海底に聳えるルビスの神殿は、数多の珊瑚が絡みつき、溶け合い、一塊となって威風堂々と佇んでいる。巻貝めいた神殿の根元にはぽっかり穴が開いており、それが入り口のようだった。 「これがテパの神殿かぁ。変な形してんな」 「そう? かわいいじゃない」 「この神秘性と独創性が理解出来ないとは哀れなことだ」 「大きなお世話だ」 鼻に皺を寄せつつ、アレンは身を屈めて狭い穴を潜る。 巻貝の中には思いの外広い部屋が広がっていた。壁そのものが光を放っているらしく、密閉された空間にもかかわらず内部は明るい。 塵一つ落ちていない床には魔方陣が描かれていた。見たこともない文字が聞いたこともない言語を紡ぎながら、五画の星を形成している。強い魔力が陽炎のように立ち上っているのを感じると、コナンとナナは思わず顔を見合わせた。 「……あからさまに怪しいな。踏み入った途端ドカンと来られると対処の仕様がない」 「でも見て。魔方陣の中央に階段がある。この下に神殿の本体があるのよ」 「避けては通れないか」 コナンが口元を覆いつつ唸った。 「まずこの魔方陣を分析してみよう。どのような魔術が込められているのか調べなくては」 「うん、慎重に行った方が……」 「平気だってこんなもん」 魔方陣にずかずか入り込んだアレンが二人を振り返る。コナンとナナの顎はがくんと膝まで落ちた。 「毎度のことながら少しは人の話を聞きたまえ! 君なら多少のことでは壊れないだろうが、僕やナナはそうはいかないんだ!」 「心配性だなぁ、実際何ともねーじゃん」 生来の性格と魔力を感知し得ない体質の相乗効果で、アレンは魔術に対して極端に恐れを知らない。にかにか笑いながら魔方陣を踵で弾く。 「そんなとこ突っ立ってないで、お前等もさっさと来いよ」 「行き当たりばったりの展開は僕の趣味ではないというのに……」 ぶつぶつ言いながらコナンが魔方陣に踏み入る。魔力が湿気のように肌に纏わりつくが、肉体や精神に影響を及ぼす類のものではないようだ。 二人の少年に続いてナナが進み出た。小さな足が一歩入り込んだ瞬間、海の色をした光が魔方陣いっぱいに満ちる。光はナナの足元に集うと二重の輪を形成し、彼女の体を包み込みながらゆっくりと上昇を始めた。 「あ」 光に吹き上げられた巻き毛に変化が生じた。けぶるような銀の髪から紫の艶が抜け落ち、代わって金の輝きが生まれる。金と銀の交じり合った月光の髪が、ナナの背に滝の如く流れ落ちた。 「髪の色が変わっちゃった……」 「これは興味深いな。……失敬」 コナンはナナの髪を一房摘み、ためつ眇めつ観察する。 「何が起きたんだよ?」 「恐らく、ナナの体に流れるテパの血が、この神殿に呼応したんだろう」 アレンはドン・モハメの家にあったタペストリーを思い出した。青い水の羽衣を纏った金髪の乙女が、荒れ狂う溶岩を従える図柄だ。あれが巫女のあるべき姿を表現しているというのなら、ナナは神殿に認められたのかもしれない。 「歓迎されてるみたいで良かった」 プラチナブロンドをふわりと揺らめかせて、ナナは勝気に微笑んだ。 それは神殿というより、海底深くに巡る迷宮だ。 蟻の巣に似た洞窟の床はごつごつとしていて、ぼんやりしていると思わぬ突起物に足を取られて転びそうになる。外気が遮断されているせいか空気の流れが滞り、乾いた岩の匂いがしつこく喉に絡んだ。 だが末裔達を悩ませたのは、足場の悪さでも埃っぽい空気でもない。外界とは比べものにならぬような、圧倒的な熱気である。 「ザハンなんか問題にならねーな」 「あそこで溶岩が燃えている。熱いのも道理だ」 コナンが示した方向には、ちかちかと赤い光が瞬いている。下層から吹き抜けになった部分から、煮え滾る溶岩の一部が垣間見えるのだ。溶岩の放つ熱風が洞窟を巡回し、ただでさえ篭りがちな空気の温度を高めているのだろう。 アレンとコナンがじっとりと滲む汗を拭う中、一人涼しげな顔をしているのはナナである。 水の羽衣がナナを守っているのだ。ひらひら揺れる裾から飛び散る水飛沫が、薄いベールとなって彼女を包み込んでいるのが肉眼でも確認出来る。 つまりこの洞窟はテパの娘……巫女たる資格を持つ者以外には非常に厳しい環境であるらしい。 「レディに優しいのは喜ばしいことだが、あまりにあからさまな男女差別は美しくない」 コナンのぼやきを聞き流しながら、アレンが目に流れ込む汗を拭う。北国生まれのくせに暑さに強い彼も、この熱気には辟易である。 しばし歩き回った後、三人は比較的涼しい岩場に辿り着いた。何処かに外界への穴が開き、僅かながら風が流れ込んでくるらしい。ささやかな空気の流れが、汗塗れの肌に当たって心地良い。 「僕はこの先の様子を見てくる。君達はここで大人しくしていたまえ」 煮え滾る溶岩と心許ない足場が点在するこの洞窟で、思慮の足りないアレンを制するのは至難と判断したらしい。先遣役を買って出たコナンがマッピング用のメモ帳片手にその場を外した。ひらりと翻るマントの端が岩陰に隠れて見えなくなる。 鬼のいぬ間に洗濯とばかり、アレンはどっかと胡坐を掻き、荷物からスティック状の保存食を取り出した。固焼きのクッキーに似たそれはローレシアでは一般的な携帯食で、材料が手に入った時によく三人で作る。腐りにくく、腹持ちが良く、携帯食にはもってこいの代物だ。 「あ、美味しそ」 傍らに座ったナナが物欲しげにアレンの手元を見つめる。アレンは保存食をナナから遠ざけた。 「自分の食えよ、持ってんだろ」 「けち」 ナナが唇を尖らせると、それきり沈黙が落ちた。 アレンとナナは隣り合わせになってコナンの帰りを待った。水の羽衣が放つ飛沫のお陰で、彼女に面した部分がひんやりと冷たい。 「……ねえ」 「うん?」 静寂を破る囁き声に、アレンは目線だけを動かしてナナを見た。 「やっとここまで来たのね。最後の紋章を手に入れて、ルビス様にお会いして、ハーゴンを倒せばこの旅は終わりね」 ナナは両腕で膝を抱え込み、その上に小さな頤を乗せる。赤い瞳がじっと乾いた地面を見つめた。 「……あたしが生き残った意味って何なんだろうって、ずっと考えてたの」 唐突な言葉にびっくりして、アレンは口の中のものをごくんと飲み込んだ。 「ムーンブルクの人が一人残らず殺されたのに、あたしだけが生き残ったわ。ザラキをかけられても、犬になっても、たくさんの人に助けられて、今日までやってきた」 それはアレンに対してというより、ナナ自身に語りかけているようだった。彼女の眼差しは地面に落ちたまま、心はここではない場所にあるようだ。 「ここであたしがテパの巫女の役割を果たせれば、ロンダルキアまでいけるのよね。ルビス様を復活させて、ハーゴンの奴をけちょんけちょんにしてやれるのよね。あたしが生き残った意味の一つは、きっとそこにあるんだわ」 「……」 「命って、こんな風に一つ一つ意味があるのかな。しなくちゃいけないたくさんのことを抱えて、毎日生きてるのかもしれないわね」 金髪が落ちかかるナナの横顔は何時もより大人びて見えた。全く知らない少女が傍らに座っているような錯覚に、アレンは柄にもなく緊張する。 「そういえば、前にアレンに聞いたよね、アレンにとってローレシアって何かって。答えは見つかった?」 アレンは首を傾げ、しばし置いて小さく首を振る。旅の年月を重ねても、彼はまだその答えを見つけられないでいた。 「うんと……いや、まだ良くわかんねぇかな」 「あたしはね、分かったの。あたしにとってムーンブルクはあたし自身。一度死んで、生まれ変わって、もう一度成長していくんだ。世界で一番素敵な国になってみせる。ローレシアにもサマルトリアにも負けないから見ててね」 ナナはとてつもなく重いものを背負っている。死んでいった人々の想い、生き残った人々の希望、滅んだ国の王女としての義務、生まれいずる王国の女王としての責務。それらを両肩に担いながら微笑むことの出来る強さこそ、彼女がこの旅で得たものなのだろう。 ナナと虚空に落ち着きなく視線を這わせた後、アレンはふと掌を見た。ぱきん、と保存食を二つに割って、口をつけてない方をナナに差し出す。 「食うか?」 ナナは目を瞬かせ、それから頷いた。アレンからの子供っぽい声援を両手で受け止めて微笑む。 「ありがとう」 にこにこと保存食を頬張る姿安心して、アレンは半分になったそれを口の中に放り込んだ。 |