火の迷宮と水の巫女<1>


 彼方まで広がる海原がタイコーズブルーに輝いている。
 風が吹く都度、海はその色を微妙に変える。目が覚めるように美しい青色は、日と水が齎す奇跡の色だという。七色の陽光を受け止めた海が、青だけを跳ね返してこんなにも美しく水面を染めるのだ。
 末裔達を乗せた船は穏やかな海原に停泊した。この先広く岩礁が広がるため大型船での進入は難しい。三人はここから手漕ぎの小さな船に乗り換えて、地図にも記されぬテパ族の神殿を目指すのだ。
「準備出来たか」
 甲板で潮風を浴びるアレンとコナンに重たい足音が近づく。肩を上下左右に動揺する独特の歩行法でやってきたのは船長だ。
「はい。後はナナの支度が終わるのを待つだけです。長い間お世話になりました」
「縁起でもねぇ挨拶だな。また帰ってくるんだろ?」
 船はこの場で一ヶ月停泊した後、末裔達の帰還にかかわらずルプガナに戻る手筈となっている。三人が行く先で果てた場合を想定し、待機期間を設けたのだ。
「勿論そのつもりですが、けじめはつけておきたいのです」
 コナンがあくまで余所余所しく、且つ優美に一礼するのを見て、船長は音高く舌打ちした。
「相変わらず愛想のねぇ小僧だな」
 乱暴な口調と裏腹に声の響きは穏やかだ。相容れる要素が何一つないコナンと船長の間にも、船上での生活を共にするうちささやかな絆が芽生えたようだ。時は無から色々なものを育んでいく。
「気合入れて行けよ。ここまできてくたばったら、勇者ロトさんの血が泣くからな」
 船長は歯を剥いて微笑み、アレンの頭にぽんと手を置いた。船に乗り始めた頃は頭上から降りてきた手が水平に伸びてくることを、アレンはこの時初めて自覚する。
「最初は王子様やお姫様の世話なんざどうしたもんかと思ったが、お前達の旅に付き合うのは楽しかったぜ。俺らの役目はお前らを無事に国に送ることだ。頼むから最後まで仕事させてくれよ」
 船長の目尻の皺が深くなる。笑っているはずなのに、その表情は何処か寂しげだ。
「旅が終われば俺達は海に帰り、お前達は城に戻る。お前達の顔を見るのもそれで最後と思うと、正直寂しいな」
「んなことねぇよ」
 即座に否定したものの、彼の言葉が正しいことはアレンも知っている。勇者の血を引く王族と海賊上がりの船乗りでは本来住む世界が違うのだ。彼らの人生が一瞬でも交錯したのは、偶然に偶然が積み重なった奇跡だった。
「おっしゃる通り、この旅が終わればお会いする機会は恐らくもうないでしょう。ですがこれから先の人生を、僕達は同じ思い出を胸に生きていきます。旅を振り返る時、頭上には何時でも一続きの空が広がっているはずです」
 コナンが手袋を脱いで、船長に右手を差し出した。
「……それでは行って参ります」
 船長は差し出された手に目を丸くし、それから破顔してそれを取った。形の良い白い手と無骨な褐色の手が握手を交わして別れていく。
 やや寂しげな沈黙が落ちたところへ、ぱたぱたと小さな足音が響いた。旅支度に追われていたナナがようやく姿を見せたのだ。
「ごめんね、お待たせ〜」
 ナナの装いは何時ものそれと違う。テパの神殿で巫女の役目を果たす彼女が纏うのは、ドン・モハメによる水の神衣だ。
 薄水色の羽衣は歩みに合わせて水面のように揺れ、光の波を立てながら裳裾まで流れ落ちる。踝に到達した水は飛沫となって散じ、淡い虹を描きながら宙に消えていく。水そのものを纏っているかのような幻想的な装いだった。
 三人の男が唖然としたのを見て、ナナは戸惑った風に足を止めた。頬の頂が娘らしい恥じらいに見る見る赤くなる。
「え、嫌だな。そんな風に見惚れられたら恥ずかしいじゃない」
 困惑を装いつつも内心の嬉しさを隠し切れないナナである。こんな風に注目されるなんて、お城でお姫様やっていた時以来久しくなかったことだ。充実感に胸膨らませるナナに、彼女が期待していたものとは違う、だがある意味お約束通りの台詞が次々と飛んだ。
「さすがナナ。その衣を纏ってさえ全く色気を感じさせないとは……」
「お前、そんなびらびらしたの着て転ぶなよ」
「きれいなベベ着れて良かったなぁ。どっかのお姫様みたいだぞ」
「……」
 ナナがむっとして押し黙る。コナンは頤に手を当て、陽光を弾く水の羽衣をしげしげと見やった。
「それにしても神秘的な衣だ。ここまでデザインが女性向きでなければ僕も一度袖を通してみたいものだ」
 美しいもの好きのコナンにとって、この世に二つとない水の羽衣はたまらなく魅力的であるようだ。
「尤もこの素材では男性向きでも人を選ぶな。例えばアレンだと、波飛沫を思わせる裾から脛毛がちらちらしてあまりに美しくない」
「お前だって脛毛くらい生えてるだろ」
「馬鹿なことを。常に完璧な美しさを誇る僕に脛毛などない」
 憮然とするアレンの鼻先でひらひらと掌が踊る。
「サマルトリアのナイトたる僕が脛毛ボーボーだったらレディ達が卒倒してしまうじゃないか。……うん? その冷たい目は何だ? 疑っているのだったら見てみるか?」
「見たかねぇよそんなもんっ」
「きれいな羽衣着てていい気分なのに、気持ちの悪い話しないで!」
 アレンとナナが全力でぶんぶか首を振る様に、コナンがふっと微笑みを浮かべる。勝ち誇ったその微笑に二人の苛立ちは更に募った。


 岩礁の透けて見える海を、三人を乗せた小船がきっこらきっこらと渡っていく。広い海域に漂う船は、一枚の木の葉のように小さく頼りない。
「……暑い」
 げんなりとコナンが呻く。
 体中の水分が搾り取られそうな暑さは陽光のせいばかりではない。海水の温度がありえない程上昇し、うっすらと湯気を立てているのだ。汗と湿気で衣が肌に張りつくのがこの上なく不快だ。
「この辺りにもパピラスの巣があんのか?」
「ドン・モハメさんが言っていたろう、聖堂への道は溶岩に守られていると。恐らくこの辺り一面に溶岩脈が走っていて、それが海水を温めているんだ」
「船、止めて」
 不意にナナが押し殺した、だが鋭い声で囁いた。その言葉の意味よりも、彼女らしからぬ声音に驚いてアレンが手を止める。水を押す力が絶えると、船はすうっと音もなく静止した。
「ナナ?」
 ナナは振り向きもせず舳先に立った。湿気を孕んだ風に裾を靡かせながら、じっと海面をじっと見つめている。緊張に満ちた沈黙を置くことしばし、彼女は確信したという風情で頷いた。
「この辺だと思う」
 ナナは小さく纏めた荷物から包みを取り出した。ハンカチの結び目を解くと、美しいテパの神器が陽光の下に現れる。
「しっかり捕まってて。海が割れるから」
 アレンとコナンは顔を見合わせ、ナナの言う通りに体を固定させた。誰に教えられるわけでもなく、彼女は神殿への道程を知っている。その体に流れる血が神殿を求めているのだ。
 ナナは掬い上げるように月のかけらを持った。唇を近づけ、長い睫を伏せ、精霊神ルビスの加護を願って祈りの言葉を紡ぐ。
 突如、何の前触れもなく月のかけらが光った。空から失われて久しい月に似た輝きは、爆発的に広がって周囲をその色に染める。太陽の輝きも空の青さも塗り潰す圧倒的な力が、小船を中心として弾けたのだ。
「うわっ」
 海が内部からせり上がる。反射的に櫂を船上に引き上げながら、アレンは海原に亀裂が走り、それを境として左右に割れていくのを見た。海底から生じた道を目で追うと、遥か前方に白亜の建造物が確認出来る。
「すげーな、あれがテパ族の神殿か?」
「……どうやらそのようだな。なかなか美しい神殿だ」
 コナンは顔に散った水飛沫をハンカチで拭った。
「これ以上外にいたら蒸し焼きになるところだった。まずは神殿に入って一息つこう」
「……おいナナ、大丈夫か?」
 舳先に立ち竦んで微動だにしないナナに、アレンが声をかける。ゆるりと振り返ったナナの呆けた顔には、すぐさま何時もの表情が戻った。
「大丈夫よ、ありがと」
 ナナは微笑み、掲げていた月のかけらを胸に押し抱く。巫女の感謝に答えるかのよう、聖なる神器からはらはらと青銀の輝きが零れ落ちた。