ザハンの最も奥まったところに、その巨大な神殿はあった。 町の入り口から伸びたメインストリートは、威風堂々と佇む建物へ真っ直ぐに続いている。目に眩しい白亜の柱、浮かし彫りが美しいペディエント、肉感的な数多の石像、至るところ職人の熱意と拘りが感じられる建造物だ。 だが美しい建物のそこここには修復の跡が見られた。目を凝らさなければ分からぬような丁寧な仕事だが、大きく入った皹を完全に隠しきれてはいない。それだけ与えられた損傷が大きかったのだろう。 「二年前、ザハンで大きな地震があったんですぅ。神殿のあちこちが壊れて大変な被害に遭いましたぁ。これはその爪跡なんですぅ」 この南島にも世界の均衡の乱れが確実に影響しているということだ。痛々しい傷跡を目で追い続けると、彼らの視線は自然、神殿の屋根に掲げられた聖印へ達した。 「精霊神ルビス様の聖印とは違うね」 「ザハンの守り神は他神ということか」 それは彼らに馴染み深い十字ではなく、太陽のコロナを思わせる面妖な形をしていた。他神の象徴を物珍しく見上げながら、三人は少女達の先導の下入り口を潜る。 神殿に一歩踏み入った途端、すうっと不快指数が下がった。厚い石の床や壁は、外部のうだるような熱気を随分と和らげてくれるようだ。 「ここでお待ちください、今お茶をご用意しまぁす!」 若草色の布を纏った娘は三人を客室に案内すると、ぴょこんと頭を下げて出て行った。きゃぴきゃぴと春の小鳥のように賑やかな娘達は、この島の神殿に仕える巫女であるらしい。そして彼女達を束ねるのが姫巫女と呼ばれる神殿の主だ。 「こんなところにあたし達……っていうより、アレンとコナンを連れてきて何の用なのかしらね」 「さあ? 麗しいレディ達のご招待だ。謹んでお受けしようじゃないか」 幾重にも張り巡らされた布で日が遮られ、部屋の中は仄暗い。魔術具らしき燈篭はひとりでにくるくると周り、壁に次々と不思議な文様を描いていく。三人が腰掛ける椅子も、その前のテーブルも、甘い香りを放つ香炉も、全てが見事な石細工だ。 やがて、かちゃかちゃと茶器の音を響かせながら若い娘が現れた。注意深く盆に視線を落としていた少女は、ふと顔を上げて大きく目を見開く。 「な、ななな何であなた達がここにいるのよ!」 「……ここで君に再会出来るなんて、今日の僕の星回りは随分と良いらしい」 コナンは颯爽と立ち上がり、少女の手から盆を持ち上げて微笑んだ。か弱き乙女に労働を強いるなどあってはならぬ事態である。 そんなコナンを見上げて赤くなったり青くなったり忙しいのは、ルプガナで知り合ったカタリーナだ。やや背が伸び、やや日焼けし、やや髪が長くなっているが、勝気な口調と挑戦的な眼差しに変わりはない。 「君の淹れてくれたお茶を飲めるのだから、遠路遥々ザハンまで来た甲斐があったというものだ」 カタリーナの頬は最終的に見事な朱色に染まった。コナンから盆を強引に奪い返すと、ずかずかとテーブルに歩み寄って膝をつく。 「姫巫女様の言いつけだから淹れたのよ! そうでなかったら誰があなたにお茶なんて!」 きんきん喚きつつ、カタリーナは案外手馴れた風にカップを並べ、冷たい茶を注ぎ、とろりしたと金色のはちみつを混ぜた。異国の茶は花の香りがして、独特の香ばしさとはちみつの甘みがまろやかに舌の上に溶けた。 「あ、ウマイなこれ」 「ね、それにしても久しぶりね。こんなとこで何してるの?」 「あなた達が発ってからしばらくして、わたしもお祖父様のお供で航海に出たの。世界のあちらこちらを回ってザハンに来たのは半年前。お兄様の奥様や子供達にも会ったわ」 カタリーナは大人びた表情で頷いた。彼女の知らぬところで兄が生きた証を、しかとその目で確認したようだ。 「そのうち時間を持て余し始めて、神殿のお手伝いをすることになったの。ここで花嫁修業をすると良縁に恵まれるのですって」 「ホントに? あたしもお手伝いしたい!」 ナナがぎゅっと拳を握ったところで、涼しげな衣擦れの音が廊下から聞こえてきた。しゃらしゃらと、澄んだ装飾品の音がそれに重なる。 「姫巫女様がいらっしゃるわ。あなた達、姫巫女様に失礼のないようにね」 すぐさま退室するかと思いきや、立ち上がったカタリーナは盆を胸に抱いてもじもじとしている。近づく足音にせっつかれるように顔を上げると、やや早口でぶっきらぼうに言った。 「あなた達のことだから、どうせ今夜の宿も決まってないんでしょう。用事が済んだら一緒にお食事はいかが?」 「飯? 行く行く!」 顔を輝かせるアレンをぐいと押しのけて、コナンはふっと亜麻色の前髪を払う。 「君と一緒に、ザハン料理を楽しむことが出来るとは素晴らしい」 「べ、別にあなただけにご馳走するわけでなくてよ! それにお生憎様、今晩はザハン料理ではなく、フツーの羊料理なんですからね!」 真っ赤になって捲くし立てると、カタリーナはくるりと背を向けて去っていく。戸口で一度振り返り、さもさも気が進まないという風に眉を顰めた。 「タシスンの家って言えば誰でも知ってるわ」 一方的にそう言い捨てて、早足に部屋から出て行った。 「ようこそザハンへ」 カタリーナと入れ替わるように、揺らめく布の向こうからすらりと長身の女が現れた。 きりりと弧を描く眉、貴族的に高い鼻梁、理知的な額、濡れ濡れと輝く魅惑的な黒い瞳。金粉を塗したような褐色の肌にオレンジと黄色の長衣が良く映える。洗練された物腰や所作からは、濃厚な色香が匂い立つようだ。 「わたくしの時代に、ロトの末裔がザハンに訪れてくださった幸運を神に感謝します。本来ならばわたくしからご挨拶に伺うべきなのに、巫女達が大変失礼をしました」 「巫女の方々には一見で僕達の素性を悟られてしまったようです」 コナンの胡散臭い笑顔を横目で眺めつつ、アレンはほんのり甘い茶を啜った。退屈な会話は彼に任せておくに限る。 「こちらの神殿はロト……もしくは太陽の血筋と何か関係があるのでしょうか?」 末裔達の旅の噂は辺境の地まで届きつつあるから、三人の素性を察する者がいても不思議はない。だが巫女達のはしゃぎっぷりには、伝説に対する憧憬以外のものがあったような気がする。 「わたくし達は太陽を崇拝する民なのです」 姫巫女のつと宙を泳ぎ、三人は無意識にそれを追った。 入り口と対を成す壁際、日の届かぬ暗がりに石像が聳えている。闇に目が慣れるに従い、徐々にその全貌が明らかになってきた。 「ラーミア?」 そこには両翼を広げ、胸を膨らませ、昂然と嘴を持ち上げる神の鳥の姿があった。 「わたくし達は昔から、ラーミアを太陽の神として崇めております。ですからその加護を受けた太陽の血筋の方は、神の御使いも同じこと。嘗て一度、この島にいらっしゃった初代ローレシア王も、それは美しい瞳をされていたと伝えられております」 姫巫女は柔らかく微笑みながらアレンとコナンの瞳を見比べる。なるほど巫女達の興奮の理由がこれで理解出来た。ラーミアを崇める彼女らにとって、その力を継承するアレンとコナンは特別な存在なのだ。ナナだけが完全放置されていたのも頷ける。 「神殿の聖廟に収められている聖人も太陽神ラーミアに縁深い方であったとか。わたくし達は太陽の加護の下に生きる存在なのです」 「……麗しき姫巫女様にお尋ねしたいことがあります」 コナンは穏やかに話を切り出した。太陽の瞳がそれ程の意味を持つなら、聖なる織り機や紋章を入手するのに島中が協力してくれるだろう。持って生まれたものを利用しない手はない。 「テパのドン・モハメさんから、ここザハンに聖なる織り機があると伺っております。水の羽衣なる魔術具を織り成すため、僕達に織り機を貸していただけないでしょうか?」 「聖なる織り機はこの神殿でお預かりしております」 姫巫女はそっと目蓋を閉じた。淡い緑色の塗り粉が星屑に似た煌きを放つ。 「その昔、ザハンにやってきたテパの若者が姫巫女に恋をし、一族から離れて島に残りました。青年はドンの名を頂く者……聖なる衣を織る一族の人間だったと伝えられております」 姫巫女の声は耳に心地よく、子守唄のように柔らかい。何時までも耳を傾けたくなるような音楽的な声音だった。 「ですが姫巫女は神に身を捧げた存在。青年は敵わぬ恋心を胸に、一族が残していった聖なる織り機で、彼女のために衣を織り続けたといわれております。光を帯びたドレス、竜の加護を秘めたローブ……それは見事な品ばかりだったとか」 伏せられていた睫が、鳥の羽のように静かに持ち上がった。 「青年が死んだ時、姫巫女は彼の最後の品……花嫁のベールを胸に泣いたそうです。そんな形で通じる想いもあるのでしょうね。……こちらへ」 姫巫女は三人を促し、ひんやりとした回廊を歩き出した。しっとりとした花の香りが漂う廊下をしばし歩くと、分厚い石壁が彼らの行く手を塞ぐ。 巫女は壁に掌を押し当て、聞き取れぬ程小さな声で詠唱を紡いだ。すると石壁の中央部分に光の亀裂が走り、それを境として分かれた戸板が天井と床へと吸い込まれていく。彼らの前に小さな石の部屋が現れた。 「わ、すげぇな」 ステンドグラスの光に染められた小さな部屋に、聖なる織り機は恭しく奉納されていた。 朝焼けを髣髴とさせる黄金の織り機である。行き届いた手入れのお陰で何処もかしこもぴかぴかだが、古風な意匠が積み重ねてきた歳月の重みを醸し出している。海の民の品であることを示す人魚のオブジェが、柔和な眼差しを末裔達に投げかけてきた。 「きれいな織り機ねぇ〜」 「神の衣を作り出す神器だけのことはあるな」 ナナが手を打ち鳴らし、コナンが感嘆するのを尻目に、アレンは姫巫女に向かって尋ねた。 「そんでこれ、貸して貰えんのかな」 「お譲りします」 姫巫女が頷くと、纏め髪から垂らした布がふわりと頬の辺りで揺れた。 「本来聖なる織り機は、神秘の衣を織り成すためのもの。この神殿に飾られているより、再びドンの血筋によって息吹を与えられることを、きっと織り機も望んでいるでしょうから」 |