聖なる国と勇者の泉<4>


 何の変哲もない岩山の奥に、その泉はあった。
 光の玉が水面から湧き出し、蛍の如く飛び交った後、不意にぱちんと弾けて消える。光の残滓は泉に還り、優しく慰められた後、また新たなる命を授かって歓喜に満ちた飛翔を始める。
 そこは、大いなる力に満ちた特別な場所だった。その手の力には疎いアレンでさえ、勇者の泉を目の当たりにした途端、背筋から項にかけて畏怖にも似た震えが駆け抜けたほどである。
「すげぇなぁ」
「美しい……!」
 叫んだコナンの声は、感嘆のあまり掠れていた。
「輝く泉、煌く光、そして僕達を包む清浄なる空気。まさに勇者の門出を寿ぐに相応しい。君もそう思うだろう、アレンっ」
 コナンの瞳にきらきらと星が浮いた。平生不自然なまでに白い頬が、今ばかりは興奮と熱気を孕んでつやつやと赤い。
「伝説の泉は沈黙を湛えて高貴なる僕の訪れを待つ。おお、新しい門出に酒盃を交わそう……」
「……それ、何のまじない?」
「たった今出来上がった僕の作品さ。僕は詩と刺繍が趣味で、記念すべき場面ではつい詩を吟じたくなってしまうんだよ」
 ふっと亜麻色の髪を払うコナンに、アレンは思わず太い眉を顰めた。ローレシアではお目にかかったことのないタイプである。
「ひょっとしてお前、ヘンな奴なのか?」
「往々にして、真の芸術家とは理解されないものなのだ」
 嘯きながら片膝をつくと、コナンは手袋を外して泉に手を差し入れた。少年の指を始点として、音もなく波紋が生じていく。
「問題なさそうだ。アレン、君から先にどうぞ。僕は後から入るよ」
「……一緒に入りゃいいじゃん。こんなに広いんだし」
「残念ながらそれは同意しかねる」
 アレンは益々眉間の皴を深くしながら、コナンを無遠慮に眺め回した。
「何で? そうは見えねぇけど、まさかお前女だとか?」
「僕は正真正銘の男性だとも。麗しい男装の姫君とのロマンスを期待させてしまったのなら謝るよ」
「んなこと期待してねーてのっ」
「そうかい? だが男の二人旅などどう考えても汗臭くて美しくない。レディの笑顔さえあれば旅路もぱっと華やぐものを」
 ゆるゆるとかぶりを振ったコナンがふと真顔になった。
「ムーンブルクには姫が一人いた。彼女も僕達と同じ年、同じ月、同じ日に生まれたそうだ。運命的なものを感じないかい?」
「ムーンブルクの王女……ええっと……ナナとかいう奴だったっけ」
 ムーンブルクの王女ナナは、アレンの父方の従姉妹に当たる。
 実際に会ったことはないがその噂だけは時折耳にしていた。彼らの曾祖母ローラに良く似た可憐な美少女だという。
「おまけに姫は赤い瞳をしていたそうだ。この瞳の色が意味するところは君も知っているだろう?」
「……雨の血筋ってやつかよ」
「その通り。僕達は不死鳥の力を継いだ太陽の血筋。そして彼女は、竜の力を継いだ雨の血筋だ」
 効果的に間を置いてから、コナンはよく響く声で厳かに言った。
「……雨と太陽が合わさる時、虹の橋が出来る」
 それは勇者伝説を尤も端的に表現した文句だ。雨と太陽が虹を描くように、二つの血筋の心が一つになった時、途方もない奇跡が生まれるとされているのだ。五百年前にはロトともう一人の勇者が、百年前にはロトの勇者とローラ姫が、虹の奇跡を齎して世界を救った。
 奇跡の瞳の持ち主達が、同年同月同日に生まれた時点で何かが始まっていたのかもしれない。運命の輪は末裔達を巻き込みながら、こうしている間にもゆっくりと回転を続けている。
「彼が言っていた通り、姫が生きているのなら……次は僕達が新しい虹をかけねばならない」
 コナンの言う彼とは、アレンが地下水路で会ったあの少年のことだろう。確かに彼はムーンブルク王女の生存を示唆していた。
「気ぃ進まねぇなぁ」
 アレンは後頭部で両手を組み合わせてぼやいた。
「ナナって奴と一緒に旅するってことだろ? ほら女ってさ、たまに痛いことするじゃん」
「痛いこと? ……ああ、彼女によってはそういうこともあるかもね。だがそれも男女のイトナミの一環であり、大切なのは技巧ではなく心……」
「イトナミ? 何だそれ?」
「何って……君が今、痛いことをされたと……」
「……?」
「……?」
 お互い意図を掴めず困惑するものの、ややあってコナンが擦れ違いの原因に気付いたようだ。ふっと余裕めいた微笑みを浮かべ、ぽんとアレンの肩に手を置く。
「失敬、僕の早とちりか。君はまだオトナの階段を上っていないようだ」
「お前、さっきから何言ってんだよ?」
「いやいや、気にしないでくれたまえ」
 コナンは更にぽんぽんぽんとアレンの肩を叩く。
「君が今日までレディと深い関わりを持たずに生きて来たことは分かった。そこで一つ聞きたいんだが、君まさか、そっちのケはないだろうね?」
「ああああるわけねーだろ! 何なんだよいきなり!」
 何故そういう話題転換になるのかアレンには全く理解出来なかった。剣に生きて十六年、そちらの方面には教科書程度の知識しかない純朴小僧なのだ。
「ならいい。僕は君と友情以上のものを築くつもりはないというだけのことだ」
「俺だってねーよっ」
 尤も現状では友情すら築けるか怪しいものだ。全く共通点のない二人の間で唯一共通しているのがその認識である。


 服を脱いだアレンの肩に、不思議な意匠の図形がぼんやりと浮かんでいる。
 ロト三王家の嫡子には成人を迎えた日に刺青が刻まれる。魔力を含んだ塗料は生涯淡い光を放ち、彼等が勇者の末裔であることを証明するのだ。
 刺青はそれぞれの王家の紋章を簡略化したものだ。アレンの肌で明滅する太陽は、色の乏しい洞窟で鮮やかに赤い。
「君が首から下げているそれは、もしかしてロトの印か?」
 アレンの胸元には、掌で握り込めるほどの円盤が輝いていた。飛翔する不死鳥が透かし彫りにされ、その周囲を精霊文字が取り巻いている神秘的な装飾品だ。重みのある金色は、朝一番の陽光を凝縮したかのような輝きを放っている。
「守りだって親父がくれた」
 小さい頃から持たされていた守りの品だ。すっかり自立した気になっていても、無意識に拠り所を求めていることに本人は気付いていない。アレンはまだまだ、甘ったれた子供に過ぎなかった。
「ロトが精霊神ルビス様から授かった品か……」
「そうだっけ?」
「そうだっけ、じゃない。ロトが精霊ルビス様を呪いから解き放った時、返礼として賜った品物だ。嘗てはルビスの守り……そして今はロトの守りと呼ばれている」
 しげしげとロトの印を眺めたコナンの瞳が、すうっと細くなった。名状しがたい感情が刹那、その双眸を過ぎる。
「これほどのものを守りに与えられるとは、君は由緒正しきロトの……勇者の後継者だな」
「お前だってそうじゃん」
「君とは重みが違う」
「……そっかぁ?」
 伝説の勇者が、この世の神から下賜された品物。とてつもない存在であることは理解出来るが、アレンにはいまいちそのありがたみが分からなかった。彼にとってそれは、幼い頃から身に着けていた金色のメダルでしかないのだ。
 アレンはありがたい神の品を脱いだ服の上に放った。下着一枚になって、勇者の泉に足を踏み入れる。
 水の冷たさが爪先から背筋を走り抜ける。アレンは構わずざぶざぶと踏み入って泉の中央にまで進んだ。水深は案外浅く、尤も深いところでもアレンの腰までしかない。
「……」
 闇に浸かり光と戯れるような不思議な感覚だった。湖面を滑る光玉はアレンに纏わりつき、何かを確かめるように留まってはまた離れていく。アレンの血に刻まれた勇者の記憶を読み取っているのかもしれない。
「加護が全身に及ぶように万遍なく浸かってくれ。竜の血を浴びて不老不死になったはずの英雄が、たった一箇所の弱点を突かれて殺された神話を知っているだろうか。あれと同じさ」
「分かった」
 岸に立ったコナンが言うのに頷き、アレンはとぷんと泉に身を沈めた。
 水中で目を開くと、黒い闇と青い光が鬩ぎ合う不思議な風景が広がっていた。ぶくぶくと気泡を吐き出しながら更に水面を見上げれば、折り重なる光の軌跡がゆらゆらと揺れている。
 うっとり見惚れてしまうような幻想的な光景だが、肺の許容量に限界がある以上、何時までも眺めてはいられない。
「ぷはっ」
「精霊神ルビスよ、願わくはその神秘なる力で彼の行く道を照らしたまえ。英霊ロトよ、願わくはその奇跡の力で彼の行く末を守りたまえ」
 サマルトリアの王位継承者は十四歳から十六歳の二年間、司祭職に就くことが義務づけられているから、コナンにも相応の知識や技術があるはずだ。実際に祭事を扱った経験もあるのだろう、祈りを捧げる声の抑揚は良く訓練されていて、まるで聖歌のように心地良くアレンの耳道に響くのだ。
「これで君の禊は終わりだ。さっさと上がって向こうで体を拭いてくれ。僕はその間に身を清めるから」
 下着姿のコナンは意味もなく腕を組み、意味もなく遠い目であらぬ彼方を見つめている。何故一人で泉に入りたがるのかは分からないが、独特の世界を持った変な奴であることだけは再認識出来た。
 アレンはざばざばと岸に歩み寄り、一段高くなったところに立つコナンを見上げた。
「いいからさっさと入れって。お前絶対風呂とか長いだろ。俺、待たされるの嫌なんだよ」
「そんなに待たせない。君こそ早く……」
「ごちゃごちゃ言うな」
 アレンはコナンの足首を掴み、ぐいと力任せに引き寄せた。
「うわっ」
 ずるりと足を滑らせたコナンを更に引く。アレンの馬鹿力に対抗しうるべくもなく、コナンは呆気なくバランスを崩して泉の中に転がり落ちた。
 青い水面に気泡が立つのを眺めること数秒、ざばりと音を立ててコナンが浮かび上がる。
「いきなり何をする!」
 コナンは憤怒に亜麻色の柳眉を吊り上げた。
「君にはローレシア剣士としての誇りがないのか? 無抵抗の人間を水中に引き摺り込むなど畜生にも劣る行為であまりに美しくな……」
「お、お前……」
 アレンがコナンに震える指先を突きつける。コナンははっと息を飲み、握った拳もそのままに硬直する。
 勇者の泉に沈黙が満ちた。しんと静まり返った洞窟の中、時折天井から滴る水滴の音だけがやけに大きく響く。
 不意にアレンの顔が大きく歪んだ。
「ぎゃっはっはっはっはっはっはっは!」
「し、ししし失敬な! 人を指差して笑うのは止めたまえ!」
「だだだだってお前、その髪!」
 ふさふさと逆立っていたコナンの髪は、大量の水を含んで本来の型を顕わにしていた。眉の上で切り落とされた前髪、耳朶の上で真一文字に揃えられた横鬢。襟足は短く刈り上げられ、少し地肌が見えている。コナンの整った顔立ちと間の抜けたぼっちゃん刈りの組合せがこの上なく珍妙な雰囲気を作り出しているのだ。
「ひー、腹痛ぇ。何でそんな変な髪形してんの?」
「僕だって気に入っていない」
 コナンは憮然とした表情で腕を組んだ。
「こんな髪型は僕の美意識に著しく反している。入浴後鏡の前に立つ度、僕がどんな苦しみを味わっているか君には理解出来るかっ」
 アレンはひくひく痙攣を繰り返す腹を押さえ、涙の滲んだ目でコナンを見て又吹き出した。
「だったらそんな髪止めりゃいいだろ」
「……サマルトリアのルビス教徒は、奇妙な戒律でがんじがらめになるのが好きらしくてね。この髪型も先人が残した悪習の一つだ。十六を迎えてやっと下らないしきたりから解放されたが、それまでの日々を振り返るだに目頭が熱くなる」
 コナンは忌々しげに水滴の滴る髪を掻き上げた。
「こんなマヌケな姿を外で晒すわけにはいかないから毎日必死で髪を整えた。お陰で整髪技術はサマルトリア一になったという自負がある」
「へえ、すげぇな。良かったじゃん」
「ちっとも良くないっ」
 せっかく褒めてやったのに、コナンは益々怒ってかちかち歯を鳴らすのだ。
「僕がこんな姿を見せたら、僕を慕ってくれる二百六十三人のレディが卒倒してしまう。レディを悲しませるなど、生まれながらのナイトたる僕にとって何より我慢ならないことだ」
 コナンは両手を組み合わせて高く掲げると、半ばやけくそといった風情で高々と祈りを捧げた。
「精霊神ルビスよ。願わくはその神秘なる力で我の行く道を照らしたまえ。英霊ロトよ。その奇跡の力をもって……我が毛髪の育成を促したまえ」
「どさくさに紛れて変なこと祈ってんじゃねーよ」
「変なこと? 冗談じゃない、僕にとっては死活問題だ」
 コナンは新しく握った拳を、力いっぱい水面に叩きつけた。