足音に気づいて振り返ると、息急き切って追いかけてくるナナの姿があった。酸素を取り入れようと半開きになった唇から、苦しげな声が絞り出される。 「アレン、アンナの山車が……!」 「分かってる、コナンは何処行った?」 「別行動してたから分かんない!」 肝心な時に使えない。アレンは舌打ちしつつも全速力でメインストリートを突っ切り、裏道を回り、地上へと続く階段を上る。柵の向こうに広がる町を見下ろしながら、ここと見極めた地点で足を止めた。 ペルポイを覆う天井からは、数多の星をぶら下げた鎖が柵に向かって伸びている。鎖は鉄の止め具で、しっかりと格子の根元に固定されているのだ。 アレンは片膝をついて鎖を掴んだ。左手を柵に添え、体重を後方に移動させながらそれを引っ張る。ぎしり、と金属が呻きをあげたが、それ以上の変化は見られない。 「くっ……」 ぐぐぐっと上腕部の筋肉が盛り上がっていく。 息を詰め、両足を踏ん張り、裂帛の気合と共に力を振り絞ると、破裂音と共に金具が弾け飛んだ。ずっしりと重みを伝えてくる太く頑丈な鎖は、三人分の命綱となるはずだ。 「アレン、足早過ぎだってば……っ」 ようやく追いついてきたナナが、アレンの手に握られたものを見て眉を潜めた。 「……何する気?」 「これでブーンって行く」 至極頭の悪い説明でも、付き合いの長いナナには十分に真意が伝わったようだ。ただでさえ大きな瞳が、眦も裂けんばかりに見開かれる。 「じょ、冗談でしょ?」 「本気だよ」 アレンは柵の上に立ち上がると、手繰り寄せた鎖を腰にぐるぐると巻きつけた。 ここから飛び降りれば鎖はアレンを重しとして、振り子のようにペルポイの端から端を走るだろう。鎖が通過する線上には燃え盛る山車がある。 「待って待って、幾ら何でも無茶苦茶よ!」 「大丈夫だ任せとけ! 俺はガキの頃、ローレシアの公園遊具王と呼ばれた男なんだぜ!」 「公園遊具……? それとこれと何の関係があるの?」 「公園にあるじゃん、紐にぶら下がって端から端までつーって行く奴。俺、得意だったんだよなぁ」 「えええ? そんな理由でその自信なのぉ?」 向かう方角多分よし、鎖の長さ多分よし、その他諸々の事情多分よし。野生の本能で問題なしと判断すると、アレンは何の躊躇いもなく力いっぱい柵を蹴った。 「アレン!」 背に縋るナナの声は、一瞬にして風に溶ける。 アレンは片手で頭上の鎖を握り、開いている方の腕を目いっぱい広げた。二人を助けるチャンスは一度、それも一瞬の勝負だ。山車までの距離はみるみる縮まり、今や炎に囲まれた二人の顔がはっきりと視認出来る位置にある。 「ラゴス!」 声の限りに呼びかけると、ラゴスがはっとこちらを振り仰いだ。予想だにしていなかっただろう上空からの救いの手に、その面が驚愕に染まる。 「アンナを捕まえとけ!」 忠告するまでもなく、ラゴスはアンナを抱く腕に反射的に力を込めたようだ。熱量に耐え兼ねて気絶したか、アンナはぐったりとしていて反応を示さない。 山車を掠め過ぎるその瞬間、アレンはラゴスの胴を捉えた。二人分の重みが加算されても速度は衰えず、振り子のように体が再び跳ね上がる。このまま進めばそこらの屋根に着地出来ると踏んだところで、ぶちんと嫌な音がした。 「うわっ」 鎖が切れた。そう判断するより早く、支えを失った体が予想外のルートを辿り始める。どうにも軌道修正出来ない行き先には、ペルポイの聖堂が聳えていた。 人々が半ば呆然として見守る中、一塊になった少年達が鐘堂に飛び込んでいく。一瞬の沈黙を置いて、厳かな鐘の音が街中に響き渡った。 ローレシアの王族は丈夫である。 生身の体で鐘を打ち鳴らしても、致命傷を負うどころか骨折すらしない。アレンは埃っぽい床に転がったまま、未だに鐘の音がわんわんと響く頭を抑えた。 「もうちょいだったんだけどなぁ」 ぼやきながら顔を上げると、壁に寄りかかったアンナと仰向けに転がったラゴスの姿が見えた。アレンがクッションになったから、二人ともそう大きな怪我はないはずだ。 「お前ら、大じょ……」 「アンナ、怪我は」 起き上がりかけたその瞬間、脈絡なく現れた何者かがずかずかとアレンを踏んでいった。こんな冷たい仕打ちをしてくる人間は、世界広しと雖も一人しかいない。 「……何でお前がいるんだよ」 「何度も言っているだろう、レディの危機に駆けつけるのはナイトの役目だ」 「だったらもっと早く来いよ、大変だったんだぞ!」 アレンの抗議など何処吹く風と受け流し、コナンは半ば失神しているアンナの前に屈んだ。ふわりとベホイミの光が灯るとほぼ同時、彼女の目蓋がゆらゆらと持ち上がる。 「かわいそうに。僕が傍についていれば、こんな怖い目には遭わせなかったものを」 コナンの指先が、アンナの頬に落ちかかった髪をそっと掻き上げた。 「コナン……?」 吐息交じりの囁きは甘い安堵に満ちていた。死人の如く青ざめていた頬に赤みが戻り、淡い色の瞳に光が宿る。 「ラゴスとアレンは? わたしを助けに来てくれたの」 「俺様ならここにいるぞアンナ」 瞬時に復活したラゴスがアンナの手を取った。あちこち火傷を負い、打ちつけた顔や腕が青黒く変色しているが、命にかかわるような怪我はないようだ。 「アレンもそこに転がっている。案ずることはない、みんな無事だ」 「良かった……」 コナンが肩にマントをかけてやると、アンナは嬉しそうにそれを胸の前に掻き抱いた。布地に残る温もりは彼女にとって何よりの強壮剤だ。肉体を蝕んでいた恐怖も緊張も、淡雪の如く消えるのだろう。 「……アンナ」 アンナの手を取ったまま、ラゴスが何時になく神妙な面持ちで囁いた。彼女を見つめる眼差しは寂しげな諦観に満ちている。 「何?」 「……」 ラゴスはふうと息を吐いて立ち上がった。コナンをじろりと一瞥し、不機嫌そうに唇をへの字にして歩き出す。未だ倒れたままのアレンを跨ぎ越しながら、懐に手を入れて掴み出したものを放った。 アレンの鼻先を掠め落ちたのは黄金の糸巻きである。巻きつけられた青銀の糸は、ビーズのような水滴を宿してきらきらと輝いている。そっと触れた指先には水の冷たさが伝わってきた。 「雨露の糸……だよな」 「そのようだ」 アレンは雨露の糸を手に起き上がり、コナンと顔を見合わせた。彼の心境の変化はさっぱり理解出来ないが、雨露の糸の入手に成功し、この町での本懐が果たせたということになる。 「ラゴス……ラゴス?」 一言もなく立ち去ってしまったラゴスにアンナは戸惑いを隠せない。聞きなれた声を探して耳を欹てたのち、がっくりと肩を落とした。 「行ってしまったの? わたしまだお礼も言ってないし、聞きたいことがあったのに」 「聞きたいこと?」 コナンが顔を覗き込むようにすると、アンナは唇を噛んで項垂れた。くしゃくしゃになったドレスのレースを弄る様は、彼女の心を示すようにそわそわと落ち着きがない。 「……助けに来てくれた時、わたしを火から庇いながら、ラゴスはもう大丈夫だって言ったの」 虚ろな眼差しが、ラゴスが出て行った小さな戸口を見つめた。 「朦朧としていたからはっきり覚えていないけど、兄ちゃんが来たから大丈夫だって、そう言った気がするの……」 燃え盛る山車は歌姫脱出後突き崩され、町への延焼は防がれた。思わぬハプニングと救出劇に異常な盛り上がりを見せつつ、カーニバルは夜明けと同時に終了する。今宵の出来事は、ペルポイの祭りが続く限り語り継がれていくのだろう。 生まれて初めて徹夜を経験したアレンの、翌日の眠気は半端なものではなかった。まるで小さな子供のように、食事の最中でもこっくりこっくり船を漕いでしまう。怒涛の睡魔に成す術もなく白旗を揚げると、アレンはまだ日の高いうちからソファで寝息を立てていた。 コナンとナナはアンナの家に出かけ、室内にはアレン一人だ。誰もいないはずの空間で、すうっと影が動いた。 「……んあ?」 眠りにあっても人の気配には敏感だ。ふっと目を開けると、間近から覗き込んでくる顔があってアレンは仰け反った。 「な、な、な、何だよお前!」 「何だよってお前、もう俺様のこと忘れちまったのか、頭悪ぃなあ。俺様は大盗賊として世界に名を轟かせる……」 「こんなとこで何してんだって聞いてんだよ!」 クッションを投げつけつつ起き上がると、ラゴスはそれをひょいと避けて笑った。 「俺様は今日、この町を出る。律儀にもお前に別れの挨拶をしにきてやったんだ、喜べ」 「何処行くんだ?」 「盗み甲斐のある宝がある国だ」 悦に入るラゴスを半眼で睨みつけながら、アレンは両足を下ろしてソファに座り直した。 「なあ、お前ってアンナの兄ちゃんなのか?」 「あ?」 「アンナがお前にそのこと聞きたがってたぞ」 ラゴスは胸底から搾り出すような、深い溜息をついた。 「余計なこと口走っちまったな。あの時は感情が昂ぶって、何言ったか自分でもあんま覚えてねーや」 後頭部を掻き掻き、ラゴスは窓に歩み寄った。窓枠を跨ぐように座り、しどけなく立てた膝の上に腕を乗せる。 「海賊だったアンナの親父が、ルプガナの女に手ぇ出して生まれたのが俺だ。船が寄港する間だけ三人で家族ごっこしてたが、そのうち親父は姿を見せなくなったらしい」 淡々と語るラゴスの口調に感情はない。過ぎ去った出来事の全ては、彼の中で完全に消化されているようだった。 「お袋が親父を恨んでいなかったせいか、俺様も親父を憎く思ったことはねぇ。俺様はただ親父って男に会いたくて、三年かけてルプガナに来た。その時もう、親父はくたばってたけどな」 淡い色の瞳が二度瞬く。北の空を薄めたような色合いは、注意深く見ればアンナに通じるものがあった。 「酒場で話を聞くうち、親父にはこの町にも家族がいたことを知ったんだ。女は親父がくたばる前に男を作って何処かに行ったらしい。捨ててった娘はその後行方知れずだそうだ」 「それがアンナ?」 ラゴスは両の眉を持ち上げただけで答えなかった。いなくなった異母妹がアンナだという確証は、もしかしたら彼にもないのかもしれない。 「それアンナに言ってやれよ、喜ぶぞ」 「幸せに暮らしてるアンナに、下らねぇ昔話を聞かせるつもりはねぇな。親父は海賊、お袋は男狂い、兄貴はコソ泥なんて知って何になる?」 ラゴスは飄々と首を振ったが、ふと気がかりなことを思い出したように眉を寄せた。 「惚れた男がイマイチ不安だが、アンナの好みがアレだというんなら仕方ねぇ。……そうだ、あの野郎に言っとけ。アンナを不幸にしたら、俺様が王冠を毟り取りに行くからってな」 冗談とも真剣ともつかぬ口調でそう言うと、ラゴスはにやりと笑った。 「アンナの恋に免じて、雨露の糸はお前らにくれてやる。ありがたく思え」 ふっとラゴスの姿が消えた。慌てて窓に駆け寄って外を見下ろすと、メインストリートに犇く人ごみに赤い背中が消えるところだ。二度瞬きをするうち、その姿は彼方に溶け込んでしまった。 「ただいまあー」 元気よく扉が開いて、コナンとナナが帰ってきた。止まっていた時間が流れ出し、何時もの空気が戻ってくる。 「アンナはもうすっかり元気よ。お土産にって、アンナが揚げたドーナッツ貰ってきたの。食べるでしょ?」 散々呼ばれてきたはずのナナが、そそくさと自分の分も含めた茶の準備を始める。やれやれとその様子を眺めていたコナンに、アレンはラゴスからの言葉を伝えた。 「お前今のままだと、冠盗まれるってさ」 「……何の話だ」 胡乱そうに眉を寄せるコナンには答えず、アレンは円卓の上のドーナッツに手を伸ばす。成程ラゴスの言っていた通り、アンナのドーナッツはふわふわしていて美味かった。 |