさか君、気付いてないのか?」 「何をだよ」 コナンは珍しい生き物でも見るような目でじろじろアレンを眺め、やがてふうと溜息をつく。 「まぁいいか。そのうち気付くだろう」 「教えてくれたっていいだろ」 「こういうことは自分で気付かないと意味がない」 「何だよ気になる言い方だなー」 「さて、日が沈む前に勇者の泉に行こう。暗くなってからの進行は不便で美しくない」 コナンは鮮やかな色のマントを翻してとっとと歩き出す。 アレンはむっとした唇を突き出したが、元来知的好奇心が極めて薄い男である。不思議な少年に対する興味もそれほど深いわけではないから、すぐさま気を取り直してコナンの後を追った。 |