炎の島と遠い約束<5>


 炎は噴水の如く天の高みにまで吹き上げ、それから一本の柱となって直立した。他の柱はそれに勇気づけられたかのように、不安定に揺らいでいた炎を安定させる。
 太陽となるはずだった種火達がトライアングルを結んだ瞬間、聖なる力が弾けた。爆発的な波動が二度、三度と大気を揺らすと、空に犇いていたバピラスが我先にと撤退を始める。この島を中心として、魔除けの結界が発動したのだ。
「凄ぇな、みんな逃げてく」
 唖然と空を見上げたのち、アレンは炎の柱を見上げてごくんと喉を鳴らした。
「お前のお陰で丸焦げになんないで済んだよ。ありがとな」
 アレンは頭を垂れる犬を撫ぜた。心地良さそうに目を細める姿に和んだその時、地面についた掌にむずむずとした感触を覚える。
「?」
 手を退けた一瞬後、地表が内部から弾けた。ひょこん、と顔を出した若木は瑞々しい双葉を伸ばし、瞬きする合間にアレンの膝の高さまで成長する。
「な、何だこれ」
 アレンが戸惑ううちに泉が湧き上がり、若草が密集する。潅木が生い茂り、蕾が花開く。不毛の地であった岩山は、半刻も経たずして緑滴る南の楽園へと変貌を遂げたのだ。
「太陽の核にしようとしたのも納得ね。凄い力」
「使い方によって周囲を焼き尽くす力にも、命を育む力にもなるということか」
 先刻までの熱気が嘘のような風に髪を靡かせながら、コナンとナナがやってくる。アレンを見下ろすコナンの眉が、ふと不審げに潜められた。
「それにしても、何故ここに階段があることを知っていた?」
「何故って……。匂いかな?」
 犬はアレンの傍らで大人しく尻尾を振っている。
「野性の勘とは凄まじいものだな。呆れるのを通り越して感心する」
「あ、ねえ、あれ見て」
 唸るコナンを尻目に、ナナがアレンの背後を指し示した。
 そこには様相を一変させた炎の祠があった。懇々と清水の湧き出る泉を従え、色鮮やかな花々を纏う姿は神々の住まいもかくやと思われる程。今にこの美しい祠を慕って、数多の命が集い暮らす聖域が誕生するだろう。
「……行ってみよう」
 コナンが先陣を切って木のアーチを潜り、ナナがそれに続いた。若葉が織り成す緑の闇に二人の背が溶けていく。
「俺も行ってくるから待ってろよ。ザハンに帰ったら美味いもの食わせてやるからな」
 バピラスが去った今、外で待たせていても危険はあるまい。犬に言い聞かせたのち、アレンは二人に続いて若木の門を潜る。木漏れ日を散らす道の先には、ドーム状の狭い部屋が広がっていた。
 天井一面に美しい彫刻が施され、それが三つの炎の光を透かして床に複雑な文様を描いている。影と光が織り成す魔方陣が、この島に満ちる力の源であるようだ。昼間は真実の太陽に、夜間は太陽となるはずだった炎によって、未来永劫力を放ち続けるのだろう。
「……何にもいねぇな」
「やっぱり見当違いだったのかしら」
 アレンとナナが顔を見合わせたその時、魔方陣から炎が吹き出した。
 網膜を焼く輝きとは裏腹に、心地良い温もりを宿した炎だった。紅蓮の炎は真綿の如く三人を包み込み、感謝と歓迎の抱擁を繰り返す。やがて炎の一部が体に染み入り、肉と血に馴染んでいくのを三人は感じた。精霊神ルビスを蘇らせる力の一つを手に入れた瞬間だった。
「……太陽の紋章ね」
「うん」
 息づく力を実感しつつもアレンが首を捻る。
「魔方陣が守護者だったのか?」
「いや。恐らくはこの岩山そのものが守護者だ。島本来の姿を取り戻した力を認めてくれたのだろう」
 大地に埋もれていた太陽の紋章は今、末裔達に託された。守護者としての役割を終えた島は今日より、数多の命を育む母として生まれ変わるのだ。


「あれ?」
 祠を一歩出た瞬間、アレンは異変に気づいた。
 風に靡く草花、夜露を宿す潅木、星明りを映す闇色の海。美しい風景は完全なる沈黙に包まれ、周囲に生き物の気配はない。
「どうしたの、アレン」
「あいつ何処行ったんだろ。待ってろって言ったのにな」
「あいつ?」
 コナンとナナは怪訝そうに顔を見合わせた。
「あいつって誰?」
「誰って……犬だよ。一緒にいただろ」
「は?」
 微妙な沈黙を経た後、ナナがアレンの額に掌を押し当てた。二呼吸程して眉を顰め、コナンに向けて小さく首を振る。
「熱はない……となると、何か悪いものでも食べたのか? ザハンには熟れた果物がたくさん落ちているが、腐っている可能性があるから拾い食いはするなとあれ程……」
「拾い食いなんてかしてねーって! ふさふさした茶色いの、一緒に連れてきたろ? 寝惚けてんじゃねーのか、お前ら!」
 かっかと熱くなるアレンに反して、二人は益々冷めた顔つきになった。
「それは僕達の台詞だ。君はさっきから何を言っているんだ?」
「あたし達、犬なんて連れてきてないじゃない」
 アレンはぱちぱちと瞬きをした。示し合わせてからかっているのかとも思ったが、二人の表情は至極真面目だ。
「何言ってんだよ、ずっと一緒にいたじゃん。ザハンからくっついてきて、一緒に船に乗って、階段に案内してくれて……」
 コナンが小さく眉を寄せ、ナナが微かに首を振る。アレンの言葉は徐々に力を失い、最後は口の中に消えた。


 それから二刻ほど島中を捜索したものの、犬の発見には至らなかった。諦めのつかないアレンを岩から引っぺがし、ザハンに戻ってきたのは真夜中を回った頃。それから汗を流して仮眠を取り、カタリーナの家に挨拶にきたところだ。
「……そう。それではこの島での目的は果たせたのね」
 二人より早く屋敷を訪れたコナンは、昼食前の一時をカタリーナとバルコニーで過ごしていた。寝不足でぼんやりする頭に、コーヒーの苦味が染み渡る。
「明朝ザハンを発ってテパを目指す予定だ。やるべきことはまだたくさんあるが、全てが終わったら必ず君に会いにいくよ」
「べ、別にわざわざ会いに来てくれなくたっていいわ」
「それは困るな、僕の予定が狂ってしまう」
 サマルトリアに帰る前に寄るところは他にもごまんとあるが、無論そんなことはおくびにも出さない。カタリーナの手に手を重ねると、彼女の白い頬にはぱっと紅葉が散った。
「まあ、あなたがどうしても来たいというなら止めはしないけど!」
 そっぽを向いたカタリーナが、ちらりと横目でコナンを睨む。
「でもそんな暇があるのかしら? 新しい勇者でありサマルトリアの王位継承者であり……あなたも色々忙しくなるのではなくて?」
「それも人生の一部だ。余裕を持って楽しみながらやるよ」
 微笑み返すと、カタリーナの眉間に小さな皺が寄った。じろじろとあからさまに表情を探られては、さしものコナンも困惑を禁じえない。
「僕の顔に何か?」
「……あなた、何だか変わったわね」
「変わった? 僕は生まれながらにして完璧なナイト、変わるべき要素など何一つないはずだが」
 数多の乙女を魅了する微笑みを投げかけても、カタリーナのペースは乱れなかった。
「お祖父様が仰っていたわ。人は気づかぬうちに良い方向にも悪い方向にも変わっていくものだと。あなたは自分の変化を自覚していないだけではなくて?」
「……成程。そう言われればそうかもしれないな」
 コナンは素直に認めた。サマルトリアへの帰還を決意しただけ、心境に変化が生じていることは確かだ。もしかするとそれ以外にも、彼の知らぬところで何かが変わっているのかもしれない。
「人は自らの変化に鈍感な生き物ということか。どうせ変わるなら良い方向に変わりたいものだな」
「そうね」
 どちらからともなく微笑んだ時、戸口で呼び鈴が鳴った。何時も早起きなアレンが珍しくぐずぐずと寝坊し、ナナと共に遅れてやってきたのだ。
「……アレンが落ち込んでいるなんて珍しいこと」
「岩山で犬を見失ったと言ってきかないんだ。大きな茶色の犬で、金の鍵がついた首輪をしていたらしい。やけに細かく特徴を述べるが、そんなものは最初からいなかった」
「金の鍵……?」
 カタリーナがオウム返しに尋ねた時、アレンとナナがバルコニーに姿を見せた。ナナは何時もと変わらぬ風情だが、アレンの表情は心なしか暗い。
「ねえアレン、あなたの見た犬は赤い首輪をしていなかった? 栗毛の長い毛で、耳は垂れていて、尾はモップのようにふさふさとしていて……」
「お前、あの犬のこと知ってんのか?」
 アレンの顔にぱっと明るさが戻る。カタリーナはやや躊躇いがちに頷いた。
「タシスンお兄様の飼っていらした犬だと思うわ。名前はハリーって言うの」
「ほら見ろ、やっぱ夢なんかじゃなかったろ。さっさと迎えにいってやんないと、今頃腹減らして……」
「でもそんなはずないのよ。ハリーはこの春先に死んでしまったんだもの」
 意気揚々と拳を握った体勢のまま、アレンが凍りつく。
「……死んじゃった?」
「老衰よ。朝になっても戻ってこないから探しにいったら、北側の岩棚で死んでいたの。ハリーはずっとあそこでお兄様を待っていたのよ」
 カタリーナはアレンとナナに椅子を勧めながら、手際よく二人分のコーヒーの準備を始めた。お子様舌の二人に合わせるため、砂糖とミルクも忘れない。彼女はこう見えてよく気の回るタイプなのだ。
「首輪の鍵はルプガナの屋敷のものなの。何時か家族とハリーを連れて帰ろうと、お兄様は鍵をハリーに預けていらしたみたい。それからハリーはずっと鍵を守っていたらしいけれど……お兄様がお戻りになることはもうないし」
「強い想いが残っていたんだな」
 コナンが得心して頷いた。
「魂は大地に留まり、形を持って君の前に現れた。そして君が困っているのを知って助けてくれたんだ」
「けど、何で急に消えちゃったんだよ」
「肉体を失った魂が地上に残るのは極めて不自然な現象だ。悪意がなくても、それは聖なる力に反する存在となる」
「魂が浄化されて安息の園に行ったのよ。きっと今頃、ハリーはタシスンさんの傍にいるわ」
「……そっか」
 アレンは安堵と寂しさの入り混じった気分で頷いた。死して尚待ち続けた主人の傍にいけたのなら、これ以上の幸せはないだろう。彼は愛する主人と共に過ごせる永久の楽園を得たのだから。


 柵の合間から両足を出し、それをぶらぶらさせながら、アレンはもう見えなくなった島の方角を眺めていた。吹き抜ける風からは大地の香りが抜け、ただ潮の匂いが濃く鼻を突く。
 島を出る前、ハリーが眠る墓標に約束通り食べ物を添えてきた。小さな十字架には赤い首輪がぶら下がり、金の鍵が陽光を浴びて輝いていた。ハリーはこうして今でも金の鍵を守り続けているのだろう。
「何で俺にだけ見えたのかなぁ」
 ひとりごとのつもりだった言葉を、潮風に髪を嬲らせていたナナが引き取った。
「ハリーは多分、アレンのことが気に入ったのよ」
「そんだけ?」
 ナナはアレンを見下ろし、風に靡く髪を押さえながらにこにこ笑う。
「それだけで十分じゃない」
「……そうだな」
 アレンは頷き、今一度海の彼方に目を向ける。
 開け放したままの、船室に続く窓から小さな呻き声が聞こえた。カタリーナが編んだセーター……のようなもの……を纏って見送りを受けたコナンは、島が見えなくなった途端暑さで引っ繰り返ったのだ。涼しい船室に放り込んで放置していたのが、ようやく目を覚ましたらしい。
「あ、コナンが復活したみたい。お水でも飲むかな」
 ぱたぱたと立ち去ったナナに続こうと、アレンは柵に手をついて体を持ち上げる。海に背を向けたその時、わんっ、と聞き覚えのある声が聞こえたような気がした。
 弾かれるように振り返った先には延々と続く青い海原。清浄なる陽光を浴びて、きらきらと宝石箱のように煌いている。
「……」
 アレンはにっと口の端を持ち上げ、仲間のいる船室への入り口を潜った。