炎の島と遠い約束<1>


 切り立った崖の中程に突き出した、露台のような岩棚。潮の匂いが吹きつけるささやかな原っぱで、一匹の犬が主人の帰りを待っていた。
 こうして海を見つめていれば、やがてぴんと張った水平線の向こうから船が現れるはずだった。異国から来た主人の船はザハンのそれと様式が違うので、帆影の形でそれと視認することが出来るのだ。
「今回の旅は長くなる。僕が帰ってくるまで、この鍵を守っておくれ」
 船出の朝、主人はそう言いながら真新しい首輪をつけてくれた。今やすっかり色褪せた首輪の金具からは、当時と変わらぬ輝きを放つ金の鍵がぶら下がっている。
「次の航海では、お前に僕の故郷を見せてあげることが出来ると思うんだ」
 そう微笑んだ主人が旅立ってから、もう四年の歳月が過ぎた。
 風に主人の匂いを探しながら、彼はきゅーんと小さく鳴いた。時々堪らなくなって声を上げても、波が岩に砕ける音がそれを掻き消してしまう。
 主人が戻らぬ理由はその子供達が教えてくれたが、それでも彼は主人が好きだったこの場所で、毎日帰りを待ち続けている。理由はただ一つ、主人が帰りを約束していたからだ……何を疑う必要があるだろう。
 やがて夕日が沈む頃になると、ザハン神殿のあちこちに炎が宿り始めた。巨大な聖廟を照らす光は一際鮮烈で、闇が空を覆う間、もう一つの太陽のように皓々と輝き続ける。遥かデルコンダルまで届く光は、漂う船を守る灯台の役割をも果たすのだ。
 神殿が炎を宿すのに一瞬遅れて、海の向こうの岩山に光が宿った。時折明滅する炎色の輝きは、風に揺らぐ蝋燭のように頼りない。
 か細い光を見つめるうち、気だるさが彼を包み始めた。肉体の欲求に応えて前足を折り、柔らかな草に腹這いになる。夜気を孕んだ潮風がそよぐ中、眠りはすぐに訪れた。


 ペルポイを発ったロトの末裔達は、一ヶ月に及ぶ航海を経て南島ザハンに辿りついた。
 ザハンはローレシアの遥か南、エメラルドの海にぽつねんと浮かぶ島である。何れの国も属さず、何れの王にも頭を垂れない太陽の民が、波と光に戯れながら一生を終える南の楽園だ。
「このザハンでは聖なる織り機の他、紋章も入手しなくてはならないのか。汗だくの労働など僕の趣味ではないというのに……」
 白砂の海岸をざくざくと進みながら、コナンが額に滲む玉の汗を拭った。空から降り注ぐ陽光と大地から上る地熱が混じり合い、体中の水分が搾り取られそうな酷暑である。
「なあ、何で紋章がここにあるって分かるんだよ? 竜王の奴、んなこと言ってなかったじゃん」
「言ってたじゃない、精霊神ルビス様の従者が見守る場所って」
「言ってたけど……それが何でザハンなんだ?」
「アレンってばザハンのこと何も知らないのね。ここってローレシアと国交あったでしょ?」
 ナナが呆れた溜息をつけば、コナンは芝居がかった風に首を振る。
「ザハンに通じる旅の扉は、ローレシア王族にとって重要な存在のはずだが」
 古の遺産である旅の扉がムーンブルクで復活し、ローレシアに伝えられたのは今から六十年程前のことだ。王族の緊急避難地に選定されたザハンに通じる旅の扉は、今も厳重に守られたローレシア城の一室で光の渦を巻いている。
「ザハンの神殿には、精霊神ルビスの従者だった戦士の髪が納められてるの。だからここが、精霊神ルビス様の従者が見守る島ってわけ」
 精霊神ルビスはアレフガルドに光臨した際、空の国から六人の従者を伴った。彼らはよくルビスを助け世界を守ったが、大魔王ゾーマの奇襲に力及ばず散った。六人の肉体はゾーマによって粉々に砕かれたため、現存する聖遺物はザハンに奉られる遺髪のみと言われている。
「ふーん」
 全く興味の沸かぬ話題だ。忽ち興味を失って余所見をした時、アレンは陽炎に歪む視界に蠢くものを捉えた。
 やや距離を置いた砂丘で一匹の犬が尾を振っていた。降り注ぐ日差しを浴びて、ふさふさした胸元で何かがきらりと輝く。首輪をしているところからして野良犬ではないだろう。
「南の島って言っても、この暑さってばちょっと異常じゃない?」
 堪らないといった風情でナナがフードを下ろした時、きいっと頭上で鋭い声が響いた。はっと振り仰いだ三人目がけて、殺気に満ちた影が急下降してきたところだ。
「またパピラスかよっ」
「パピラスではない、バピラスだ」
 小姑のような訂正を聞き流しつつ、アレンがロトの剣を抜いた。ザハン海域に侵入して以来、幾度となく戦闘を繰り返してきた有翼の魔物である。ここらの環境が余程彼らに適しているらしく、一度に襲い掛かって来る数が半端ではない。頭上で旋回する魔物の影に陽光が遮られてしまう程だ。
「ベギラマ!」
 コナンの放った炎がバピラスの片翼に巨大な穴を穿つ。風を孕む術を失い、失速する魔物の墜落地点を目指してアレンが猛然と駆け出した。蹴り上げる砂粒が煙の如く立ち込める。
「てえ!」
 降ってきた魔物の頭部を一撃で粉砕する。肉塊から吹き出す体液が辺り一面を染めた。
「アレン、仕留め損なった奴の処理よろしくね!」
「おう!」
 空に翳したナナの杖が、六種の精霊の力を借りて白い輝きを宿した。
「イオナズン!」
 ぎゃあぎゃあと鳴き交わすバピラスの群れの真ん中で、かぁっと光の玉が弾けた。限界まで縮小された力が弾け、爆炎の花を南国の空に咲かせる。爆発の中心にいたものは瞬時に消滅し、熱風に煽られたものは次々に地に落ちた。大火傷を負ってもがくバピラスを、アレンは容赦なく切り伏せていく。
 ふっと影が落ちるのを感じて、アレンは素早く身を屈めた。背中を掠め過ぎて行く魔物の尻尾をむんずと掴み、比類なき馬鹿力で引き寄せる。反動をつけて思い切り岩に叩きつけると、骨と内臓の潰れる音と共に血煙が上がった。


 そうして末裔達が半刻も暴れ回った結果、海岸には累々とバピラスの屍が転がった。眩い白浜に対比して、魔物の死骸は毒々しいまでに青い。
「この風景の醜さはどうだ。詩に綴る意欲も失せてしまう」
 コナンの芸術的創作意欲を減退させる程、周囲は惨憺たる有様である。
「ああ、汚された白浜の嘆きが聞こえるようだ。僕の心は人一倍繊細で敏感であるが故、沈黙する湖面に小さな石を投げ込むように……」
 何だかんだ言いつつも、結局詩を吟じ始めたコナンが唐突に押し黙った。彼の視線が一点に注がれているのに気づき、アレンもそちらに注目する。
 浜辺を縁取る潅木の茂みから、数人の少女がこちらを見つめていた。ココア色の肌と、赤い唇と、やや眦の吊り上った目を持つ南国の乙女達だ。色鮮やかな布で腰と胸を覆い、緩く波打つ髪にリボンや花を飾っている。
 コナンは意味もなくマントを翻し、蕩けるような微笑をその面に浮かべた。
「僕達に何か御用でしょうか?」
 娘達は頬を染め、囁き交わしながら葉陰から次々と姿を現した。
「ねえあの目。普通の青眼とは雰囲気が違うって感じじゃない?」
「じゃあやっぱりそうなのかな? あんた聞いてみてよ」
「でも恥ずかしいし」
 好奇心を隠さぬまま、少女達はアレンとコナンの瞳を熱心に見比べる。肌も顕な乙女達から、ザハンの陽光にも負けぬ熱視線を浴びせられ、アレンは忽ちもじもじと赤くなった。
「あのお」
 オレンジ色のパレオの少女が、意を決したように一歩進み出た。
「もしかするとぉ、ロトの末裔の方々ですかぁ?」
 コナンは一瞬瞳を鋭く眇めたが、すぐに柔和な微笑みを取り戻した。そこに如何なる悪意や罠が待ち受けていようと、彼にとってレディは愛するべき存在であり、敵ではない。
「何故そのことをご存知なのですか?」
 途端、少女達からきゃーっと黄色い歓声が上がった。
「やっぱりそうなんですねぇ、すごーい!」
「ロトの末裔の方々が旅をしているって噂があってぇ、あたし達みんなで話していたんですぅ、このザハンにも立ち寄ってくださらないかなぁって! でも本当にいらしてくださるなんて感激ですぅ!」
「是非姫巫女様にお会いしてくださぁい!」
 少女達は我先にとアレンとコナンに群がった。豊かな乳房を腕に押しつけられ、あまつさえ頬にちゅっと歓迎のキスを受けて、アレンは失神寸前だ。
「んななな何なんだよお前ら!」
「ローレシアの剣士様なんですねぇ、さっきの戦い方素敵でしたぁー」
「ローレシア人って腕力が凄いですよねえ!」
「ローレシア人の赤ちゃんってぇ、寝返りの次に腕立て伏せを始めるってホントですかぁ?」
 少女たちはきゃっきゃっとはしゃぎながら、アレンとコナンを引き摺るようにして町の方角に歩き出した。
「いやはやこれは困ったな。美しき南国の小鳥達は、僕を何処へ誘おうというのだろう」
「離せよお前ら、離せって! うわーん、離せってばー」
 水を得た魚のようなコナンと渇きかけた魚のようなアレンが、潅木の向こうへ連れ去られる。静寂の戻った砂浜にはぽつんとナナが残された。
「もー! 何であたしだけ無視なのよ!」
 ナナは憤然として彼らの後を追った。