火の迷宮と水の巫女<4>


 長く薄暗いトンネルを駆け続けたアレンとコナンは、やがて地下深く広がる巨大なドームへと出た。
 溶岩がぐつぐつと煮え滾るその上に、大自然が作り出した岩の橋が架かっている。岩は分厚く幅は広いが、逆巻く熱風を感じれば踏み出すことに慎重にならざるを得ない。
「おい、あそこ」
 橋を渡り切った向こう側、ステージのように盛り上がった岩の上にナナの姿があった。零れ落ちる月光の髪が、味気ない岩肌を房飾りの如く彩っている。
「んんっ」
 猿轡を噛まされたナナが、二人に反応して顔を上げた。
「……」
「……」
 アレンとコナンは顔を見合わせ、数秒の沈黙を置いて再びナナに視線を向けた。
 ナナのふっくらした頬には渦巻きが、秀でた額には肉という文字が落書きされている。鼻の下に髭がないのは邪教徒のせめてもの情けに違いない。
「ぎゃっはっはっはっはっは!」
「むー!」
 あまりにマヌケな姿にアレンが爆笑した。怒れるナナがぴょんぴょん跳ねる様が、水揚げされた海老を髣髴とさせてまた笑いを誘う。
「笑うな。あのように無様で屈辱的な目に遭わされたナナの気持ちを考えたまえ。かわいそうにナナ、今すぐ助けに行く!」
 コナンが誠意溢れる眼差しでナナを見つめる。その数秒後、哀れみを湛えていた顔が前触れなくくしゃりと歪んだ。
「……プッ」
「むんがー!」
「おっ、あいつスゲェ怒ったぞ」
「君が失礼な態度を取ったのだから当然だ」
「俺よりお前に怒ってるっぽいけどなぁ」
「それはそうとアレン、おかしいと思わないか」
 無理矢理話を打ち切ると、コナンは鋭く周囲を見回した。
「わざわざ攫ったナナを放置するなんて不自然極まりない。これは僕達を誘き寄せるための罠だ」
「ふーん。あそこに行ったらどうなるんだ?」
「恐らく僕達にとって厄介なことが起こる」
「けどここで突っ立ててもしょうがねぇし」
「その通り。行くしかないということだ」
 アレンとコナンは剣を抜き、溶岩を跨ぐ岩橋に踏み出した。
 立ち込める熱気に息が詰まる。滲む汗は瞬く間に塩の結晶と化した。燃える大地の照り返しに全身を染めて、二人はまっすぐに伸びた道を進んでいく。
 橋の半ばに差しかかった時、岩陰からばらばらと邪教徒達が現れた。眼前の邪教徒を見据えながら背後を探ると、そちらからも人の気配が感じられる。
「これは困った、予想通りの展開だ」
 さして困っている風もなくそう言って、コナンが剣を両手に構えた。アレンはコナンと背中合わせになって臨戦体勢を取る。
 アレンが剣を掲げる先に神官長が現れた。両手を広げ、良く響く声を朗々と響かせる。
「テパの娘よ。お前が我らのためにロンダルキアへの道を開くなら小僧らを見逃してやろう。だがあくまで協力を拒むというのなら……」
 ついと持ち上げられた神官長の杖が輝いた。光は球体に変じて膨れ上がり、網膜を焼く強烈な光を放つ。
「イオナズン!」
 爆裂の力が弾けた。光弾が炸裂した岩盤に穴が生じ、それを中心として幾つもの亀裂が走る。ぱらぱらと零れる石の破片は、溶岩に触れる間際にしゅっと音を立てて蒸発した。
「どうだ? 次は魔術を小僧らに直撃させるぞ」
 狡猾に笑う神官長の杖が、再び皓々と光を灯し始める。
 アレンは敵との間合いを目測した。自慢の脚力を以ってしても一息に跳ぶのは苦しい距離だ。アレンが跳躍した瞬間神官長はイオナズンを放ち、端を崩壊させるだろう。足場が失われれば溶岩の海へ真っ逆様だ。
 アレンの頤から暑さのせいばかりではない汗が滴り落ちた。背中合わせになったコナンからも、徐々に緊張が膨れ上がっていくのが感じられる。この状況から勝機を見出すのは、砂漠の中から針を探すのにも等しい作業に思われた。
 誰もが石像のように凍りつく中、不意に小さな影が動いた。
「うっ」
 神官長に体当たりをしたのはナナである。辛抱強く岩に擦りつけていたロープが千切れ、ようやく自由を取り戻したのだ。
 神官長の手から杖が落ち、魔術が制御を失った。あらぬ方向に発動したイオナズンが頑強な岩壁の一部を粉砕する。
「二人とも早く!」
 邪教徒達の放つバギやベギラマを掻い潜りつつ、アレンとコナンが全速力で走り出した。
「この小娘!」
 怒りに顔を引き攣らせ、神官長が拾った杖を振り上げる。
 アレンがナナと神官長の間に滑り込んだ。ナナを打ち据えようとしていた杖を肩で受け止め、振り向き様に硬く握った拳を突き出す。鉄拳をまともに食らった神官長は吹っ飛び、壊れた人形のように地面に転がって動かなくなった。
「ベギラマ!」
 襲い来る邪教徒達を炎で薙ぎ払い、コナンはへたり込んだナナの手を取る。
「怪我は?」
「大丈夫。でもまだマホトーンが効いてて……」
「そうか」
 ナナを背に庇って、アレンとコナンは居並ぶ邪教徒達に対峙した。魔術を封じられたナナは一応か弱い少女に過ぎない。
「ナナはここに」
 コナンの囁きを合図として、アレンが邪教徒の群れに真正面から突っ込んだ。ロトの剣が銀の軌跡を描くのに一瞬遅れて、迸る血液が空気を赤く染める。胸の悪くなるような血臭が周囲に濃く立ち込めた。
「マホトーン!」
 詠唱に入る邪教徒にコナンが片っ端からマホトーンの術を浴びせた。魔術を封じ損ねた輩が放ったベギラマは、その何倍の勢いで燃える炎で術者諸共包み込んでやる。逆巻く炎の中で、苦悶に喘ぐ邪教徒達が影絵のように揺れた。
 二人の戦う様を、ナナは岩陰に身を潜めて眺めていた。マホトーンの効力は薄れつつあるが、未だ魔術を発動するまでには至らない。彼女の魔力変換能力は強引に眠らされたままだ。
「イオナズンさえ使えたら、あんな奴ら纏めて吹き飛ばしてやるのに」
 歯軋りする彼女の背後で、人影が揺らめいたのはその時だ。
 はっと振り返るより早く、ナイフを握った右手が彼女の喉元に回りこんだ。反射的に硬直したナナの体を、同様に背後から伸びてきた左腕が捉える。ぎりぎりと締め上げられる苦痛にナナの顔が大きく歪んだ。
「動くな!」
 ナナの耳元で放たれた怒声は、剣戟の響きかしがましい戦場に、雷鳴の如く明瞭に響き渡った。


 アレンが弾かれるように視線を向けた先には、神官長に羽交い絞めにされたナナの姿があった。
「……生きてたのか」
 自らのつめの甘さにアレンは舌打ちする。首の骨を折って死んだと思っていた神官長は、実際のところ凄まじい衝撃に失神していただけらしい。頬の骨が砕け、皮膚がどす黒く変色しているが、ナナを押さえ込む程度の余力はあるようだ。
 神官長は狂気を孕んだ瞳でアレンとコナンを睨みつけた。
「……武器を捨てろ。この娘がどうなっても良いのか」
 神官長が更に力を込めると、ナナの柳眉が微かに歪んだ。強気で意地っ張りな彼女のことだから、表情が示すより遙かに大きな苦痛を感じているはずだ。
「何を企んでいるかは知らないが、ナナを殺せばお前達の目標も果たせなくなるのはないのか?」
「この娘は大事な鍵だ、殺しはしない。だが」
 コナンが絶対零度の眼差しを浴びせても、神官長は毫程も動じない。口元ににやりと勝ち誇った笑みを刻むのみだ。
「目を潰す、耳を削ぐ、指を落とす……。鍵として生かしたまま、苦痛を与える方法は幾らでもある」
「……」
「もう一度言う。武器を捨てろ」
 ナナの頬に、ぴたりと白刃が添えられた。
 アレンは断腸の思いでロトの剣を放った。からん、と澄んだ音を立てて、勇者の剣が岩の上に転がる。磨き抜かれた鏡面のような刃が、炎の色を孕んで赤く燃え上がった。
 武器を捨てた二人の少年を、邪教徒達がぐるりと取り囲んだ。異教徒への敵愾心に仲間が殺された怨恨も加わって、膨れ上がる殺気は限度を知らない。恐らく爪を一つ一つ剥ぎ取るような、陰湿な拷問を目論んでいるのだろう。楽には死ねなさそうだ。
 せめて三人は道連れにしてやると、アレンが奥歯を噛み締めたその時だ。
「バギ!」
「何?」
 ナナを中心として風が巻き起こった。ようやくマホトーンから解き放たれた魔力は主の制御を無視し、嵐となって閉じられた空間を駆け巡る。凄まじい突風にまともに目も開けていられない。
「くそっ」
 視界を庇いながら退いた神官長の踵が、ずるりと岩場を踏み外した。痩せた体が傾ぎ、溶岩の海へと吸い寄せられる。
「うわっ!」
 神官長が反射的に掴んだのは水の羽衣だ。
 ナナの力で成人男性の体重を支えられるわけがない。大きくバランスを崩した彼女の体が、神官長と一緒に転がり落ちていく。
 悲鳴を上げる間もなく、ナナは赤く輝く溶岩に飲み込まれた。