炎の島と遠い約束<3>


 聖なる織り機を船に積み込んだのち、三人はカタリーナの招待に応じるべく再び島に戻った。
 約束までの時間を、三人は遠浅の珊瑚礁が美しい海辺で過ごすことにした。アレンは沖合いを力泳中イルカと固い友情で結ばれ、コナンは巫女達に囲まれてきらきらと光を放ち、ナナは甘い果実を際限なく頬張って短い休息を楽しむ。最後に三人で見事な夕焼けを堪能してから、ザハンで一際大きいタシスンの屋敷へ足を運んだ。
 羊料理だったはずの晩餐は、何故か海の恵み滴る豪勢な魚料理に変更されていた。魚好きのアレンは大喜びで、大皿に盛られた料理を片っ端から平らげていく。
「……紋章? さあ、心当たりないわ」
「やはり知らないか」
 予想通りのカタリーナの反応に、コナンは小さく肩を竦める。世界的な貿易商を祖父に持つ、彼女の情報力に寄せていた期待も費えてしまった。
「それはどんなものなの?」
「どんなものって言われても説明しにくいんだけど……あたし達、この島に紋章の一つがあるって聞いてたの。でも姫巫女様も紋章については何もご存知なくて、すっかり行き詰っちゃったのよ」
 許しを得て神殿の文献や古書を漁ったものの、紋章についてこれといった情報は得られなかった。もしかしてとんでもない勘違いをしているのではないかと、不吉な暗雲が彼らの上に垂れ込みつつある。
「それは神殿や祠に奉納されているような宝なのかしら?」
「そうとは限らないかな。塔にあったり精霊が持ってたりしたし」
 ナナの返答に、カタリーナはますます混乱した表情を見せた。
「そう。炎の祠の話なら姫巫女様からお伺いしたことあったから、もしかしたらと思ったんだけど」
「炎の……祠?」
「それって何? 何処にあるの?」
「さあ? 詳しい話なら姫巫女様にお伺いした方がいいと思うわ。神殿の炎だけがその在り処を知っている古の祠なんですって」
 コナンとナナは顔を見合わせた。あまりに寓話めいていて頼りないが、他に頼るべき情報もないのが現状である。当たってみる価値はありそうだ。
「……あのさ」
 それまで口を動かすのに忙しかったアレンが顔を上げた。燃える流星さながらの鋭い眼差しに、場の空気が俄かに緊張する。魔術に関する知識は皆無だが、もしかすると獣めいた直感が働いたのかもしれない。
 衆目の中、アレンは空になった皿をずいとカタリーナに差し出した。
「これ、お代わりある?」
 数秒間沈黙を置いて、コナンがぽかんとアレンの後頭部を殴った。


 翌日の早朝から、三人は炎の祠について尋ねるために神殿に向かった。
 まだ日が昇って間もない時刻だというのに、ザハンは早くも茹だるような熱気に包まれている。一歩進めば汗が滲み、二歩踏み出せば息が切れ、三歩歩けば眩暈がした。南国である理由を差し引いてもこの暑気は尋常ではない。
 尤もこの異常気象は二年前、ザハンでは珍しい地震が起きて以来のものらしい。このままでは島住人が干からびる日も遠くないとのカタリーナの言葉が冗談には聞こえなかった。
「大魔王ゾーマによって太陽が奪われた際、不安に苛まれたザハンの民はその手で太陽を創造しようとしました。炎の祠はその核となるはずだった存在です」
 冷えた飲み物を末裔達に勧めながら、姫巫女はそう話を切り出した。
「ですが太陽はこの世に唯一無二の存在。神が創りたもう尊き光を人の手で作り出すなど愚の極み。炎の種を数多封じた祠は暴発し、ザハンの周囲は火の海と化ました。幾度も封印を重ねてようやく炎を安定させた時、島の住人は半数に減っていたと言われております」
 姫巫女は淡々とした口調で、古の愚行とその代償について語っていく。
「その後勇者ロトが太陽を取り戻し、人々の記憶から炎の祠の存在は消えました。この神殿にも、その存在を知る者は今やほとんどおりません」
「……神殿の炎がその在り処を知るとはどういう意味なのでしょう?」
「炎の祠に封じた炎の種は、この神殿の聖火台から作り出したもの。恐らく神殿の聖火に反応するということなのでしょうが、これはあくまでわたくしの推測に過ぎません」
 結局のところ、姫巫女もカタリーナから得た以上の情報は持っていないようだった。炎の祠は過去の汚点として封じられ、遠く歴史の彼方に押しやられた存在らしい。
「それが紋章と関係があるかどうかは微妙ね」
「だが調べて見る価値はある。聖火が灯る夕方まで待ってみよう」
「その間、何すんだよ?」
「そこらで昼寝でもしたまえ。僕はレディ達との時間を楽しむ」
 そうしてすげなくあしらわれたアレンは、昼食を終えた頃神殿を飛び出す羽目になった。肌も露わな巫女達が、絶えずきゃぴきゃぴ纏わりついてくるそこに彼の居場所などないのだ。
 アレンが時間を潰す場所として選んだのは町外れの木陰だった。こんもりと生い茂る葉と吹き抜ける潮風のお陰で、そこは随分と過ごしやすい。崩れかけた石壁を回り込むと海が一望出来る小さな空間が広がり、アレンはようやくほっと一息ついた。
 海と緑の入り混じった風の香りはローレシアのそれと良く似ていた。寝転がって目を閉じると、故郷に戻ってきたような錯覚に陥る。自覚のない安堵感は穏やかな眠気を呼び寄せた。
 うつらうつらしていると、不意にぺたんと生暖かいものが頬に張りついた。ぎょっとして跳ね起きかけたアレンの上に、何か大きくて重たいものが圧しかかってくる。
「んなっ、うぷっ」
 大地に組み伏せられ、顔中をべろべろと舐め回される。アレンの肩を押さえつけ、尻尾を千切れんばかりに振り、冷たい鼻を擦りつけてくるのは大きな犬だ。
「やめろよ、うわ、んなとこ触ったらくすぐったいって!」
 悶絶することしばし、アレンはようようのことではしゃぎまわる犬の下から這い出した。
 一時の興奮が収まったのか、犬は息を弾ませながらアレンの前に座った。モップのような尻尾が、右に左にせわしく揺れている。
 くるりとした大きな瞳、しっとりと冷たい鼻面、内輪のように大きな耳。緩く波打つ体毛は艶のある栗色だが、顔の辺りがみすぼらしく白茶けている。かなり年を取った犬のようだった。
「びっくりした〜、何処から来たんだ?」
 転寝していたとは言え、全く気配を察しなかったのだから修行が足りない。これが魔物だったら完全に首を噛み切られていたところだ。
 ばつの悪い思いをしながら犬の首周りを撫でてやると、指先に固いものが当たった。ふわふわとした毛の合間から、金の鍵が零れ落ちてくる。
「あ。お前この前、浜辺にいた犬だろ。パピラスに食われちまったのかなって心配してたんだぞ」
 犬は一声元気良く吠えた。毛艶もいいし痩せてもいないから、何処ぞの家で大切にされているのだろう。人懐こさからいって相当かわいがられているに違いない。
「でもあんま町の外に出ねぇ方がいいぞ、この辺はパピラスがいっぱいで危ないからさ。食われたくねぇだろ?」
 改めて一度犬の頭を撫ぜた時、視界の片隅が朱金に染まった。反射的に仰ぎ見ると、生い茂る梢の合間から空を焦がす炎の煌きが伺える。夕刻を迎える準備として、神殿の聖火台に火が落とされたのだ。
 まだ日は十分に高いが、早めに戻らないとコナンがうるさい。ふうと息をついて立ち上がりかけた時、強い力で腕を引かれた。見れば盛んに尾を振りながら、犬がアレンの袖口を咥えている。もっと遊ぼうと無邪気な瞳が誘っていた。
「俺、もう戻んなきゃいけないんだよ。炎の祠ってやつを探してんだ。神殿の聖火に呼応するとか何とか難しそうだけど、紋章を五つ集めないとルビス様が復活出来ねぇしな」
 アレンはしゃがんで犬の目線に視線を合わせた。昔拾った犬はとても賢かったから……アレンよりも要領が良かったから……言い聞かせれば分かるに違いない。
「ルビス様が復活したらハーゴンの奴をぶっ飛ばすんだ。そしたら多分魔物が減って、お前も安心して外に出られるようになるからな」
 黒すぐりに似た双眸に理解の色が閃いた。犬は一旦口を離して数歩遠退き、また戻ってきてアレンの袖を引く。ついて来いと言っているようだった。
「……何かあるのか?」
 犬はわんと一声鳴いて、ふさふさした尾を左右に振る。
 俄然好奇心が刺激されたアレンは、おうちに帰る義務も忘れて歩き出した。潮風で脆くなった壁の穴を潜ると、海に面した細い道に出る。岩塊が積み重なった不安定な下り坂を、アレンは慎重に歩き出した。


 色を深めた空にじんわりと薔薇色の輝きが滲んでいる。星の光をそこここに透かす夕空は美しく、明日も良い天気になりそうだ。
「……ホントにこの辺、パピラスだらけだな」
 だがそんな鮮やかな空にも、ぎゃあぎゃあとけたたましく鳴き交わしながら三羽のバピラスが旋回している。
 アレンは警告の意味を込めて剣を抜いた。鏡のような刀身が夕焼けを反射してぎらりと輝く。無防備な獲物と侮って襲いかかってくるなら、その首を叩き落としてやるまでだ。
 島を縁取る傾斜を辿って北側に回りこむ。岩の小道は断崖絶壁に突き出した岩棚に続いていた。
「……何だここ」
 アレンは少々拍子抜けして辺りを見回した。昼間遊んだ南側の海とは似ても似つかぬ、ごつごつ険しい岩礁が眼下に広がっている。白く砕ける波の帯を目で追った先には、巨大な岩山が聳えていた。
「なあ、ここに何があんだ?」
 犬はアレンを見上げ、得意気に尾を振るばかりだ。
 やや落胆したその時、犬が岩山に向かって吠えた。よく響く声に釣られるように顔を上げたアレンは、岩山の頂に炎が閃くのを見て取った。
「?」
 気のせいかと目を凝らすと、再び光が瞬く。切り立った岩山の頂、右に左に不定期にふれるのは確かに炎の瞬きだ。
「……焚き火かな。けどあんなとこに誰が住んで……あ、そっか!」
 アレンがぱっと表情を輝かせたのを、犬は期待に満ちた瞳で見上げた。
「きっと誰かがキャンプでバーベキューしてんだ。でもこの暑さじゃこっちがバーベキューされちまうって感じだよな」
 一人ふむふむ納得するアレンを見上げて、犬はきゅーんと切ない声を上げた。あれだけ元気に揺れていた尾が、力を失ってしょんぼりと項垂れている。
 主人と同じ形の船でやってきた少年は、予想を遥かに超えて鈍かったのだ。